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アベノミクスは早急に転換せよ! [現代日本の世相]

アベノミクスは早急に転換せよ!

 1)アベノミクスの息切れ

安倍首相.jpg

 アベノミクスは、大胆な金融緩和、財政出動、成長戦略の「3本の矢」と説明されている。
 そのプランは、日銀による異次元の金融緩和により、円安に導き輸出拡大と、デフレ脱却、2%インフレ目標を実現し、個人貯蓄・企業貯蓄を投資に導き、日本経済を活性化させ、その恩恵の上に賃上げし、消費を拡大し、好循環の経済成長に導くというもの。

 金融緩和により円安と株高は実現したが、国内生産能力の低下から輸出は増えず、逆に貿易赤字が拡大し定着した。輸出企業中心に業績は急改善し最高益を上げているが、企業は国内に投資せず、もっぱら海外市場への投資、M&Aに振り向け、企業内貯蓄を増やしている。国内投資をしないため、経済成長率は上がらない。

 賃上げは、大企業中心に2%賃上げが予定されているが、2014年4月の消費税税3%増を補うものではない。しかも、賃上げは、多くの派遣やパートなど不安定雇用労働者には及ばない。円安による輸入物価上昇と消費増税は、家計の実質所得をすでに損なっている。雇用者全体の報酬改善につながっていないのが実情である。
 したがって、上場企業の業績改善、内部留保増大は、家計部門の実質購買力を犠牲にし、所得移転しただけである。
 
 円安・株高によって、一部企業の収益は増大したが、国民は貧しいままである。その現実を多くの国民は実感しつつある。

 アベノミクス第2,3の矢は、歴代政権が行ってきた政策の焼き直し

 第2の矢は、財政出動であり、災害復興を含め支出したが、ゼネコンや東京電力を救う資金となり、その効果は一過性であり、日本経済の古い体質を延命した。社会インフラ整備は、生産性向上や利便性向上のために行われるべきだが、費用・便益の十分な比較考量なく、既存の受益者への配分のために繰り返されてきた。

 第3の矢は、成長戦略と称しているが、評価するほどの中身はない。言及されているのは「労働規制の撤廃」、「法人税減税」などの反労働者政策であって、日本をいっそう格差社会にし、企業を成長させるもの。

 「15年3月期に上場企業の多くが最高益を上げそう」なのは、日本経済の一部を反映しているだけで、一国全体の姿を映す鏡にはなっていない。多くの普通の日本人が貧しくなったし、未だその過程は続いている。
 これは、アベノミクスの本質的性格である。

 2)アベノミクスの先に何が待っているか?

 日本経済の実力は、潜在成長率の低さで表現される。2010―12年度の潜在成長率は、日銀によると0%の前半台、すなわち0.3‐0.4%程度まで低下している。
 成長率は、「労働者数」、「資本投入」、「生産性向上」で測られるが、10―12年度の潜在成長率(0.3%)の寄与度を分解すると、労働投入が-0.4ポイント、資本投入が+0.1ポイント、全要素生産性(TFP)が+0.6ポイントとなる。

 労働力減少が始まってすでに15年以上の経ち、企業は国内市場に投資せず、民間純資本ストックも09年度以降、まったく増えていない。生産性向上のための大規模な資本投資は行われておらず、生産性も大きく上昇していない。
 ただ、ここへきて降ってわいてきた原油安が、日本経済に有利な要因として働きはするだろう。アベノミクスの破綻が、一時的に延長されるということだろうか。
 劇的に潜在成長率を改善させる方法は存在しないし、潜在成長率が高まっていく状況にはない。

 円安になっても輸出が増えなかったのは、企業が国内投資せず国内生産能力が低下したからだ。13年度以降、民間純資本ストックは増えておらず、日本資本は日本市場に投資する行動をとっていない。国内では軽自動車しか売れず、新車開発において「Ignore Japan、日本市場は無視」と公言している自動車会社の対応が、現在の事態を象徴的に表現している。

 いずれ民間純投資もプラスに転じ民間純資本ストックも増加してくるというアベノミクスのシナリオは、少しも現実のものとなっていない。

 それどころか、潜在成長率はいずれ明確なマイナス領域に入って行く。国民純貯蓄は09年度以降、ほぼゼロまで低下している。一国全体の資本蓄積そのものが止まり、さらに低下し、そのこと自体が民間純投資の制約となり、潜在成長率がマイナスになるだろう。そうなると、「将来の税収では、公的債務は返済不能」であることが広く市場に意識される。

 そのあと劇的な変化が生じるのではないか。
 巨額の公的債務を抱えるなかで、財政・金融政策によりデフレ脱却を目指せば、インフレ率が上昇しても、国債利払い急増を避けるため長期金利上昇を回避せねばならず、ゼロ金利政策や長期国債の大量購入をやめられなくなる。その時期も長くはもたない。

 最終的には、インフレによって公的債務の圧縮を図るところにすすむ。そこはバブルの崩壊とスタグフレーションの長い時期、ギリシャ危機のような人々にとっては苦難の長い時期が待っている。これがアベノミクスの帰結であろう。その前に転換しなければならない。

 3)安倍政治が経済を縛る

 安倍政権には、肝心のグローバル市場戦略が欠けている。中国をはじめアジアの成長力を目いっぱい取り込まない限り、成長はおぼつかない。にもかかわらず、政権の登場以来、歴史問題、「慰安婦」問題をめぐり、周辺諸国と友好的な関係を形成できない事態が続いている。他方、米国主導のブロック経済・TPP加入すれば、米国依存は一層深まりそうである。

 日本のパワーエリートは、米国権力には従わざるを得ないものの、いまだに敗戦の事実を受けいれられないでおり、中国、韓国やアジア諸国を見下している。それが日本を孤立させ、衰退に導く。

 4)アベノミクスに転換迫る

 世界金融危機の後、先進各国で、「労働分配率の低下、資本分配率の上昇」に対する政治的な反発が広がっているものの、政治を転換させる運動にまでには至っていない。先進国のなかでも安倍政権は、成長戦略では法人税の実効税率引き下げ、ホワイトカラーエグゼンプションの一部導入など、企業の資本収益率の上昇を促す施策を打ち出し、明確に資本側に立った政策を掲げている。

 それ以上に、異次元緩和を止めなければならない。日銀は10月31日の追加緩和によって長期金利が急騰する前に、市中発行額の9割に達する長期国債の購入を開始した。本格的な金融抑圧が始まったと言える。

 これまで以上に財政膨張への歯止めが利かなくなる。十分な財源もなく法人税減税が検討され、消費税増税先送りにもかかわらず、増税を財源に予定していた新規の社会保障関連支出の大半は実行される。既存の社会保障関連支出と共に、日銀が国債購入でファイナンスすることになる。継続コストはまったく感じられないから、強い常習性を持ち、必要な時に止められない。

 アベノミクスを早急に転換しなければならない。また、安倍政権は退場してもらわなければならない。  (文責:小林 治郎吉)
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姑息なやり方の見本――厚生労働省2014年賃上げ調査 [現代日本の世相]

姑息なやり方の見本

1)厚生労働省が2014年賃上げ調査を発表

 厚生労働省が12月18日にまとめた賃金に関する調査によると、「2014年の一人平均の賃上げ額は前年より879円多い、月額5,254円だった」と発表した。「率にすると1.8%の賃上げで上昇幅、上昇率ともに比較できる1999年意向で最高になった」(日経新聞12月19日による)としている。
 この調査報告を、TV、新聞ともにそのまま報じた。

 ただ、この調査は、あくまで100人以上の企業についての賃金改定の状況である。100人未満の中小企業は含まれていない、当然のこと賃上げ額は大企業よりも低いことは容易に推定できるが、いくらかはわからない。

2)定期昇給とベースアップを合計した金額を賃上げとして発表

 
 それ以上に問題なのは、発表した月額5,254円の賃上げ額は、定期昇給とベースアップを合計した金額であることだ。厚生労働省は、定期昇給分とベースアップ分のそれぞれの額、または割合を示さないで、定期昇給とベースアップの合計額を「賃上げ額」とした。誤解が生まれるように発表し、TVも新聞もその事実を指摘もしないで誤解を生むように報道した。
 
 定期昇給は、30歳の人が31歳になる1年間で、賃金―年齢カーブにしたがって、上がる昇給である。1年経てば、賃金の高い59歳の人は60歳になり退職し、会社は18,9歳または22、23歳の賃金の低い新卒者を採用する。したがって、30歳の人が31歳になって定期昇給したとしても、会社が支出する賃金総額は、年齢構成が同じであれば、変わらないのである。そのため、賃上げ額として定期昇給分を含めて表示するなら、正確な賃上げ額がわからなくなる。全体としてみれば、勤労者全世帯の収入は定期昇給があっても必ずしも増えたことにならない。
 ただしくは、ベースアップ分を調査し示さなければならない。このようなことは常識である。

 厚生労働省は当然のことそのような常識を知ったうえで、合計金額を賃上げ額として発表した。しかも定期昇給分とベースアップ分のそれぞれの額、または割合を示さなかった。賃上げ率は実際より「高い数字」になる。報告を受け取った者が、誤解するしかないように発表した。
 明らかに意図してやっている。これこそ姑息なやり方の見本というものだ。
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三氏のノーベル賞受賞と中村教授の米国籍取得 [現代日本の世相]

三氏のノーベル賞受賞と中村教授の米国籍取得

 青色発光ダイオードで、赤崎勇・名城大教授(85歳)、天野浩・名古屋大学教授(54歳)、中村修二・カルフォルニア大学教授(60歳)の三氏がノーベル賞を受賞した。

 「三名の日本人のノーベル賞受賞」と騒いでいるが、中村修二氏は米国籍を取得している。正確に言えば、二人の日本人と、一人の米国籍日本人の受賞ということになる。ここ20数年の日本経済は停滞し相対的な地位は低下しており、国際社会のなかでの日本の政治的地位はアメリカべったりのためほとんど重視されていない。日本の国際的地位は低下した。そのようなことを日本社会と日本人は、うすうす自覚しているのであるが、現実を正視したくない気持ちもある。

 日本社会と日本人にとって、ノーベル賞受賞は、何かしら勇気づけるニュース、かつてのプライドを思い起こさせるニュースであり、歓迎するのかもしれない。むしろ、マスメディアはその勇気づけやプライドをくすぐる報道を心がけている。だから報道の目的から外れる中村修二氏の米国籍取得は、とりたてて言及されていない。

 中村修二教授によれば、米国籍取得の理由は、米国では国防総省からの研究費支給、援助額が多く、その獲得のためには米国籍が必要だったと説明した。
 中村教授の米国籍取得理由は、その説明通りなのだろう。そのことを問題にしたいわけではない。

 あらためて注目したいのは、米国では国防総省が関与する研究がいかに多いかということである。開発のめどがたちビジネスになれば、その技術とビジネスは軍産複合体に、売り渡される。軍産複合体にとっては利益を生み出す源泉になる。こういう仕組みが、きっちり機能しているアメリカ社会の現実が、中村修二氏受賞のなかで垣間見えたということである。

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マッチポンプというのだろうか? [現代日本の世相]

マッチポンプというのだろうか?

 安倍首相は、11月9日~17日にかけて、北京、ミャンマー、オーストラリアで開催されたAPEC首脳会議,ASEAN関連首脳会議及びG20首脳会合に参加した。
 この一連の訪問のなかで、何とか形だけではあったものの日中首脳会談はできた。しかし、日韓首脳会談は調整がつかず、できなかった。

 ただ、安倍首相と朴大統領は、会議のあいまに短い会話を交わした。
 11月21日の日経新聞は、「ミャンマーで朴は「韓中日の首脳会談を希望する」と踏み込んだ発言をし、慰安婦問題へのこだわりを安倍に直接伝えた」。他方、「安倍は嫌韓感情が高まる日本の厳しい事情を朴に語った」と報じている。
 また、朴大統領は安倍首相に慰安婦問題の解決を直接伝えたことをもって、達成感のにじむ満足げな表情をし、韓国政府筋は「慰安婦問題の前進は首脳合意だ」と意気込んだ一方で、日本外務省幹部は、「三カ国会談は歴史や領土を議題としない枠組みだ」と予防線を張った、とも報じている。

 いずれにせよ、「慰安婦」問題での対立こそ日韓首脳会談が開催できない最大の要因であることは間違いない。あらためて確認したことになる。であれば、首脳会談が開催されるにはいまだ道は遠いということのようだ。

 その安倍・朴会話のなかで「安倍は嫌韓感情が高まる日本の厳しい事情を朴に語った」という報道を見て、あきれてしまった。

 嫌韓感情を煽ってきたのは、安倍政権そのものだ。
 97年2月に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(2004年2月に「若手」を削除する名称変更)を結成した時から、一貫して「慰安婦」は強制連行ではないから軍・政府に責任はないと歴史をねじまげてきたのは安倍自身である。最近は、権力にすり寄ってくるメディアやネットを通じて、さらに一大キャンペーンを行い、嫌韓感情を煽ってきたのであって、責任は安倍と彼の復古主義にある。

 こういうのをマッチポンプというのだろうか?
 マッチで火をつけてまわって、そのあとポンプで消す、あるいは消すポーズをする。
 よく堂々とこのような発言ができるものだと思う。平気でこのような発言ができる人物だということ、彼の精神構造にあらためて驚いている。
 「安倍の二枚舌」と言ってきたが、そんな批判ではまだ言い足りない気持ちになる。(文責:林信治)

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なぜ、突然の解散選挙か! 「今なら勝てる」 [現代日本の世相]

 なぜか、突然の解散選挙
 「今のうちなら選挙に勝てる! 解散しちゃえ!」(シンゾー)

11月19日TBS .jpg

 1)安倍の都合で衆院解散総選挙

 安倍晋三首相は11月18日夜、21日に衆院解散に踏み切る意向を表明した。首相は争点として、消費増税を1年半先送りする判断の是非を衆院選で問うと語った。
 安倍晋三の言葉を翻訳すると「やばい! 日本経済は景気後退期に入った、アベノミクスはすでに賞味期限切れとなった。今のうちに選挙すれば勝てる。解散しちゃえ!」。
 このように安倍首相が判断したということだ。この先、日本経済はよくなる見込みはない、悪くなるしかない。選挙するなら今のうち。
 それ以上に、衆院解散総選挙の理由はない。

 2)政府のチョウチン持ち、マスメディア

 「解散総選挙」について大手マスメディアの報道は、「大義なき選挙」と論評し、あたかも批判的なポーズをとって見せている。現代日本における政治的争点を、すなわち「大義」をねじまげてきたメディアがそのように言う。
 大手メディア、特に全国紙は、安倍政権に対する根本的な批判をしたことはない、各社横並びで同じ報道、官僚の誘導する秩序だった政権に都合のいい報道しかしてこなかった。
 わたしは、琉球新報や沖縄タイムズの立派な報道を知っているから、全国紙がどんなにひどいかも知っている。沖縄県民の要求に沿った新聞が確かに存在するのに、日本国民の生活と要求に沿った全国紙がなぜ存在しないのか、不思議に思うとともに、怒りさえ覚える。
 安倍政権は何が問題なのか? 日本の行く末にとって何が最も重要な問題なのか? マスメディアはこれまで報道したことがあるか? 国民の目をふさぎ、逸らしてきたではないか? 安倍政権の意向をうかがうだけで、決定的な問題に対する国民が判断するための資料や事実を明らかにしようとはせず、政権の都合のいいように世論を誘導してきたのではないか。
 他方、安倍の復古主義政治路線に反するメディアには、集中攻撃した。朝日非難キャンペーンだ。そのおかげで、より一層各社を委縮させ、横並びで同じ報道、政権と官僚の顔色をうかがう報道になった。
 
 3)本当の争点は何か?

 消費税増税先送りは、はたして争点か? そんなことはないだろう。すくなくとも、小消費税増税中止だ。
 それだけではない。日本社会の進むべき道すじを考える時、本当の争点は、以下の問題だろう。
 
「原発再稼働へと勝手に導いている。これを止めるか否か?」

 ○「消費税増税、法人税減税の動きをやめること、日本を格差社会にしたのに、さらに格差を拡大するのか、これを止めるか否か?」
 
「集団的自衛権行使を閣議決定し、自衛隊を海外で米軍のために戦わせる。この危険な戦争の途に進むのか、止めるのか?」

 ○「秘密保護法で政府が情報を国民に隠す、これを止めるか否か?」

 ○「TPPで日本の主権を喪失させる、これを止めるか否か?」

 少し考えれば、安倍政権になって日本が大きく道を踏み外したことは明らかだ。これを止めなければならない。だから上記問題が衆議院選挙の争点にならなければならない。しかし、奇妙かつ不思議なことに、争点にさえなっていない。

 4)えらぶべき政策を掲げる政党がない

 日本社会の進むべき道すじを考え、争点を示し、しっかりとした対案を提示する野党がほとんど存在しない。
 民主党、公明党、維新の会、次世代の党などは、上記の問題に対案を持っているか? 争点にもしていなければ、対案も持っていない。主張や政策が安倍政権とそんなに違わない。どうしたら政権につけるか、閣僚に加えてもらえるか、そんな事ばかり考えている政治家と政党ばかりが目立つ。そんなものが果たして野党だろうか? 
 日本の政党は、胴体が一つで、頭がいくつかに別れている怪物に過ぎない。どれを選んでも結局は同じになる。これが現代日本の「民主主義」議会制度である。政権の都合のいい結果になるように、官僚が操り、メディアが道を掃き清める。そんなシステムがしっかりと確立してきた。いまや完成形に近づきつつある。現代日本の政治手法の特徴だ。そうして国民は自身の選挙行為で、同じ支配者を選ぶところに誘導される。
 安倍政権は、官僚とメディアを使ってつくりあげた虚構の政権であるという、ウォルフレンの描写はまったく適確だ。

 5)争点なき選挙で、国民は何を選ぶか?

 国民の声を代表しない政治家や政党が多数を占める「民主主義」とは、何だろう。
 日本の民主主義は、すでに機能不全に陥っているというしかない。政治家、官僚とマスメディアによる情報コントロール支配システム(その背後に企業、資本がいるが)の問題点を認識し、これに打撃を与える運動、選挙でなければならない。
 沖縄知事選で、辺野古新基地建設反対を掲げ、翁長候補が当選した。しかし、自民党だけでなく、民主党、公明党、維新の会、次世代の党などは、沖縄県民の声を聞こうとしなかった。選挙結果に沖縄県民の意志が示されても、少しも呼応せず無視している。国民の声に呼応しようとしない、これが日本の政党政治、代議制民主主義の現実なのだ。
 このような制度上の問題点は、わたしは根本的な欠陥だと思うが、衆議院選挙で問題にもされない、指摘・批判もされないとするなら、本当におかしいと思う。(11月21日記)

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朝日叩き、吉田所長の死の利用の仕方 [現代日本の世相]

朝日叩きと吉田所長の死の利用の仕方

 「慰安婦」問題についての最近の朝日新聞叩きは、本当にひどい。産経や読売はすでに新聞とは言えない。時の権力者にすり寄って、権力者の意向をうかがうチョウチン持ちの記事ばかりだ。

 日露戦争の折に、新聞『萬潮報(よろずちょうほう)』は当初、非戦論を唱えていた。しかし、日本社会が開戦に傾くにつれ、社主・黒岩涙香は政府や他の新聞社の批判に耐えかね、黒岩自身と『萬潮報』は主戦論に転じた。主戦論に転じた『萬潮報』は、発行部数が二倍になったそうである。( 他方、非戦論を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三らは退社し、『平民新聞』を起こした。)

 週刊誌、週刊現代、ポスト、新潮、文春のどれをとっても、「慰安婦」はいなかった記事が毎週繰り返されるし、嫌韓、謙中の記事があふれている。安倍政権に競って自分から寄り添い、売上を増やそうとする。最近その程度が特にひどい。人権意識の欠けた記事は、日本社会をすでに大きく変えてしまっている。

 広島市北部の土砂災害地域の何軒かの留守宅に泥棒が入った。ネットでは、「その犯人は朝鮮人・韓国人だ」、「自警団をつくって警備しよう」、「警備に出かけたら目のつりあがった人物を見かけたがあれは韓国人に違いない」・・・・そんな書き込みがあふれている。

 関東大震災が起きた時、軍や警察が煽った事実もあるものの、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「朝鮮人が暴動を起こした」というデマがあふれるなか、普通の一般市民が朝鮮人虐殺した。その情況と驚くほどよく似ているのではないか。背筋が寒くなる。
 人権意識の欠けた、平気で人種差別を煽る、そんな社会に現代日本は急速に変わりつつある。第一の責任は、日本政府にあり、さらに太鼓持ちのマスメディアにある。

吉田調書の利用

 それから、福島第一原発元所長・吉田昌郎の「聞き取り調書」の朝日新聞報道記事をめぐっても朝日は叩かれている。

 原発が爆発する危険な状態になった時、吉田所長が運転にかかわる職員以外にあくまで放射線の少ない地域へ退避するよう命じたが、職員らは吉田所長の意図に反して福島第二原発にまで退避してしまった。この事実を、職務命令違反があったと報じた朝日新聞に、批判が集中している。吉田所長はのちに調書で、事故時は混乱していて退避場所を明確に指示しなかった、考えてみれば避難先として確かに福島第二は適切であったと述べている。
 朝日叩きキャンペーンが準備されており、取りあげられたというのが真相だろう。

 吉田調書をそもそも公表しようとしなかった政府こそまず批判されなくてはならない。政府は、みずからと東電が批判されるのを恐れたのだ。
 吉田調書以外に公表していない事実、資料は、政府内にも東電内部にも山ほどある。そのことをまず批判しなければならないだろう。
 朝日叩きは、目くらましとして利用されている。
 この政権の意図を理解した大手マスメディアは、自発的に朝日叩きに加わり、国民の目をそらさせている。

 調書を読む限り、徹底して批判されなくてはならないのは「東電」であるのは明らかだ。事故が起きて慌てふためいている姿がありありで、事故への対応態勢が全くできていない。今後のためにも、これら政府や東電の対応への批判こそ、マスメディアがまず問題にしなければならないことだ。朝日叩きで、国民の目を意図的に逸らせてはならない。
 
 ちなみに、吉田昌郎所長は食道癌で亡くなった。事故発生の半年後、2011年11月24日に入院し、2013年7月9日、58歳歿。東京電力によると被曝線量は累計約70ミリシーベルト。
 しかし吉田の食道がんは放射線による癌とは認められていない。したがって労働災害とはされていない。米山公啓・聖マリアンナ医科大学医学部第二内科元助教授は「職責からくる極度のストレスが癌の原因ではないか」と指摘しているという。あきれてモノが言えない! 本当に、そう思っているのか! 

 吉田所長の食道癌が労災でないなら、今後、東電社員が癌になったとして、誰が労災になるだろう。急性放射線障害を除けば、誰一人、労災にならないのではないか。ましてや子会社、下請社員の癌の労災などありない。
 東電社員は、この扱われ方をよく見ただろう。誰もが放射線の少ない本店勤務、原発以外の勤務場所を望むのではないか。放射線を浴びながら、決死の覚悟で事故原発の制御を行おうなどしようとしないのではないか。

 特攻隊員の死の扱われ方とよく似ている。
 みずからの命を犠牲にして働いた! 国のため、国民のため、犠牲となったと賞賛する。死者をほめたたえる、賞賛をあふれさせることで、事故の原因、責任追及を逸らさせる。死者をダシにして、本当に責任ある者が逃げおおせる。犠牲にさせた者、事故や戦争を止めなかった者の責任は、いつの間にか消えてしまう。目くらましの術だ。犠牲にされた特攻隊員、吉田所長は少しも尊重されていない。よく似た論理だ。(文責:林信治)

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「武器輸出三原則」を見直し、イスラエルに輸出するのか! [現代日本の世相]

「武器輸出三原則」を見直し
イスラエルに輸出するのか!

 2014年4月1日、日本政府は、「武器輸出三原則」を見直し、それに代わる「防衛装備移転三原則」閣議決定した。「武器」を「防衛装備」と言い換え、「禁輸」を「解禁」にしたのである。「平和貢献・国際協力の推進」、および、日本の「安全保障に資する場合」に防衛装備移転が認められるとしている。
 新原則では「国連安保理決議の違反国や紛争当事国には移転しない」とされているが、例えばイスラエルは「紛争当事国」に該当しないというのが、日本政府の認識である。3月14日、自民党本部で開かれた安全保障関連部会の合同会議では、政府担当者の口から、新原則ではイスラエルへの武器や関連技術の輸出が可能であるという見解が述べられている。

 イスラエルによるガザへの空爆や地上軍の侵攻、住民虐殺は、「紛争」ではないというのだ。
 「戦争に非ず、事変と称す」。かつて満州事変、支那事変と称して、宣戦布告せず事変(実際は戦争)をはじめた国があった。言い訳がよく似ているではないか!

 日本政府は、軍需産業の売上げに貢献し、世界の戦争を増やし不安定化するというなら、はっきりしている。だが、イスラエルへ武器を輸出し、パレスチナ人の殺戮に加担することが、「平和」と「安全保障」に貢献するという政府の日本語は、ごまかし以外のなにものでもない。(7月24日記)

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「沖縄密約」不開示が確定、 最高裁は存在する意味がない! [現代日本の世相]

「沖縄密約」不開示が確定――最高裁第二小法廷

 1)とんでもない判決!

 1972年の沖縄返還時に日米両政府が交わした「密約文書」を、西山太吉さんらが情報公開法に基づき開示を求めた訴訟に対し最高裁(第二小法廷 千葉勝美裁判長)は、7月14日、上告棄却の判決を出した。開示を認めなかった二審・東京高裁判決を支持し、原告側の上告を棄却し、原告側の敗訴が確定した。

 東京地裁一審(2010年4月)では、「文書の重要性は極めて高く、国が保有していると認定できる」とし、開示と賠償金支払いを命じた。
 東京高裁二審(2011年9月)は、密約文書が交わされたことを認めたにもかかわらず、「秘密裏に廃棄された可能性があり、国が保有していると認めるに足りる証拠がない」として不開示が妥当と判決していた。
 最高裁判決は、「沖縄返還の交渉過程で文書が作成されたとしても、不開示決定時点で国が保有していたとは推認できない」と結論づけた。最高裁第二小法廷の4人の裁判官の一致した判断であるという。一審、二審では文書が作成されたことは認めたが、最高裁は作成されたことも明確には触れなかった。
 最高裁判決は、政府・行政側が廃棄などを理由に不開示とした文書について市民の側に「存在」の立証責任を課したものとなる。政府が隠している文書の存在を市民の側が証明することはほとんど不可能である。しかも今回の判決は、文書は存在したとしても、のちに廃棄したとすれば開示しなくていいというものである。廃棄すれば、或いは廃棄したと言えば、開示しなくていいことになる。2001年の情報公開法施行前後に大量の行政文書が廃棄された前例もある。「廃棄」が不開示の理由に使われることになる。
 この判決によって、政府文書を、国民には隠し通し、政府・官僚の思うが儘に扱うことができることになる。官僚としては政府文書を自身の管理下に置くことが権限であると考えていて、こんな権限の拡大に一所懸命になる。

 2)司法がすすんで政府の意向を酌む

 最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長含む4名の判事)は、司法がすすんで政府の意向を酌む意志を表明した判決を書いたのだ。政府の受けはよくなるだろう。「司法が政府・行政をチェックする」ということなど、少しも考えていない。政府の意向、すなわち自身の出世ばかりを考え、上の意向をおもんばかる裁判官(ヒラメ裁判官)ばかりが増えているということだ。しかも、それが最高裁の判事たちだ。

 3)情報は国民の財産

 1972年に「沖縄密約」が作成されたことは、米国国立公文書館の文書公開によってすでに明らかになっている。開示された米国文書を元に西山太吉さんらが、「密約文書」の開示請求訴訟を起こしたのである。
 日本では、政府・行政文書は、各省庁の管理下にあり、官僚は自己の所有物と見なしていて、隠すも小出しにするも官僚の権限として扱われている。
 アメリカの例ばかりを出すのは気が引けるが、米国立公文書館は行政文書に対するすべての権限を保持している(とされる)。すなわちあらゆる行政文書を集める権限をもち、リストを作成し公開し、重要度を分類し公開の水準も決定する。そこに各省庁の意向が反映することはない。

 日本にも国立公文書館はあるが、名ばかりであって職員数は100人余りしかおらず、文書の保管や修復を主に行っているだけで、何の権限もない。各省庁が権限を持っている。各省庁から公文書館へ提出される文書は各省庁が決めるし、公開するかどうかも省庁が決める。

 HIV問題の時に、厚生省官僚が当初は存在しないと言っていた文書が、世論の批判、追及と、菅直人厚生大臣の姿勢もあり、存在を認めざるを得なくなったことがあった。あの「失態」は、日本政府の行政文書の管理の実態をよく表している。
 そもそも文書のリストさえ作成されておらず、何があるか、官僚にしかわからない。求められればその都度探す。都合が悪ければ存在しないと言い、相手国の開示により存在が確認されても後に廃棄したと言い、責任を逃れることができる。捜したが文書はないと答えたHIV問題の時の厚生労働省官僚は、後に何か罰せられたか? 偽装であり、背任にあたるが、少しも罰せられなかった。
 政府文書・行政文書は「国民の財産である」という考えがそこには存在しない。「官僚」は自身の地位と利益を保証するための私有物と見なしている。

 4)国民はないがしろにされている

 2013年に秘密保護法が制定され、今年末から施行される。ますます、政府・行政の情報や文書が国民の目から遠ざけられていって、政府や支配層に占有されることになる。政府・行政のチェックを果たす真の役割を、みずからすすんで放棄するような司法は、何の役にも立たない。

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在特会敗訴とネオウヨの実像 [現代日本の世相]

大阪高裁、在特会に1226万円損害賠償、京都朝鮮学校周囲での街宣行動禁止の一審判決支持

 2009年12月に起きた在特会による京都朝鮮第一初級学校襲撃事件の控訴審判決で、大阪高裁は7月8日、在特会に対し1226万円の損害賠償と朝鮮学校周辺での街宣活動の禁止を命じた京都地方裁判所の一審判決を支持し、在特会側の控訴を棄却した。

 高裁判決では、「国籍による区別」という在特会の主張を退け人種差別であると判断した、さらに、朝鮮学校行っている民族教育の意義を認め、より踏み込んだ判断をした。まともな判決である。

 ただし、未だ解決しているわけではない。子供のなかには「在特会」と聞いたら怯えたり、大きなマイク音に驚いたりする者が幾人かいて、治療・手当が必要だ。被害は救済されてはいないし、補償もされていない。

 日本国内ではヘイトスピーチが大っぴらに行われており、さらにはマスメディアがでたらめな嫌中国、嫌韓国宣伝を行い、安倍政権がそれを煽り利用している。一部の浦和サポーターが「Japanese Only」の垂れ幕を掲げたのも現代日本社会の一つの姿である。決して在特会だけの問題ではない。

 ネトウヨの実像

 また、7月4日付の栃木県・下野新聞によれば、ネット上で「朝鮮人を殺す」「虐殺する」と差別・脅迫の書き込みをしていたハンドルネーム「ヨーゲン」こと佐藤文平容疑者(57)が詐欺容疑で逮捕された。逮捕容疑は、転売が禁じられているソフトウエアの認証コード『プロダクトキー』を転売目的でMS者IDの交付を受けた疑い」

 この事件がネット上で高い関心を集めている。というのは、佐藤文平容疑者は、「ヨーゲン(@Yougen_Sato)」や「佐東幽玄(@H0TSTUF)」のハンドルネームを持つ、よく知られた「ネトウヨ」だったから。匿名で過激な中傷や悪意に満ちた差別を繰り返す「ネトウヨ」の実像が、今回明るみに出た。
 ヨーゲンは、Twitterで日課のように韓国人、朝鮮人、中国人に対する差別的言動を繰り返していた。「在日朝鮮人は密入国者だから本来人権などない。どんどん差別しろ。国連の人種差別撤廃条約の一条二項で国籍区別は人種差別に該当しない。と書かれてある。在日は韓国人だ! 出て行け! 特権階級! これ以上日本人を差別すると虐殺するぞ!」
 また、意見が異なる者に対しては、「お前、朝鮮人だろ!」「反日左翼」と呼んでレッテルを張り、議論しない、というよりできない。ヨーゲンだけではない「ネトウヨ」のワンパターンの反応だ。

 ヨーゲンにTwitter上で敵視・攻撃された一人がジャーナリストの安田浩一氏。在特会の闇を追ったルポ「ネットと愛国」などがある。安田氏はヨーゲンに罵倒されながらも対話を試み、ついには福島県いわき市にある佐藤容疑者の自宅を訪問までした。ヨーゲンは面会に応じず対話を拒否し、警察を呼んだ。
 安田氏は、「粗雑な言葉使い、稚拙な論理から若い人間だと思っていた」そうだが、実際には自分よりも年上の人物だったことに驚いたという。「普通の中年のおっさんが、『金持ちで会社を経営している』と虚勢をはっていた。彼はアパート暮らしで、10代の子どももいます。」「近隣でもあまり評判は良くなく、飲食店に来ていた韓国人女性客に暴言を吐くなどし、出入り禁止になった店もあります。彼は精神的に病んでいたのではないかとも思います。彼の日常は家に閉じこもりがちで、内実と言えばインチキ商売、朝から晩までネットに貼り付き、自分から見て弱い相手に対し執拗に戦いを繰り広げる毎日でした」(IWJから)

 ヨーゲンは、あくまで詐欺行為で逮捕されたのであって、差別や暴言、脅迫についての罪の代償は支払わされてはいない。そして彼と同様のふるまいにおよぶネトウヨは、まだまだ多数存在する。差別や脅迫がとがめられることなく、野放しにされ、被害者が救済も補償もされないような現状は、決して放置されてはならない。
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狭山事件50年、再審を! [現代日本の世相]

狭山事件の再審を!

 今年は狭山事件が起きて50年に当たる。5月13日(月)市ヶ谷アルカディアで、狭山事件の再審を求める集会に参加した。5月23日(木)には日比谷野音で不当逮捕50年集会がある。

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<5月13日(月)、市ヶ谷、アルカディアであいさつする石川一雄さん>

 狭山事件は現在、第三次の再審請求中。何としても再審を勝ちとること、再審にもちこめみ無罪を勝ちとる、これが現在の課題であり、石川一雄さんと私たちの願いだ。
 1974年9月に筆者は、狭山事件の集会に初めて参加し、「石川を返せ!」と叫んだ記憶がある。あれからでも40年ちかい。石川さんは74歳になった。逞しかった体も年相応に少しやせた。年月を感じないわけにはいかない。

 弁護団の請求により129点の検察証拠が開示された。これを裁判所がどう判断するか、再審請求のポイントだ。これまで検察は、持っている証拠を隠してきた。開示請求でジブシブ出してきているが、まだ全部出していない。

 いま、金聖雄監督による映画『見えない手錠をはずすまで』を作成中だそうで、2013秋には完成する。当日、予告編が上映された。なかなかよかった。
 朝もやのなか、入間川サイクリングロードを走る石川さんの姿がいい、仮出獄のまま狭山で暮らしている、結婚もした、家族や支援者と一緒に海水浴をたのしむシーンなどもある、石川さんにもささやかな暮らしができたのだということを知り、観ていて少しうれしくなる。

 といっても、あくまで無期懲役の仮出獄であって無罪ではない。当日も石川さんが、「長生きして無罪を勝ちとる」と決意表明した。無罪を勝ちとって初めて両親の墓に参るという一途な思いも披露した。そのことを目標に生きている。
 石川は無実だ! 狭山の再審を行え! (文責:児玉)

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安倍は、嘘とごまかしで、TPP参加を決めた [現代日本の世相]

 安倍は、嘘とごまかしで、TPP参加を決めた
 
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 3月15日安倍政権はTPP参加を表明した。

1)TPP、すでに交渉の余地はない

 3月4日〜13日のTPPシンガポール会議はすでに16回目であり、TPP交渉はほとんど終了し、10月に締結されるばかりだ。TPP交渉は参加表明をして初めて交渉に参加できる。日本政府のTPP交渉の初参加は2013年9月のみであって、最後の会議である。日本政府の言い分は受け入れられる余地はすでにない。
 3月11日、米国交渉担当官が他の10ヶ国の交渉官の前で、「日本はすでにTPP参加に合意した、カナダとメキシコが参加した時と同様に、すでに確定した項目について日本が要求したとしても、いかなる修正や文言の変更も認められないし、新たな提案もできない」と述べた。
 9月の交渉会合は、TPP交渉国首脳がAPEC首脳会議に集まって「交渉完了」の署名をする10月の直前である。しかも9月会合は、「議長国は米国のため、異論や再交渉の要求があっても、押さえつけることは可能だ」と米交渉担当官は放言している。
 日本は、TPPを一方的に受け入れるしかない。それが参加条件である。安倍はそのことをよく知っていて、日本の官僚もよく知っていて、にもかかわらず、国民にはそのことを一切告げないで、それ以上に騙して、参加表明した。

2) TPP会議の特徴は、徹底した秘密主義

 TPP交渉内容はメディアや市民には公表しない。日本政府も同様で、参加しなければ交渉内容を知ることはできない。他方、利益を得る米系大企業・米政府はその内容をよく知っているし、自身に都合の良いようにすでに決めてしまっている。秘密主義は、人々から批判が集中しまとまらないからである。TPPは利益を上げることに血眼になっている米系大企業たちの会議にほかならない。

3)TPPは自由貿易化でさえない

 アメリカ資本にとって都合の良い法制、取引条件の強要であって、決して「自由貿易化」ではない。自由貿易といいながら、都合のいい自分の商売の仕方、ルールの押しつけであり、米以外の資本に対してはさまざまな規制を設けて妨害してくる。他国には例外なき関税撤廃といい市場開放を強いながら、自分の国の資本には優遇措置を堂々と「わがまま」に主張をしている。「米国貿易緊急会議」(自由貿易推進の団体)のCalman Cohen氏は「日本が例外なしの関税撤廃に合意なら、参加を支持する」と発言している。

 TPPは米主導の対中国経済ブロックの形成を目的にしている。TPPには中国も韓国も参加しない。メリットはないばかりでなく、地域のブロック経済化さえ生じさせる。

4)安倍の二枚舌

 安倍首相は「聖域を設けない」ことを条件に参加を決めたが、その条件自体がウソだ。日本の参加条件は確保されない。安倍の言っていることやっていることは、まったく違う。「明白な嘘で騙す」のは安倍の政治手法である。そのウソに自民党は従っている。日本政府と官僚が知らないわけはない、官僚も知ったうえで、国民に対して「甘いウソ」を言って騙している。

5)TPP参加の理由は「安全保障」??

 TPP参加の理由として安倍は、「安全保障」だと語った。経済協定なのに、安倍政権にはこれが「安全保障」という説明になる。農業その他を切り捨て参加することを安倍自身が知っているから、このような「反論しにくい」、奇妙な言い訳を持ち出す。
 日中間の領土問題の対立によって、日本はより米の傘下に入る方向へとモメントが働き、TPP参加へと進んだ。あたかも誰かが仕組んだかのようである。安倍と日本政府、官僚はその動きを主導した。明らかに仕組んだ。

 米国商工会議所 副会長 Tami Overby氏は次のように語った。
 「日本のできるだけ早い参加を支援する。ただし、交渉の遅滞をもたらさないかぎり」、「日本と米国との間に、自動車、牛肉、保険分野での『信頼醸成措置』を取るという成果を見せなければならない」、「日本はすでに牛肉については成果を達成してくれた」、「韓米FTAを見習うべき」
 2月の安倍訪米時に、米牛肉輸入解禁を「おみやげ」として持って行った。「TPPに入る前に、言いなりになる証明を見せろ!」というわけで、安倍は米牛肉の輸入自由化を手土産に持参し、ご機嫌をうかがった。米牛肉解禁は、TPPに入るため必要な日本政府の一条件であった。

6)「日本の主張など、受け入れる余地などない」

 バーバラ・ワイゼル米主席交渉官は日本の代表団のいない会議で、日本政府の参加表明の前に、「日本政府は『牛肉、保険、自動車』を受け入れる」と語った。日本の主権などまったく無視されている。米政府・米企業の要求に日本政府は、差し出しっぱなしであり、まるで貢物をする奴隷政府である。
 日中の領土問題が紛糾すればことさら都合がいい、安全保障の問題で脅して、日本政府に呑ませるという構図だ。日本には本当に主権がない。安倍政権も日本の官僚たちも、特にひどい。米の意向をよく知ったうえで、すすんで主権を放棄し従っている、まさに「売国奴」である。米にへつらう官僚が、官僚機構の権力を握っているという構図だ。以前の、例えば高度経済成長時の官僚と比べても大きく変質した。

7)TPP参加に反対してきたJA、農民はどうなるのか?

 以前の貿易交渉時と同じで、最後には条件を取って妥協に落ち着きそうである。表向きは反対してきたが、最終的には米、サトウキビで条件を付け妥協するのだろう。政府とJAの懇親会、買収の会合がすでに行われた。自民党は、条件的容認を決めた。自民党議員の多くは、先の選挙でTPP反対し当選したが、ここへきて裏切りへと転向しつつある。最終的には条件闘争になり、「呑む」。自民党のTPP反対派は、「まんまと一杯食わされた」と言いながら、「自分から一杯食って矛を収めた」ということだ。
 毎回見せる自民党議員、JA 幹部の姿である。今回も同じだった。
 自民党対策協議会の外で農協青年部が交渉参加反対を最後まで叫んだが、政府にも、自民党にも、JA 幹部にも、何重にも裏切られたということではないか。
 自民党も、JAも日本の農業、農民の将来など何も考えてはいない。日本の農業、農家は壊滅的な影響を受けるだろう。

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女子柔道暴力問題とAKBスキャンダル―――人権を考える [現代日本の世相]

 女子柔道暴力問題とAKBスキャンダル―――人権を考える

 人権感覚が欠如している全柔連
 柔道の女子日本代表の監督だった園田隆二氏が、全日本柔道連盟(全柔連)に進退伺いを提出し、代表監督を辞任した。
 昨年9月全柔連は、複数の女子選手から指導に当たって暴力を振るうとの告発を受けた。全柔連は、今年1月に問題の存在を認め、園田氏を「戒告」の処分としたが、同氏を女子代表の監督として続投させた。昨年9月の女子選手の告発から5か月経過した今年1月時点でもなお、「暴力問題は大きな問題ではない」と判断し、監督への「戒告」で幕引きを図り、園田氏を女子監督として留任させた。「体罰、暴力問題は、たいした問題ではない。よくあることだ」と全柔連が判断したことが明確にわかる。

 このような全柔連では、ラチがあかないと判断した選手たちがJOCに告発した。ここでやっと取りあげられて、園田隆二氏の代表監督辞任、上村春樹全柔連会長のJOC強化部長辞任へと進んだ(JOC委員は辞任していない)。
 女子選手たちは、実際に全柔連に申し出てもラチがあかなかったので、JOCへの告発行動をとったのである。女子選手たちの行動は、正当かつ当然の行為である。ラチがあかない理事や全柔連は、自身で解決できる体質ではないことを証明したので、相手にしても仕方がない、より上級機関に訴えるしかないのである。

 したがって、全柔連理事の全員が解任されなければならないほどの問題である。全柔連は、暴力事件を見のがし、それ以上に容認した。全柔連の伝統的な体質を示した。現在の全柔連の対応は、批判の「嵐」を何とか首をすくめてやり過ごし、園田監督の辞任、個人的な問題として終わらせたいように見える。

 問題はどこにあるか?
 「事実の有無にかかわらず、複数の女子選手から告発があった時点で、全柔連は組織として、事実として何があったのか、それがどの程度問題なのかについて、十分な調査と検討をすることが必要だった。」と指摘されている。

 確かにその通りである。しかしそれは問題を大きくしないために、ビジネスで言う「危機管理」のためにではない。
 問題解決の前提とされなくてはならないのは、暴力は人権侵害であり、犯罪であることだ。暴言も人格の否定である。女子柔道選手の人権が確保されているか、人格が認められているかである。ここのところを忘れて、問題が小さいうちに摘みとっておくべきであった、あるいは全柔連の権威が守られないとか、オリンピック招致に障害となるなどと心配するのは、問題をはき違えることになる。

 報道によると、監督やコーチらは、素手や棒、竹刀などで女子選手に暴行を加えただけでなく、「死ね」とか「お前なんか、柔道をやってなかったら、ただの豚だ」といった暴言を浴びせることがあったという。
 確かにTVで、園田監督が女子選手を足蹴にしている映像を見た。
 それ以上に、印象的だったのは、松本選手だったと思うがロンドンオリンピックで金メダル獲得の直後、園田監督が松本選手の頭を撫でた映像である。監督と選手の関係を示している、まるで大人と子供である、対等ではない、指導する者とされる者、指示する者と従う者の関係である。一人の人格として扱われていない、私なら頭を撫でられるのは嫌だし拒否する。
 暴力・暴言で指導し、勝ったら頭をなでる! 人格も人権も無視する指導? とにかく強くなって勝てばいい。

 これがスポーツである柔道の「指導」なら、誰しも失望するのではないか?世界で受け入れられないのではないか。
 
 スポーツではなく、「調教」ではないか。犬の調教とどこが違うのだろうか。「犬の調教」とはっきり違うことを示さなければ、柔道はスポーツと言えないのではないか。
 これこそが問題であって、改めなければならない点である。
 重要なことは、全柔連は今までの指導法・体質を間違いであると認め、すっぱりとやめると宣言し、改める態勢・施策をとることができるか?である。

 山下泰裕氏に見る全柔連理事の姿勢
 全柔連の理事の一人であり、選手時代に素晴らしい実績を持つ山下泰裕氏はこう述べている。
 「昨年10月初めに聞いたときは信じられなかった。園田は選手として頑張り屋だったし、指導者としても情熱はある。でも暴力は絶対に許されない。『やめろ』『まずいぞ』と周りが言える雰囲気がなかったことに問題がある」

 しかし、山下氏は全柔連理事であって傍観者ではない、当事者である。「やめろ」「まずいぞ」と言うべき「周り」の一人である。こんな傍観者のように言って、責任逃れしてはいけない。昨年10月の初めに聞いた段階で、事実の確認もせず、対応策も採っていなかったことは、理事として責任放棄である。それこそ「信じられない」くらいの無責任さだ。理事である資格はない。
 今後確実に改めることができるのか、と問いたい。「改める」というなら、何をどうするのか、組織としての態勢を示さなくてはならない。そうでなければ、「信じられない」。
 それができないのなら、山下氏の選手としての実績には敬意を表するが、理事は辞めなければならない。

 全柔連の本心は?
 推測するに、山下氏およびすべての全柔連理事は、現在でも「暴力は絶対許されない」と本心では思っていないのではないか。記者会見するときは、「暴力は許されない」と言わなければならないが、内部では「とにかく強くなりさえすればいい、熱心であれば暴力も許される、選手の人格尊重よりも強くなることが重要だ」という価値観がまかり通ってきたし、今もまかり通っているというのが実情であろう。

 山下理事が、「『まずいぞ』『やめろ』と周りが言うべきだった」という後悔は、問題が小さいうちにつぶしておけ、外に漏れて騒がれたら大変だぞ!という「処世術」として言っているようにしか聞こえない。
 おそらく「暴力・体罰は犯罪である、選手の人権侵害である、人格否定である、したがってやめなければならない」と認識しているからではなかろう。

 これまでの価値観、体質が、容易にあらためられるとは、到底信じがたい。全柔連は、神妙な態度をとっているが、「嵐」が吹き荒れるのをやり過ごす態度ではないか。
 全柔連が「反省」していることは、「問題が小さい時点で握りつぶしておかなかった」という「後悔」に過ぎないのではないか。

 たまたま知名度の高い山下氏の発言を見つけたので取り上げたが、もちろん、この告発を知っていた他の理事や幹部職員にも、同様の問題と責任がある。全柔連は、今年1月に問題の存在を認め、園田氏を「戒告」の処分としたが、同氏を女子代表の監督として続投を決定したのである。この時点でもなお、暴力問題が大きな問題ではないかのように考え、振る舞った。したがって、「人権意識が欠如している、あるいは薄弱である」ことはすでに行動で証明されている。
 全柔連の体質、考え方、事情、態勢は、一朝一夕に改まるとはとても思えない。

 女子柔道監督の暴行事件は、今後もまだ関心を集めて解決まで時間のかかりそうな問題になった。それはいいことである。少なくとも時間をかけ、大きく問題にしなければ、改善しない、根の深い問題だからである。
 現時点の問題は、果たして全柔連という組織が自己解決力を持っているか、である。持っていることを示さなければならない。でなければ再出発できない。自己解決システムを備えたことを、公然と示さなくてはならない。
 もしそれができないなら、解散し再組織するしかない。全柔連理事にその意思がないのなら、あるいは資質において疑わしいのなら、海外から指導者を呼んででも、再組織しなくてはならない。

 世間の柔道に対する支持が失われると心配する人がいる。失われるのが当たり前である。ただ明確にしておかなくてはならないのは、全柔連とその全理事の信頼が失われたのであってm選手への信頼が失われたわけではない。
 従来の全柔連への信頼は失われて当然であり、失われても構わない。
 選手の人格が認められ、人権が守られるように変わることこそが重要であって、これまでの柔道に対する人々の信頼が失われることを恐れてはならない。暴力・暴言を決して許さない柔道と全柔連、人格や人権を認めた柔道と全柔連を、新しく作り直すことだ。それ以外に信頼を取り戻すことはない。

 体罰肯定論も根強く存在する日本スポーツ界、日本社会
 ところで、スポーツや学習の指導における「体罰」をどう考えるか。スポーツの指導だけでなく、職場でも、体罰に近い事例や暴言などは現実に存在するし、上司によるそれについては「パワハラ」(パワーハラスメント)もある。体罰もパワハラも事実が認定された場合、法的には犯罪だ。(事実が認定されないように逃げる巧妙なやり方を追究する者さえいる。いじめ事件で校長や教育委員会が責任逃れするあの構図である。)

 問題は、これまでの日本のスポーツ指導では、体罰や暴言が「有効」であると信じられてきたし、実際にそのような指導を行ってきた。園田監督も暴力や暴言を受けながら柔道を学んできた、したがって、それ以外の柔道の指導の仕方を知らない。
 指導者と選手間には「上下関係」があって、一方的なコミュニケーション、指導者の指示が絶対的で選手は従順に従う関係しか存在しない。そのため「体罰やパワハラに近い指導の下で選手や社員が立派に育つ」と考えるスポーツ界、日本社会がそこに存在する。オリンピック日本代表の選手団のように、選手が「オリンピックう代表からら除外されたくない」と思うなら、指導者に逆らうことができない。

 日本では「強くなる、うまくなる」目的のためには、指導者に絶対的に従わなくてはならない。挨拶から態度まで、指導者に全人格的に従うことを表明しなければ、指導を受けられない実態が存在する。指導者は、人格にまで踏み込んで、指導に従順であることを求める。
 「全人格的に指導者に従うことを求める」のはきわめて日本的である。この関係の上に、暴力・体罰・暴言が横行する。暴力問題は決して容認できないが、これと表裏一体関係にある「全人格的に従うように求める」ことも同時に問題であり、改めなければならないと考える。
 
 元プロ野球投手の桑田真澄氏が言うとおり、「立場上、めったに反撃されない監督や上司や教師が体罰を手段として使うのは、何よりも「卑怯」だし、指導方法として有効でもない。
 しかし、このようでないスポーツの指導も存在する。桑田真澄氏の言うとおり、日本の指導者は精神論ばかりで、その一方で科学的なトレーニングの研究なども20年遅れている。さらに選手へ指示・命令するばかりで一方的なコミュニケーションしかない。欧米では、指導者と選手は対等な関係があって、選手個人の人格を認めたうえで、よく話し合って納得と説得の上に立って自主的に自発的に考え練習するようにするという。

 日本のスポーツの指導は、これまでのスタイルをあらため、変わらなくてはならない。

 AKB48 峯岸みなみの坊主頭
 一方、たまたま時期が同じなのでとりあげるが、AKB48の初期からのメンバーである峯岸みなみさんは、『週刊文春』(2月7日号)で、ダンサーでGENERATIONSのメンバーである白濱亜嵐さんの自宅に「お泊まり」したことの一部始終を報じられた。彼女はそれを受け、AKB48の「恋愛禁止」ルールを破ったことを反省するとして、ほぼ強制的に長かった髪を切って坊主頭にさせられ、動画サイトYouTubeでお詫びを述べる映像を流した。このような対応を取らせたのは、アイドル産業経営者の演出である。
 
 AKB48の「恋愛禁止」ルールが果たして、何の根拠があるのか? 仮に契約時にそのような項目があったとしても、有効なのか?

 明らかに無効である。
 確かに、病院や監獄では一部の基本的人権が制限されることはある。例えば、移動の自由や職業選択の自由などが制限されている。特別権力関係論である、しかし病院や監獄であっても、可能なかぎり人権を侵害しないように配慮し対処するのが最近の学説となっている。

 「恋愛禁止ルール」を本人が納得し契約したとしても、そのような契約は無効である。雇用者はこれを強要できない。さらに、契約違反?の罰則規定自体も無効であるし、それ以上に人権侵害である。だれしも坊主頭にさせることはできない。むしろ強要した者こそ、問題があり、犯罪が成立する可能性がある。

 ここにあるのは、女子柔道選手と同じように、AKBメンバー個々人の人格・人権の軽視、無視である。
 AKB48と 全柔連の違いは、アイドル雇用者の「危機管理」がしっかりしていて、早めに手を打ち、坊主頭に「自主的」にさせて謝罪させ、それを映像で流し「謝罪会見」をもAKBアイドル商売の一つにした。
 全柔連は、もたもたしたが、アイドル産業経営者はスマートに対応した。

 坊主頭での謝罪動画は強烈な印象を与えるものだった。「坊主頭で謝罪」は、あくまで峰岸みなみさん個人の自主的な行為と装っていたが、実際にはアイドル産業経営者が「坊主頭で謝罪」を強要したのであり、巧みに自身の責任を回避し、顔を隠したのである。それどころか「謝罪会見」を宣伝しアイドル商売で注目を集めた。

 そうやってAKB48というプロジェクト、商品の「質」を維持した。そこには人格も人権も無視されている。女子柔道の場合は、「強くなるためなら」と言って無視した。AKB48の場合は、「アイドルとして売るためなら」と言って無視した。よく似ていないか?

 人格無視、人権無視の日本社会の風潮は、女子柔道にも、アイドルにもあるということ。そして、もたもたしているのと、うまく立ち回り誤魔化しているのと二つあるということ。

 そのようにみると、契約社員も人格・人権を無視されて扱われているし、正社員だってそうかもしれない。現代日本には「ブラック企業」なるものが存在している。

 決して、女子柔道選手の問題だけではないとは思うが、しかしこの際女子柔道界だけでもまず、暴力・暴言、人格・人権無視の伝統的体質の撤廃を実現してもらいたい。


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森近運平 「父上は怒り玉ひぬ 我は泣きぬ さめて恋しき 故郷の夢」 [現代日本の世相]

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  <森近運平 NHKテレビより 2012年1月30日放送>

森近運平の生家跡を訪ねる

 2013年1月24日、岡山県井原市高屋町の森下運平生家跡を訪ねた。
 高屋町中心部から高屋川沿いに5,6キロメートル上流にすすみ田や家々が少なくなった山間に、生家跡はある。石碑のみで、すでに生家は残っていない。少し離れて西側の山際に森近一族の墓所がある。

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<墓所から高屋川下流側(南側)を望む、山の向こう側(下流側)に高屋の町はある>
 
 大逆事件(1910年)で幸徳秋水以下26名が逮捕され、12名が絞首刑にされた。処刑されたのは1911年1月24日、管野すがのみ25日。102年目に当たる。
 無期刑とされた12名の多くも獄中で死んでいる。

 刑死者12名の一人が森近運平、岡山県井原市高屋町(当時は、岡山県後月郡高屋村田口)の山里の農家に生まれた。日清、日露戦争の影響で困窮する農民の救済を志し、社会主義草創期を代表する先進的な業績を残した。だが、彼の足跡は30年で消された、とともにその後も「国賊」の烙印のため長く封じられてきた。
 戦後、「大逆事件」は天皇制国家が捏造した権力犯罪であることが明らかになった。しかし再審請求を高裁が1965年に棄却、最高裁も特別抗告を1967年に退けたままである。

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<獄中の歌 「父上は怒り玉ひぬ 我は泣きぬ さめて恋しき 故郷の夢」>

 高屋町の故郷には刑死50年後の1961年に建立された墓や顕彰碑が立つ。
 1961年に「森近運平之碑」(荒畑寒村書)が建立され、碑には運平が処刑前に獄中で残した歌が刻まれている。

「父上は怒り玉ひぬ 我は泣きぬ さめて恋しき 故郷の夢」   とし彦

 「とし彦」とは、堺利彦、彼の書である。

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<「森近運平之碑 寒村書」とある>

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<「とし彦」>

 大逆事件の刑死者たちは、処刑後、墓に葬ることも禁じられた。生家跡近く山際の墓所に墓を建立できたのは半世紀後の1961年。運平の墓には左右後ろの三面に、生い立ち、刑死、建立の経緯まで細かくびっしり碑銘が刻まれている。50年ぶりに建立されたこの墓には、遺族と「森近運平を語る会」の人々の思いも、ともに刻み込まれている。

 わずか30年の人生だが、その足跡は鮮烈である。岡山県庁時代の「産業組合手引」著述、日露戦争に対する反戦運動、「岡山いろは倶楽部」設立。さらに大阪平民社での「大阪平民新聞」発刊、体系的社会主義書とされる「社会主義綱要」著述、・・・・大変な活躍ぶりである。
 碑銘にはないが、片山潜や堺利彦らと国内初の合法社会主義政党「日本社会党」を結成、その際には幹事役も務めた。反戦平和、格差是正、女性解放などの活動の功績もある(田中伸尚『大逆事件』 岩波書店 2010年5月28日刊より)。

 幸徳や堺らは平民新聞で日露戦争反対を唱えた。運平も岡山県職員の時代に、吉備支所で日露戦争公債購入に反対する演説をし、「依願免官」に追い込まれている。
 天皇制政府が大逆事件を引き起こしたのは日韓併合と同じ1910年。日清、日露戦争を経て大陸進出を図り、侵略戦争による領土拡大を推し進める政府は、国内での思想弾圧を強める。戦争遂行体制の整備である。平民新聞は何度も発禁とされ、社会主義者たちは執拗に弾圧される。
 運平は事件前年の1909年には生活も活動も困窮し、社会主義活動の盟友・幸徳秋水と訣別し帰郷した。
 故郷では農学校で培った専門知識を生かし、最先端の温室栽培に挑戦。農業や農村生活の改善運動に励んだ。短い期間ではあったが、地元の人たちに確かな印象を残した。

 そのようななか、事件は起きた。いや、起きたのではない、天皇制政府が引き起こしたのである。思想や言論の弾圧のため、全国の社会主義者、無政府主義者を処刑することを目的として起こした権力犯罪であった。元老・山形有朋、桂太郎首相、平沼騏一郎司法省民刑局長らがシナリオを描き、実行した。

 運平を含む刑死者、逮捕者たちの潔白は、戦後の再審請求とともに深まった研究・調査により、捜査や裁判の不当性とともに、明らかにされた。だが前述のとおり、再審請求は高裁が1965年に棄却、最高裁も特別抗告を1967年に退けた。事件の本質を明らかにすることを、戦後日本の検察、裁判所は拒否した。既存の法秩序、支配秩序が乱れることを嫌い、権力による犯罪であること、冤罪であることを認めようとしなかった。「法の安定性を守る」という「理屈」である。したがって司法は現在もなお、権力が引き起こした犯罪、「大逆事件」に加担しつづけている。

森近運平の妻・繁と娘・菊代 田中伸尚『大逆事件』より.jpg
<森近運平の妻・繁と娘・菊代、 処刑後「たぶん繁子が生家に戻る直前に撮った母子別れの写真」(細井好氏)という。田中伸尚『大逆事件』より>

 処刑の三日前、1911年1月21日、妻・繁子に宛てた手紙からは、運平の「人物の大きさ」が読み取れる。(文末に掲載)

 自身が刑死することを知った運平が、妻や娘にたいする思いやりあふれる言葉を残している。「弱い女」の身である妻に幼い娘を遺して先に逝くことを詫びるかのように述べ、処刑後の遺族に対する迫害を予想したのだろう「胸の裂ける思がする」と記している。「事件の真相は後世の歴史家が明らかにして呉れる」と自身の信念の一端も記したうえで、7歳の娘・菊代には「お前のお父さんはもう帰らぬ。監獄で死ぬ事になった。其訳は大きくなったら知れる」と別れの言葉を残した。(田中伸尚『大逆事件』 岩波書店 2010年5月28日刊より、多くの叙述を引用させていただきました。)
 なかなかこのように書けるものではない。
 
 運平の処刑後、実家に戻った妻・繁は、わずか三年半のちの1914年夏に、娘・菊代は1927年5月30日、23歳で亡くなっている。

 田中伸尚氏は、著書『大逆事件』で、「運平のいう『後世の歴史家』とは、決して専門の研究者だけでなく、広く私たちの社会を指しているのだろう。」と書いている。まったくその通りである。田中伸尚氏の言うとおり、私たちは運平の言葉を一歩踏み込んで受け取らなければならない。
 司法はいまだ「大逆事件」の再審請求さえ拒否したまま放置している。そのような現代日本社会を生きる私たちは、「事件の真相を明らかにて呉れる」という運平の遺言に果たして応えていると言えるであろうか、そのように問わなくてはならない。

 生家跡や墓所に立つと、無実の罪で処刑された運平と、「国賊」の縁者として苦しんだ人らの無念さや怒り、悲哀が、季節の寂寥感とともに伝わる。

 運平の墓の前には、3mはあろうかという逞しい南天の樹が天にむかって奔放に伸びる。
     (文責:児玉繁信)


130124 103年目 森近運平 生家跡 015 「逞しい南天の樹」 (480x640).jpg
<運平の墓の前にある南天>

1911年1月21日、運平から妻・繁への手紙

 「実に世に類なき裁判であった。判決を知った時、御身は狂せんばかりに嘆き悲しんだであろう。まことに思いやられる。それも無理はない。僕は死の宣告によって道徳的義務の荷をおろして安楽な眠りに入るのだが、御身と菊とはこれがために生涯の苦痛を受けねばならぬのである。御身は今まで僕のために苦労ばかりしてくれたのに僕は少しも報いることを得ず、弱い女に幼児を背負わして永久の眠りに就かねばならぬ。アア胸の裂ける思いがする。愛する我が妻よ、人間の寿命は測るべからざるものだ。蜂に刺されたり狂犬に咬まれたりして死ぬ人もある。山路で車から落ちて死ぬ人もある。不運と思うてあきらめてくれ。事件の真相は後世の歴史家が明らかにして呉れる。何卒心を平かにしておもむろに後事を図ってくれよ。(一部略)

 そして葡萄栽培や養鶏などで飾らず偽らず、自然を愛し、天地と親しみ、悠々としてその生を楽しみうるならば、またもって高尚な婦人の亀鑑とするに足ると思う。順境にいては人の力量は分からぬ。逆境に処して初めて知れるのだ。憂事のなおこの上につもれかし、限りある身の力ためさんという雄々しき決心をして、身体を大切にし健康を保ち父母に孝を尽くし菊を教育してくれ。これ実に御身の幸福のみでなく僕の名をも挙げるというものだ。

 菊に申し聞かす。お前は学校で甲ばかり貰うそうな。嬉しいよ。お前のお父さんはもう帰らぬ。監獄で死ぬ事になった。其訳は大きくなったら知れる。悲しいであろうがただ泣いたではつまらぬぞ。これからはおじさんをお父さんと思うて、よくその言いつけを守りよき人になってくれよ。大きくなったらお母さんを大切にしてあげることがお前の仕事であるぞ。
                        一月二一日記 」

‐‐‐‐‐‐
2013年5月8日追記

 簡潔で明確な、上記の手紙は、実質的に運平の「遺書」となった。運平本人は「遺書」と自覚していなかったかもしれない。獄中でまだたくさん書き残すべき多くのことがあったし、そのつもりであった。なにしろ、1911年1月18日に死刑判決が出され、わずか6日後の1月24日に執行されたのだ。

 「妻への手紙」では、運平の人柄の一端をうかがい知ることができる。

 「・・・そして葡萄栽培や養鶏などで飾らず偽らず、自然を愛し、天地と親しみ、悠々としてその生を楽しみうるならば・・・」と書いているのをみても、運平自身が「飾らず、偽らず」生きることを尊重していたと教えてくれる。
 「自然を愛し、天地と親しみ、悠々としてその生を楽しみうる・・・」という叙述も、運平の自然に対する、田畑に対する、農村での暮らしに対する考えでもあるのだろう。これから死刑に処されようようとする人物が、妻と子に対し、「生を楽しみうるならば・・・」と書くのである。

 また別の一節では、きわめて自然にかつ率直に「愛する我が妻よ!」と呼びかけている。 明治の男で、このように率直に「愛する我が妻よ!」と呼びかけた者が、果たして何人いたことだろう。そればかりではない、文面には妻を一個の自立した人として、対等に扱っていることもわかる。それも彼の社会主義思想の一部であったのだろう。この一点だけとってみても、彼が時代のはるか先端を歩んでいたと、うかがい知れる。

 森近運平と同時代人であるわが愛すべき石川啄木は、妻・節子が家出し実家に逃げた時、金田一京助を訪ねるなり、「嬶(かかあ)に逃げられあんした」と語ったという。啄木に比べてさえも、運平の自然で落ち着いた、先進的な考え方が読みとれるのではないだろうか。もっとも、啄木を悪く非難するつもりはない。「大逆事件」の内容と意味を、その起きたさなかに知ろうとつとめ、かつ批判的な考えを書き残した数少ない日本人、啄木である。

 草花の匂いのする社会主義思想家・森近運平、「遺書」だけ読んでも運平が、いかに魅力的な人物であったか、わかるのである。

 
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「アベノミクス」とは何か? [現代日本の世相]

「アベノミクス」とは何か?

 1)「アベノミクス」の効用、すでに賞味期限切れか!
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<安倍晋三自民党総裁、ロイター通信より>

 自民党総裁・安倍晋三が、日銀による国債の無制限買取、2-3%のインフレターゲットを打ち出した。自民党政権に交代し金融緩和がすすむと予想し、市場は1ドル82円台の円安、株価は9500円台(12月7日)に上昇した。
 自分の発言で為替と株価が動いたため、安倍は「アベノミクス」と称して得意気に金融緩和発言をくり返している。
 財政赤字は増大し続け、貿易赤字で経常収支黒字は激減し、GNPは下がり続けている。経済振興策(バラマキ策)を実施しようにも、すでに財政的余裕はない、国債はすでに増発した。「残っている経済施策は、日銀の金融緩和だ」ということらしい。

 「安倍政権になれば、金融緩和する、したがって円安になる、そうすると日本の輸出企業の収益が改善する」こういう「期待」で円安となり、海外投資家が日本株を買い株価上昇が起きた。もちろんその背景には、金融危機は少し遠のいたもののなかなか改善しないユーロ経済、少し改善の兆しは見えたもののまだまだ低調であるのに株価は回復している米経済を比べて、何よりも銀行・金融機関が不良債権を抱えていない日本経済、いずれ円安となると睨み投資する機運を探っていた海外投資資金の「志向」とたまたま時期が一致した安倍発言に反応し、海外投資資金が動いたのであった。安倍発言が原因ではない。

 ただ、「期待」のみで上昇した相場である。もうすでに「アベノミクス」は賞味期限が切れかかっている。その効果は、こののち期待できそうにない。

 2)日本経済停滞原因は「円高」ではない

 そもそも安倍の描くように「円安」に誘導すれば日本経済はすべて改善するわけではない。ただ「円高が問題だ!」と誰もが言って来たので、何が問題なのか冷静な判断・認識が欠けている状況にあると言える。

 ここ数年、日本経済の力は目に見えて後退している。その象徴は、電機産業だ。例え「円安」になったとしても電機産業は以前の地位を取り戻しはしない。ソニー、パナソニック、シャープ、NECなど軒並み赤字であり、売り上げを落している。サムソンやLG、台湾中国企業がその地位を奪っている。(日立や東芝などは強電関係に重点をシフトし黒字ではある。)大手ばかりではない。電子部品産業は競争力を失った。電気産業全体が、かつての繊維産業のような「構造不況業種」になりつつある。
 これらは「円安」に戻っても回復はしないだろう。決して電機産業だけではない。他の機械産業、製造業全般に言える傾向でもある。その兆候は、これら産業において国内新規投資は極めて少ないことに現れている。新規投資が小さければ近い将来の売上は獲得できない。そのような現状であると企業経営者たちは判断しているということだ。したがって、「円安」さえ解決すればすべてが改善するわけではない。

 3)安倍の政治手法

 金融政策をいじっただけで、現在の恐慌、日本経済の停滞が改善するわけではない。ただ日銀を非難して見せるのは、安倍の政治手法である。日銀も財務省も当惑しているだろう。日銀に金融政策を強要して自己は責任を負わない、非難しておけばいい、いろんなマスメディアやネット右翼などなんでも動員して。結果の責任は負わない。
 石原前都知事とよく似ている。「尖閣都有化」を宣言し、日中国交正常化40年を狙い通り、見事に壊した。自動車産業をはじめ多くの損を被った。日本経済そのものがおかげで停滞している。石原はその結果の責任は負わない。
 「拉致問題」の時と同じ手法である。「拉致問題が解決するまで、国交を回復するな!経済制裁しろ!」こういって、「威勢のいい言葉」だけで、国内政治をリードしたが、実際には何尾しなかった。外交交渉しなかったし、できなかった。「六か国協議に期待する」という「他人」に期待するしかないのだ。むしろ意図的に、事態を進展させなかったとさえいえる。はた迷惑な話だ。

 4)本当の危険は何か?

 くり返すが、日本経済がデフレなのは、過剰生産恐慌状態にあるからだ。デフレ状態にあるのは「結果」であって、「原因」ではない。これを金融緩和して人為的にインフレ状態に持っていこうということ自体すでにおかしいし、極めて危険な事態を引き起こしかねない。
 きわめて危険な事態とは何か?
 これまで日銀はすでに金融緩和してきた。その結果、市場にはカネ余り状態が生まれている。しかし、新規事業や新規生産になかなか投資されない。日本市場では金利は低くて投資資金を得やすいのに、投資先がないためにいくら緩和しても投資がすすまない状態が続いている。他方、すでに不動産、リートなどの価格は上昇しはじめた。「バブル」の傾向は部分的に表れている。さらに金融緩和したら、QE2のように新興国に資金は流れ、新興国インフレとバブルを引き起こすだろうが、さらに日本経済をインフレ、「バブル」へとすすめるだろう。バブルと恐慌をくり返すことになる。

 2-3%のインフレターゲットを実現するために「無制限に」国債の買い取りをすれば、特に危険な事態が生まれかねない。次のバブル崩壊=恐慌がどのような様相を呈するか、その爆発を大きくすることになることを言っている。
 2-3%のインフレターゲットを実現すれば、当然のこと金利も上昇する。10年物国債金利は現在0.7%だが、仮に金利が1%上昇すれば1200兆円の国債利払いは毎年12兆円増えることになる。3%上がれば36兆円。国家財政は破綻する。価格は下がり国債を大量に抱えている銀行は一挙に損を抱えて、このルートを通じて金融不安、信用不安・恐慌に行きつく。財政は破綻する。そのツケは最終的に国民に転嫁される。これまでの恐慌よりも財政赤字が溜まっている分だけ、恐慌時の爆発は大きい。国債下落を通じた全面的な金融恐慌を招くルートはすでに確立している。

 「期待」だけで円安・株高をもたらした「アベノミクス」は、すでにこの先の効力を使い切ってしまっており、賞味期限は切れている。これを強行すれば危険な事態へと至る。

 5)どうしてこんな声が出てくるのか?

 どうしてこんな発想が出てくるのか?目先の利益しか考えていないからだ。
 経済振興策は企業へのバラマキだった。バラマキを通じなければ、誰かを儲けさせなければ、復興も復旧さえもできないという構造・関係が相も変わらない。消費税増税も勤労者層からの国家への吸い上げであり、99%から1%への所得移転だ。
 金融緩和・インフレ策も、勤労者層の金融資産が目減りするのだから、同じように1%への所得移転策である。特に60歳以上の薄く広く持つ金融資産、それは社会福祉が貧困なのでため込んだ資産である。(もちろんすべての人が持っているわけではない。60歳以上の三分の一は、資産さえ持っていない。)多くは郵便貯金であり、「ゆうちょ」は国債を買っている。さらにはこれを吐きださせたい。インフレになり金利があがれば、貯金ばかりしておられず「運用」しなければならなくなる。「オレオレ詐欺」と発想はあまり変わらない。
 これを吐きださせて、日本経済を活性化させるという発想なのである。

 「目先の利益しか考えていない」のは、原発も同じで、「石油・天然ガス輸入が増え電力会社が赤字となり、電気料金が上がるので原発はやめられない、再稼働だ」という論理。先のことは何も考えていない。

 このような思考のなかに国民はどこにもいない。国民はいつの時も黙って犠牲を受ける対象として扱われている。
 国民にとって現在に危機が何からくるのか、何が問題なのか、どうすべきなのか、少しも明らかになっていない。

 12月16日の衆院選挙は、かろうじて原発推進か、反原発かの争点とはなった。争点ができたのはよかったが、それ以外は何の争点はない。
 まもなくその日を迎える。(文責:林信治)
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領土問題とナショナリズム――太田昌国氏の講演 [現代日本の世相]

 11月6日、国分寺自労政会館で、三多摩労争連主催、太田昌国さんによる講演『尖閣諸島・竹島問題から考える・・・・・領土問題とナショナリズム』があった。

 尖閣・竹島問題で、うんざりするほど新聞や週刊誌は「ナショナリズム」を一方的に煽っている、そのような報道ばかりが氾濫している。フツーの人の会話のなかにも、ナショナリズムが自然と語られ、中国や韓国にたいする「非難」の声が聞こえてくる。
 そのような状況をどう考え、どう対処して行ったらいいのか? 領土問題に対し原則的にどのように考え対処するべきか、ナショナリズムの氾濫にどう対抗して行ったらいいのか? きわめて重要な問題である。 
 そのような問題意識からすれば、太田昌国さんの講演は興味深い、時宜に適したものだった。
 理解した限りで下記にまとめた、小見出しも付けた。聞き漏らしもある。したがって、文責はまとめた者にある。

太田昌国 講演会 002 (320x198).jpg

ーーーーーーーーーーー
 『尖閣諸島・竹島・・・・・、領土問題とナショナリズム』  太田昌国
 
11月6日、国分寺労政会館


 1)「領土ナショナリズム」の蔓延――石原の尖閣都有化宣言

 4月16日、訪米中の石原都知事が尖閣諸島都有化宣言を行った。極右シンクタンクに招かれたときに「尖閣は、東京都が買い上げる!」と、発言したのである。
 明らかにこれが事件の「発端」である。しかし、多くのメディアは「石原の火遊び」を批判しない。外交権のない地方自治体の長が、尖閣都有化宣言を勝手に提起し外交関係に影響を及ぼすこと自体、とんでもない間違いであり、越権行為である。そのような権限はない。しかし、これを指摘し批判する報道はほとんどない。それどころか、逆に日本政府が引きずられ、野田首相は尖閣を国有化してしまった。これに、中国政府はきわめて激しく反発し批判し、日中関係の対立が続いている。

 日本では「石原批判の無さ」が一つの特徴になっている。背景に、「領土ナショナリズム」が広範に存在している。都が尖閣を購入すると呼びかけたら15億円も集まった。日本社会は、石原の尖閣都有化宣言を大衆的なレベルで支持する動きばかりが目立った。そのことは「領土ナショナリズム」が、日本社会全体に広がっていることをあらためて確認した。「異常」である、「危険性」を指摘する者はほとんどいない。一部インターネット上では、適切な批判も確かに存在する。しかし、その程度でしかない。

 「ナショナリズム」の高揚は、国のなかに多くの問題を抱えているときに、それから目をそらし、海外に敵をつくり、憎悪をあおり、扇動するものである。今回もそれだ。しかし、多くの政治家、安倍晋三自民党総裁や橋下大阪市長らが競って、そのような主張を煽っている。「領土ナショナリズム」が広がった日本では、そのような主張が票になる。

 これに対する「異論」が生まれていない、はっきりとした批判の声、運動が、潮流として生まれてこない。そのことに危機感を持つ。

 2)「拉致問題」時の情況との類似

 このような情況は、10年前の「拉致問題」の時と似ている。あの当時、「北朝鮮」との関係は、「拉致問題」一色に塗りつぶされた。家族会が「拉致問題の解決なしに国交正常化なし」と主張した。その主張はヒステリックに繰り返され、反論や批判を許さなかった。そのため、日朝間での正常な外交交渉ができなかったし、現在までもできていない。交渉なくて解決できるわけがない。

 外交関係を持ち、外交交渉をしなければ、何も解決することはできない。ヒステリックに叫ぶだけで、きわめて非現実的である。実際のところ、どのように解決するか?方針も方法もない。結果は、解決を放棄するものとなった。
 ただ、国内的には、内向きにヒステリックに叫ぶことで、支持を拡大した政治家・政党がある。まるで錬金術のように「拉致問題」を煽れば支持が集まる状況が生まれた。現代日本における政党政治パワーゲームの一つのスタイルである。

 歴史認識を拒否した新たな「ナショナリズム」が醸成され、他方、過去の侵略戦争を反省する声はかき消されてきた。

 「拉致問題」の解決に当たっても、過去の侵略の歴史も含めた歴史的な現実的な対応が必要である。しかし、家族会の言い分に従った日本政府の外交方針は、何の解決ももたらさなかった。10年間何も解決しなかった。

 3)日本国民のなかに広がる「被害者意識」

 日本国民のなかに「被害者意識」が新たに広がっている。それは歴史認識の欠如と裏表一体である。
 日本社会全体が被害者を装っている。そのような「被害者意識」は本当に正しいのか?

 現在の領土問題でも同じように被害者意識が煽られている。侵略した側が、なぜ被害者のようにふるまって、悪しざまに隣国に言うことができるのか。
 現代を生きる日本人全体に「歴史意識」が欠如している異常な情況が生まれている。問題が、完全にすり替えられている。日本政府・外務省、メディアすべて、歴史意識が欠如している。
 したがって、拉致問題と同じように、何も解決できない。
 
 むしろ、「拉致問題」も含め解決することが目的ではない。排外主義を煽って支持を得て政治における主導権を握ることが目的となっている。

 4)真の「領土問題」は、沖縄である

 「領土問題」でこれほど「関心」が高まっているのであれば、140万人もの人が住む「沖縄」をこそ問題にしなければならない。そのように考えなくてはならない。しかし、日本政府は、戦後一貫してこの「領土」を大切にしてこなかった。沖縄の扱いを見れば一目瞭然である。
 沖縄は、第二次世界大戦において、当時の天皇制政府の降伏の決断が遅れたため、大きな被害を被った。
 「領土ナショナリズム」を煽るマスメディアも政治家も、いまだ米軍基地に支配されている沖縄の問題をこそまず解決しなければならない。しかし、何もしない。

 石原都知事は、選挙前の公約に横田米軍基地返還を掲げた。この公約はどうなったのか? 米軍から横田を返還することこそ、まず必要ではないか! 横田を返還せずにおいて、尖閣都有化宣言など、問題のすり替えである。

 5)日本にとっての領土問題は1945年の敗戦処理から始まった

 日本にとっての領土問題は、1945年の敗戦処理から始まっている。連合国は、反ファシズムの戦争に勝利した。連合国は、43年11月27日には米華英によるカイロ宣言、1945年2月4日~11日には米ソ連英によるルタ協定を締結した。ヤルタ協定でソ連の対日参戦が約束された。
 1945年7月26日には、ポツダム宣言がなされた。カイロ宣言の履行である。

 日本が降伏する前に、連合国によって日本の領土が、すでに決められていた。これを承認し受け入れることが、日本の敗戦、降伏の意味だった。
 1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結された。単独講和であり、安保条約の発効とセットだった。

 竹島・尖閣問題は、これら国際的な関係のなかでどう扱われてきたのか、をきちんと見なくてはならない。したがって、日本の近代史、その歴史認識、歴史評価を避けて通ることはできない。

 明治以降、遅れて出発した資本主義日本は、欧米列強に習い帝国主義的領土拡張をはじめた。1869年蝦夷地併合、1879年琉球処分、日清戦争、台湾領有、日露戦争、韓国併合、・・・・・これら帝国主義的な侵略と拡張の結果としての、1945年の敗戦であり、現在の国境の成立である。


  6)侵略者の身勝手な論理:「無主地先占」

 歴史認識として「領土問題」を考えなくてはならない。植民地支配と戦争の問題にかかわってくる。
 「無主地先占」の考え方は、ヨーロッパ列強が大航海時代に植民地を獲得してきた時代の、列強間のルールである。17世紀末から欧州で通用し出したルールであって、侵略者の身勝手な論理である。
 尖閣や竹島領有においても、「無主地先占」の考え方が出てきている。

 他方、第二次世界大戦が終わった後、民族自決、独立の考え方、植民地独立運動が生まれてきた。ある地域がどのような存在としてきたか、「無主地先占」と対立する考え方も生まれてきた。何よりもその地域にずっと住んできた「先住民」の権利がまず尊重されなくてはならない。「先住民の権利尊重」は、新たな、今日の視点である。

 領土問題は、歴史の流れのなかで、位置づけなければ、キチッと理解することはできない。「固有の領土」という言い方がすでに、「ナショナリズム」の表現となっている。

 竹島・尖閣を領有していった歴史的経緯は、明治以降の日本帝国主義の侵略、植民地拡大の動きのなかにある。
 1895年、尖閣を編入した。日清戦争に勝利した直後であり、翌年には台湾を編入している。
 1905年に竹島を編入した。すでに朝鮮李王朝に日本軍・日本政府の支配が入り込み、当時すでに、李王朝は外交権を失っていた。そのような時期に、竹島(独島)を編入した。5年後には、韓国を併合してしまう。

 7)領土問題/ナショナリズムを煽る動きは、アジアでの軍事的緊張を高めるだけだ

 石原知事による尖閣都有化宣言の後、野田政権は、尖閣を国有化してしまった。「国有化」の持つ大きな意味を野田政権はまったく理解していない。そのことで中国政府は大きく反発し、批判している。

 韓国政府・中国政府との対立拡大によって、日本政府は国際的により孤立し、いっそう米国政府に「頼らなければならない」政治状況に押しやられたように見える。それは日本の未来をよりあやういものにしている。

 現在におけるアメリカの軍事戦略は、アジア太平洋に軍事展開し、中国をどのように牽制するか? に一つの重点がある。2年後、オーストラリアに海兵隊基地を持つ、フィリピンに基地を戻したいと狙っている。
 米政府・米軍にとっての「尖閣問題」は、中国軍が太平洋へ出るのを封じ込めるうえで、重要な戦略地点である。

 日本政府は、沖縄に巨大な米軍を置いているのであり、その事実に頬かむりしておいて中国の軍事拡大を一方的に非難することはできない。また、米軍・韓国軍・自衛隊との大規模な軍事演習を行っており、「北」の軍事行動を非難することはできない。

 日本政府と日本社会は、なぜいつまでもアメリカに引き回されて、近隣諸国と対立を強いられ、近隣諸国と友好が実現できないのか、これはなぜか? を考えなくてはならない。

 「領土問題」はまるで外から持ち込まれた問題であるかのように考えがちだが、そうではない。日本社会の特質、外交政策と大きく関連している。
 現代の「領土問題」とナショナリズムは、日本政府と日本社会が世界で孤立するアメリカと軍事同盟を結び、友好関係、依存関係を深めていることと、明らかに関係している。米国は巨大な軍事力を背景に持っているがゆえに、軍事的緊張を高めることで、自国の利益を有利に追求する政策を採っている。日本政府はその戦略に乗っかり荷担する方向に、自国の利害の実現を見出そうとしている。このプラン、方向こそ、危ういのである。

 現代の日本社会における「ナショナリズム」が再生産される社会的要因、基盤が何であるかを冷静に見極め、これに対する批判を展開し批判的な社会的運動を組織することが重要である。(文責:林 信治)

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野田政権に明日はない [現代日本の世相]

野田政権に明日はない!

1)民主党党首選の結果は何を示すか?

 9月21日、民主党党首選で、野田が圧勝した。圧勝したわりに、元気はない。なぜならば、先が見えないからだ。
 党首選での野田の「圧勝」は、確固としたものではない。むしろ不安定な情況を反映している。民主党議員は様子見をしていて、勝ち馬に乗った。来る衆院選挙での浮動票がどこへ動くか、見極めることができない。そんななかで、固定票、すなわち民主党執行部を支える連合などの支持を得ることを考え、とりあえず「寄らば大樹の陰」としての執行部支持である、その結果、見かけ上雪崩を打ったかのような野田の過半数勝利である。すなわち、関心は次の選挙に向いていて、政治的理念などはどこかへ消えて行ってしまった議員が大勢を占めていることを示している。

 
2)民主党政権は政策実行の力を失った

 野田政権が官僚の操る政権であることはますます露わになるだろう。したがって、すぐさま支持を失うだろう。
 政治家は、使い捨ての時代に入った。松下政経塾出身の、軽い、能弁だが信念のない政治家が、一つのタイプとなった。何の当てにもならない、議員になりたいだけの俗物が大量に生産されてきた。したがって、大量に消費されるだけである。

 今回の民主当党首選では、鳩山由紀夫、菅直人、小沢一郎の名前が出なかった。外見上は「世代交代した」、あるいは「すでに出番は消えた」ということか。その通りではあるが、重要なのは別の側面、すなわち官僚がますます実権を握り、これら政治家を退場させた、世代交代させた、ことをみのがしてはならない。

 官僚にしてみれば、別に誰でもいい、官僚の描いた政策を実行し、責任は政治家に負ってもらう、自分たちは絶対に責任を負わない、政治家はどうせ使い捨てなのだから、ということなのだろう。

 民主党政権では、首相が交代するたびに、官僚支配が強まってきた。野田は、検察の協力を得て小沢を排除し、首相の地位を固めた。そのことは、消費税増税させ財務省の権限を強化し、経済産業省の原発現状維持を飲むことに他ならなかった。民主党は、そうして公約違反を重ねることになった。政策実行する力を投げ捨てた。

3)官僚はどのように支配権を獲得したか

 小沢を切ったのは、官僚の支持と協力によるものだ。小沢追放は官僚の利益でもあった。官僚支配打破を掲げた政権交代の頃は、官僚も緊張していたが、今では、落ち着いたもので、自分たちの地位が失われることはないと安心しきっている。

 民主党議員たちを分断し、誰が本当の権力者かを、思い知らせた。そのような意味ではすでに第一幕は終わった。官僚政治打破を掲げた政権交代は、より強固な官僚支配の政治に行きついたのである。
 今では、野田佳彦総理の鼻には鼻輪がついていて、鼻輪には紐がつながっており、紐の先は官僚がしっかりと握っている。権力は、官僚が握っている、そこに独占資本がつながっている、マスメディアも学者も群がっている。
 鳩山由紀夫、菅直人、小沢一郎の時代は、終わった。終わらせたのは野田ではない、官僚である、野田が首相でいられるのは、官僚が支持しているからに他ならない。

4)民主党は官僚の言いなりに、第二の自民党になった!

 政府の支出削減は一向に実施されない。官僚の既得権益を侵害することになるからである。それどころか消費税増税を決めた。財務省の権限を確保した。野田政権はすでに対抗する力を失っている。
 原発事故後も、「原子力ムラ」の支配構造は続いている、原発再稼働は「原子力ムラ」の言うとおりに従っている。この点でも、対抗する力を持っていない。節操もなければ改革する意思もすでに失せた。
 普天間返還に至っては、米国‐防衛省‐外務官僚の言うなりである。それどころか、オスプレイ配備を強行に推し進めている。
 すべての点において、政権交代した意味がなくなった。

5)民主党の存在意義が消えた

 このことは、民主党は、この先「消えるしかない」ことを意味している。死滅、あるいは雲散霧消へ向かって、一直線に進んでいると言っていい。
 衆議院選挙は、民主党有利の情勢ができるまで引き延ばすだろう、すなわち任期いっぱいまで引き延ばすことになるだろう。したがって、この先一年間で、政権交代した時に国民が民主党に寄せたような期待を再度抱くまでに、民主党あるいは野田政権がもう一度変わらなければならないが、すでに変わる力は失ってしまった。その可能性はすでに消えた。
 変わろうとするならば、既存の官僚支配とぶつかることになり、既存の政治勢力は支配しているマスメディアを動員し、既存の官僚機構を利用し、現状維持を固執するだろう、したがって、野田政権自体が存続できない。

 現状のまま官僚に鼻面を引きずり回される野田政権であれば、仮に衆院選挙まで政権を維持できても、次の選挙で大敗し、消えていくしかない。

 そのような情勢を民主党議員たちは敏感に感じとっている。この先民主党からの離党者が続出するだろう。民主党は政権交代時、衆院で300議席以上獲得し勝利したが、すでに70名以上離党した。あと9名離党すれば衆院での過半数を失う。そうすれば、内閣不信任が成立し、衆院解散・総選挙へとなだれ込むことになる。それは、民主党の大敗と分解、自公民の連立政権をもたらすだろう。

 次にできる政権は、民主党・自民党・公明党の連立政権であろう、あるいはそれまでに民主党は分解しているかもしれない。3党連立は当面の多数を確保するかもしれないが、命は短いだろう。なぜなら、何もかわらないからだ。
 政治的信条もなくただ当選することを狙う議員は、橋下維新にすり寄っていくだろうが、混乱させるだけで何も解決する力などないし、上記の官僚支配は変わらない。
 ただ、いずれにしても「先が見えない」、というより「先はない」。

6)反原発首相官邸包囲行動

 既存の政党、政治家はアテにならない。
 反原発で多くの人々が首相官邸包囲の直接行動に参加している。人びとの自主的、自発的行動がこの閉塞を打破するだろう。
 原発に賛成する議員は落せ! 国会議員には、この怒りを徹底的に思い知らせなくてはならない。
 新しい政治的運動こそ必要とされている。「能弁」でコロコロ主張を変える政治家には、もはや何も任せられない。そのような政治、そのような政党はもはや命を終えた。
 民主党政権はすでに交代させなくてはならないが、官僚支配を打破する交代を実現しなくてはならない。
 そのことの追究、模索は、人々があらゆる情報をネットなどを利用し即時に共有する直接的民主主義を実現した、自主的、自発的な直接行動の広がり、発展の先に、実現することができるだろう。(文責:林信治)

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必然性において理解する [現代日本の世相]

 益川敏英の講演が、3月14日 読売新聞で紹介されていた。

 2月25日、ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「次世代へのメッセージ」が大阪・清風学園講堂で行われたという。そのなかで、益川敏英・京都産業大学教授(2008年ノーベル物理学賞受賞)の基調講演が、3月14日の読売新聞で紹介されていて、おもしろく読んだので、その一部を書き抜いてみた。

120321 3月14日読売新聞 益川敏英 (320x256).jpg

――――――――――――――――――
 
 「・・・・・科学がどういうものか説明するために、まず「自由」とは何か?というところからはじめたい。

 目の前に二つのレバーがあり、いずれかを引くと百万円が出てくるが、もう一方を引けば青酸ガスが出て、あなたは死ぬ。「どちらでも自由に、好きなほうを引いてください」と言われたとする。「自由に」と言うが、実はそこに自由はない。ただ偶然に身を任せているだけだ。

 自由とは「こうすればこうなる」という必然性を理解した上で、選択することだ。そして科学は、人類にこの必然性を教え、より多くの自由を「準備する」ものだと言えるだろう。

 ファーブルが「昆虫記」を記した当時、彼が住んでいた仏アビニョン地方では蚕の病気が流行し、主要産業の養蚕業が大打撃を受けていた。政府が派遣した対策団の団長は細菌学を確立したパスツールだった。

 ファーブルは、パスツールが蚕のことをまったく知らないことを知って落胆した。しかしパスツールは、昆虫に精通したファーブルがまったく手を打てなかった蚕の病気を鎮静化させた。

 この逸話から、科学というものの性格がわかる。ファーブルは現象的には非常に詳しいが、原理的なことを知らなかった。パスツールは病気が流行する原理を理解していたから、初めて見る蚕の病気にも焼却処分をするなど対処ができた。つまり、基礎的な科学には、より汎用性があるのだ。・・・・・・」

 そのあとで、「物事を現象的に理解するのではなく、原理にさかのぼって理解することが重要だ。」と述べて
いる。

ーーーーーーーーーーーーーーー

 益川敏英は確かに面白いことを言っている。
 まず、「自由」について言っていることは、適切であると思う。

 最近、コロンビア大学のインド系女性のシーナ・アイエンガー教授が、「選択肢が多い社会が自由な社会だ」と述べている授業を、NHKのETV で、何回か見た。
 「選択肢を選ぶ」「自由」は、益川敏英の言うとおり、本物の自由ではない。単なる偶然である。あるいは、「にせもの」の、見せかけの自由である。ところが米国の一部の大学では、それが「自由」だとおおっぴらに言われている、ということもあるらしい。

 例えば、選挙のおりに「共和党」と「民主党」しかない。選んでいる選挙人のなかには、「自由」に選んでいると思っている人も、なかには幾人かいるだろう。
 先のコロンビア教授は、「選択肢がないよりはあるほうが、自由であるのは確かだ」と言うだろう。何度も繰り返される「自由」についての薄っぺらな講釈だ。

 「選ばされている」というのが、適切かもしれない。そう思っている人もいるにちがいない。
 「自由」と言いながら、極限にまで切縮められた「自由」、贋物に転化している「自由」であろう。

 日本でも事情は、そんなに変わらない。自民党政権をやめ、民主党政権を選択してみたが、何も変わらない。民主党が変えられてしまって、実質何も変わらない。原発は再稼働されそうな状況だし、八ッ場ダムも再開する、消費税は上げられる、子ども手当は出ない・・・・。政権交代してみたら、本当の権力はどこにあるのか、が明らかになった。巨大な官僚機構、政治家、マスメディアそれらが一体となった本物の支配集団が、その姿の一端をあらわした。

 われわれの「自由」が、いつの間にか形式的なものに転化してしまっている。選挙権行使や、その結果としての政権交代さえも、無効にしてしまう「力」が存在し、働いている。

 われわれの「国民主権」は、自身の「自由」を全面的には発揮していない。益川の言うとおり、国民がわからすれば、「必然性を理解した上で、自由を行使しなければ、自由とは言えない」ということであれば、国民主権は、「こうすればこうなる」という理解力を獲得し、本当に変革するプランを見つけ、そうして自身の「自由」を行使しなければならない、ということになろう。

 なるほど、益川敏英の言っていることは、おもしろいし、刺戟的だ。

 それから、パスツールとファーブルの話もまたおもしろい。

 ファーブル「昆虫記」で、昆虫について「現象的には非常に詳しい」叙述をした。それはそれで、貴重で、立派な仕事ではある。しかし、「昆虫に精通したファーブルは蚕の病気に対しまったく手を打てなかった」。
 他方、「蚕のことを知らなかったが、病気が流行する原理を理解していたパスツールは、蚕の病気を鎮静化させた」のである。

 われわれは、おうおうにして「現象」にだまされ、引きずりまわされることが、多い。
 「事実だ、事実だ」と言いながら、本当のところ、自分に、あるいは自分の主張や利害に、都合のいい「事実」を集めて、自身の主張を押し通すことも、そういう人も実に多い。
 気づかずに、そんなことばかり言っている人も、なかにはいる。「事実だ」と言えば、「科学だ」と思い込んでいる人も多い、あるいは誤魔化すことができると考えている人もいる。

 「科学的な装い」をもって、自身の主張と利害を貫きとおすのである。戦後、アメリカから入ってきた実証主義は、その一つでもある。

 素人ながら想像するのだけれど、理論物理学などにおいては、様々な実験結果、実験事実に引きずりまわされることなく、それら結果や事実を必然性において理解することが、何よりも必要なのだろうなあ、などと思う。
 益川敏英は、研究生活のなかでそのような考えを身につけたのだろうか、それとも坂田昌一がそのように言っていて、薫陶を受けたのであるか。もちろん、どっちでも構わない。

 そのようなことは、決して物理学においてだけのことではないだろう。
 そういう力、そういうとらえ方を、私たち自身が身につけなくてはならない。日常生活において、社会生活において、身につけなければならない。

 というようなことを考えたりして、面白く刺戟的に、読んだ。(文責:小林 治郎吉)

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人は簡単に壊れる! 加藤智大被告 [現代日本の世相]

 人は簡単に壊れる!加藤智大被告

 1)3月24日、東京地裁は、秋葉原殺傷、加藤被告に死刑判決

 3月24日、東京地裁は、秋葉原無差別殺傷事件で殺人罪などに問われていた加藤智大被告(28歳)に死刑判決を言い渡した。この事件は2008年6月8日午後0時半ごろ、秋葉原の歩行者天国の交差点に軽トラックで突入し、5人をはねて3人を死亡させ、さらに12人を刃物で刺して4人を死亡させたもの。

 新聞報道によれば、概要は下記の通りである。

 加藤智大被告は、当初「人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと供述し、捜査段階から一貫して起訴内容を認めていた。そのため、裁判では被告の「責任能力の有無」が主な争点となっていた。

 検察側は起訴前の精神鑑定をもとにして「完全責任能力が認められる」と指摘し、「犯罪史上まれに見る凶悪事件で、人間性のかけらもない悪魔の所業」として死刑を求刑していた。
 
 これに対して弁護側は「被告は事件当時の記憶がほとんどなく、何らかの精神疾患があった可能性がある」として心神喪失の状態にあったと主張して死刑回避を求めていた。

 村山浩昭裁判長「白昼の大都会で、多数の通行人の命を奪った責任は最大級に重い。人間性の感じられない残虐な犯行だ」とし、検察側の求刑通り責任能力を認め、死刑が言い渡された。

 判決は動機について、幼少期に「虐待とも言える不適切な養育」を受け、他人と強い信頼関係が築けなくなったことや、友人や仕事を失い、「居場所がない孤独感」を感じていたことが背景にあると指摘している。そのため、「現実より携帯電話の掲示板サイトでの人間関係の比重が重くなったが、サイト上の嫌がらせでネット上の人間関係を失ったと感じ、大きな事件を起こして嫌がらせをやめさせようとした」と分析した。

 ただ、加藤被告自身は、法廷で「携帯サイトの掲示板で嫌がらせをした人にやめてほしいと伝えたかった」と述べ、検察側が動機として指摘していた自分の容姿に対する劣等感や、派遣社員で不安定であることに悩んでいた内容については否定したという。

 判決は「相手のことを全く顧みない、人間性の感じられない残虐な犯行」と指弾した。判決は「個人的事情を理由に無関係の第三者に危害を加えることなど到底許されない」と批判し、「犯行を思いついた発想の危険さ、残虐さ、冷酷さは被告人の人格に根差したものであり、更生は著しく困難である」と述べた。

 事件後、インターネット上に凶悪犯罪を予告するような「模倣」したかのような書き込みが相次ぎ、警察は取り締まりを強化した。加藤被告が犯行に使った両刃のナイフは、所持が禁じられた。

 判決、および上記の報道に見られる日本社会の認識と対応は、果たして進行している現実を把握しているのか、その上できちんと対応したといえるのか、という観点から、大きな疑問・疑念を感じずにはおれない。

 2)「会社に居場所がなくなった

 加藤智大被告は、「会社(派遣先)に居場所がなくなった」と供述した。
 実際その通りであろう。

 加藤被告は、2007年11月から日研総業の派遣社員としてトヨタ系列関東自動車工業東富士工場(静岡県裾野市御宿1200)の塗装工程で働いていたが、2008年5月29日に、1ヵ月後である6月末で契約を解除するという通知を受けている。派遣社員という彼の立場での「契約解除」は、職と同時に住む場所も失う事を意味する。

 彼自身が携帯サイトにこう綴っている。「あ、住所不定・無職になったのか ますます絶望的だ」と。彼が絶望的になっているところへ「ツナギ紛失事件」が起きる。犯行を起こす3日前の6月5日朝、職場へ出勤するもののロッカーにある筈の自分のツナギの作業服がなかった。加藤は、怒って暴れて帰ってしまう。「あるはずの作業着のつなぎがロッカーに無かった、それは自分に会社を辞めろということかと思った」と加藤被告は供述している。このトラブルが無差別殺人の引き金になったようである。

 職を失い、住む場所も失う。職場では一人の人格として扱われていない。取り換えのきく部品であるかのような扱いだ。唯一の「関係」であるネット上でも、声を上げ発信するにもかかわらず、誰からも相手にされない、自分は誰からも認められていない、見られてもいないという焦燥と失望から、もう自分はどうなってもいいという絶望の淵に立つに至ったのである。

 加藤被告は以前から、派遣契約を打ち切られるのではないかという不安を同僚に漏らしている。あるはずの作業着のつなぎがロッカーになかったのを見て「クビになったと思い込む」のは、加藤のような扱われ方をしてきた者にとっては、きわめて「当然な、自然な認識」であろう。実際にこれまで簡単に首になってきたし、そのように扱われてきたから。

 3)まさに「流浪の孤立者」

 加藤被告のたどってきた軌跡をあらためて追ってみよう。
 青森を離れてからの加藤被告の軌跡を追うと、まさに彷徨っている、「流浪の孤立者」である。

2001年3月:県立青森高校を卒業、中日本自動車短期大学(岐阜県加茂郡坂祝町深萱1301)入学
2002年:卒業まで半年になり、突然、地元の国立大への編入希望を出した。受け入れられるはずもない。
2003年3月:中日本自動車短期大学卒業、
2003年7月から2005年2月まで:宮城県仙台市に住む友人宅に身を寄せ、03年暮れに仙台市内の警備会社に契約社員として勤務。05年2月「自己都合」で退社。
2005年4月から2006年4月まで:日研総業派遣社員。埼玉県にある日産ディーゼル工業上尾工場に勤務。
2006年5月から2006年8月まで:茨城県常総市の住宅建材メーカーに派遣社員として勤務。
2007年1月から2007年9月まで:青森市でトラックの運転手として(2007年4月以降は正社員)、 「自己都合」で退社。
2007年11月から2008年6月まで:日研総業に登録、静岡県裾野市の関東自動車工業東富士工場の派遣社員で働いていたが、事件3日前の6月5日に、ロッカーに作業着がないと怒って帰る。6月6日以降は無断欠勤。

 東日本各地を転々としている。加藤智大の孤立した流浪の生活を想像してみよう。とうてい、他の人と深い繋がり、人間関係を持ち、それを育て継続させていくような状況ではなかったろう。

 『流浪の孤立者』。このような働き方、暮らし方をする人は急増してる。
 派遣社員の全員ではないものの、加藤のような孤立した流浪生活を繰り返す人々は多く存在する。現代日本社会ではこの10年急増したし、現在もなお増えている。『流浪の孤立者』は加藤だけの特殊な例ではない。日本社会に広がっている過酷な「働き方」であり、それ以外選択できない追い込まれた人たちが確かに存在する。そのようにいえばすでに日本社会には『流浪の民』は形成されている。かつ『流浪の民』同士は何の繋がり連携も持っていない。孤独な人たちだ。

 4)自分はだれからも認められていない 

 加藤は、自己顕示したかったわけではない、ただ誰でもいいから自分のことを気にかけてほしかった、相手にしてほしかった。濃密な人間関係を取り結びたかった。人は人である限り、人とのつながりを求める。でなければ生きていけない。しかし誰も気に留めてくれない、誰も自分を受け入れてくれない。

 携帯サイトに頻繁に送信される彼のメールを見ても彼の孤立感は尋常ではない。(犯行前半年間、携帯サイトに加藤の送ったメールがネット上に公開されている、加藤がどういう暮らしをし、何を考えていたのか、その一端がよくわかる)。

 携帯メールの送られる時間が、まったく不規則である、ほとんど夜中、多くは明け方に送られている。そのことに驚く。彼がいかに不規則な生活、非人間的な生活をしているかわかる
 
 確かに、人はとりあえず衣食住があれば生き延びることはできる。しかしあくまでとりあえず、である。希望なしに、人とのつながりなしに、生涯にわたって生きていくというわけにはいかない。加藤には、衣食住はとりあえず確保できたが、人とのつながり、人間関係を持たなかった。派遣社員である加藤は、職場では人格を持つ一人の人間として扱われてこなかった。そこには密接な信頼にたる人間関係は形成されなかった。忙しい時には派遣されて働き、暇になれば契約を解除される。取り換えのきく「もの」扱いだ。会社の契約しているアパートに帰れば一人であって、隣人との関係もない。ネット上にしか人間関係は存在しない。

 だから、加藤は唯一の「人間的つながり」である携帯サイトに、「つながり」をもとめ、自らの存在を叫んでいた。『俺のことを見てくれ!』『俺を認めてくれ!』と。

 犯行日近くになると頻繁に携帯サイトにメールを送っている。携帯サイトだけが彼を相手にしてくれる「場」だった。誰かが気まぐれに返信してくれる。気まぐれな返信やコメントだけが、彼の相手だった。しかし、この「関係」は気まぐれで、希薄なものであって、実際のところ、6月8日朝【秋葉原で人を殺します】と「犯行予告をした」にもかかわらず、ネット上の相手は、誰も止めてくれなかった。コメントもなかった。「誰かが止めてくれると思った」と、加藤は後日語ったそうである。

 もともと何のつながりを持たない、職場では人として扱ってくれない、話をする相手もいない。自分が発信するのはネット上だけである。自分は何のために存在しているのか? 存在理由を確認できない。自分は存在しているけれど、誰も必要としていない。誰も見てさえいないし、気にとめていない。こういう生活を続けておれば、人は簡単に壊れる。

 絶望の淵から飛び降りた加藤は、自暴自棄になった。自分はどうなってもいい、もう死んでもいい、死刑になってもいい。それでもいいから、事件を起こしてTVや週刊誌に載ることを最期に期待したのは、『誰か俺を見てくれ! 相手にしてくれ!自分という人間がいたことを認めてくれ!』と強烈に欲したからだろう。

 つながりが希薄な社会のなかでは、「自分は果たして何者なのか?」、本人にもわからない人間ができてくる。人は社会関係の総体であるから、社会関係が希薄になり、相互の人間関係にて感情の表出、ぶつかりを抑え続けて消えてしまえば、人間関係が形式的な儀式・技術に置き換わってしまう、貧弱な人間関係になってしまう。するとそれが、その人になってしまう。希薄なつながりしか持たなければ、「人の内容」が希薄になってしまう。

 人間関係を喪失したら、人は容易に壊れてしまう。貧弱な社会関係しか持たなければ、その人の『内容』も貧弱になる。人は誰からも相手にされなければ生きていくことができない。

 5)判決は何を決めたか!

 3月24日の東京地裁判決は、何を決めたか。
 凶悪な事件を起こしたこの「やさ男」に死刑判決を下し、日本社会から排除することにした。

 全体としてみれば、裁判所と裁判制度は、現代日本社会が生みだしたし、現在もなお生みだしつつある加藤智大のような人物、「壊れた人たち」を、日本社会から排除することにしたのである。

 このことは、日本社会の抱えている病状・問題点に対して、法制度・裁判制度がいかにずれた対応をしているかを示しているだろう。それだけでなく、法制度・裁判制度は、現代日本社会の抱える問題して、それを認識し対処し解決する力を持っていないことを、証明しているだろう。

 このような意味からすれば、加藤を死刑にして排除しても、同じような境遇の人は今現在も大量に再生産されているのであり、判決は「死刑」なる厳罰で脅して押さえつけることを意図しているのであろうが、何の解決にもならない。むしろ「何も解決しない、解決に関与しない」ことを表明していることになる。

 6)人々の反応
 
 テレビのワイドショーで事件が取り上げられるたびにコメンテーターが発するのは「どうしてこんな凶悪な事件が起きたのか?」という対応である。そして「いかに特別な事件であるか! 犯人がいかに特別な凶悪な人物か! あるいはこんなにも怪しい、奇異な、普通とちがう人物であるか! 生い立ちや家庭環境や教育からしてもともとおかしい 」・・・・・・・こういう結論(にならない結論)で繰り返し塗りつぶして、「ひと騒ぎ」して終わりである。

 あるいは、ネット上の反応をみると、加藤被告に対して「こんな事件をおこしたらどうせ死刑なのだし、死にたかったら一人で死ね、俺たちとはまったく違う奴」という言葉、感情を投げつけるのが一つの傾向のようである。

 加藤に対して厳しい非難の言葉を投げつける反応が極めて多い。「とうてい理解しがたい、愚かな人物」と描き出す。自分とは全く違う人物と描きだしたいようである。加藤を「理解する」以前に、強い調子の「拒否反応」を示している。おそらくこのような反応は、自分は「そうなってはならない」という拒否反応(あるいは、自覚しておれば自戒)からくる面が多く混じっていると思われる。

 ネット上で見て驚いたのだけれど、「加藤は在日朝鮮人」という書き込みが氾濫している。理解しがたい人物は「在日朝鮮人」と決めつけて排除する、このパターン化した「対応」である。というよりはこういう「心情」は、崩壊していく日本社会なかで日々迫ってくる自身の「不安」、焦燥、苛立ちを、受け止め理解し対処するのではなく、目の前の誰かを敵か原因にみたて排除しようというものであろう。排外主義的な方向への組織化していく危険な動きに利用されかねない。社会の内部の自分ではない別の人びとを敵と見立て対立を引き起こし、ある部分を排除していく志向を表現している。

 いずれにせよ、これも加藤を「理解しがたい人物」として描き出す「心情」の背景をなすものであろう。そうして「自分とは違う」という結論を導き出して少し安心するのである。

 われわれは、加藤智大を「理解しがたい人物」として描き出してはならない。彼を理解しなければならない。現代日本社会をとらえている病の産物である。

 7)メガネをかけた「やさ男」 

 加藤智大は、凶悪犯というにはあまりにもイメージが異なる。加藤はどう見ても「やさ男」である。一見して決して「凶悪」という印象ではない。

 より正しく言えば「壊れた人」。何かひ弱な、自分の居場所を持たない、あるいは奪われた人たち、現代日本社会から「排除」「疎外」された人たちの、最後の反抗、あるいは暴発であるように見える。「自暴自棄」的に、緊急避難的に見ず知らずの人を傷つけて、破綻した自身を死刑にして、この生活を終わらせたいと妄想した。そのことを通じて自身の存在を認めてもらいたかった。

 加藤智大のような人物は、現代日本社会が生みだした一つのタイプであることに間違いはない。

 自分はだれからも認められていない、受け入れられていない。

 このように言うのは、7人もの殺傷事件を起こした加藤の犯行を擁護しているのではない。これは明白な犯罪ではある。被害者は何の関係もないのに殺害されたし、傷つけられた。こんなに理不尽なことはない。
 
 問題にしているのは、事件がどうして起きたのか、その解決には何が必要か、考え対応しなければならないということだ。加藤の破綻は、日本社会の欠陥を体現している。

 加藤のような人物は、不安定雇用低収入の孤立する単身者が急増する現代日本社会が生み出したものであることもまた間違いない。加藤のような人物がどのようにして形成されてきたのか、ということである。加藤の犯行は「特別」であろうが、彼のような生活を送る人たちは、決して特別ではない。むしろ一般的なタイプであり、多数存在する。

 押さえつけられ支配されてきたこの人たちは、自己と自己の権利を主張する術を持たない、その資質まで失ってしまう。何か問題が発生したとき、これを解決する術、解決する上でのまわりとの関係、人間関係、社会関係をもたない。リセットするしかない。「無断欠勤」、「自主退社」して、他の派遣に移るしかない。そうして孤立した「流浪の民」に加わる。(「無断欠勤」、「自主退社」という言葉は、会社には責任はなくて、派遣社員当人の「自己責任」という意味をその内にすでに含んでいる。)

 そのうちの全員ではない極少数の者が、リセットという解決でない解決を繰り返すことができなくなった者の一部が、最後に「自爆的」に「壊れて」しまったのだ。事件を起こしたから、「顕在化」した。しかし、事件を起こしていない人は、私たちの周りに既にいっぱいいる。顕在化したのは、氷山の一角である。加藤のように暴発して人を傷つけるのではなく、「壊れて」自殺した人はより多くいるだろう。自殺未遂した人は、さらにその数十倍はいるだろう。これも同じ社会的病状からくる。その原因は底部において重なる。

 「自爆的」に「壊れて」しまったから、初めて注目するべきなのではない、問題視するのではない。事件を起こさない多くの人たち、その多くの人たちを生みだしつつある現代日本の社会関係をこそ、問題にしなければならない。

 日本人の自殺者が年間3万人を超えて久しいが、このうちのある部分は、加藤のような「だれからも認められていない、受け入れられていない」人たちであろう。この二つの現象は「対」としてとらえるべきと判断べきであると考える。「顕在化」していないさらに多くの「だれからも認められていない、受け入れられていない」人は、たくさんいる。日本社会のなかで自分を発信する機会も少なくしか持たず、その術を身に着けることができなくて、黙って孤独の中を生きている人はたくさんいる。それぞれが日々、一所懸命生きている。

 そこには格差社会日本における新しい階層階級の支配―被支配関係がズシリと重くのしかかっている。格差社会日本では、人と人との関係を、正社員と派遣社員の関係に変えてしまう。それに連なる支配―被支配関係、搾取する人間の搾取される人間に対するむき出しの支配に置き換える。派遣社員のうちのある部分は、希薄な人とのつながり持つことができず、使いまわしされ、実際に現代的「奴隷」として扱われている。

 文句を言えば、派遣元に連絡され取り替えられる、気に入らなければ雇い止めにされる。派遣社員の側の心情はいかほどのものか、その不安と焦燥は、孤独感はいかほどのものか。もはや一人の人間、対等な関係ではない。扱っている方は特に気にも留めていないが、扱われている方は日々強烈な不満が蓄積する、あるいは不安が自身を襲う。そして、壊れる。

 このような「効率的支配」は長年かけて生みだされたものである。日本的経営の産物、現代的な日本資本主義の産物なのである。不況になったら自由に解雇できる派遣社員を増やし、利益を生み出さない要因を徹底的に排除する「ムリ、ムラ、ムダ」のない経営。日本の企業、日本生産性本部はこれを目指してきた。この経営の志向に応えるように、労働力生産の場である学校も教育も、そして家庭も地域社会も「自主的に」変質してきた。

 したがって、「加藤智大」に観察される一つのタイプは、この現代日本社会が不可避的に今もなお生み出しつつあるタイプの一つに見える。死刑にしたり、厳罰にしたりしたら、問題は解決するのではない。すべての人が人との豊かなつながりを持っていくにはどうしたらいいか。孤立した低収入不安定雇用の人びとをなくし、格差社会日本をいかに住みやすく変革するかという問題に連なっているとうことだ。(文責:小林 治郎吉)












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TPPに反対する理由の一つ [現代日本の世相]

TPPに反対する理由の一つ

中国に対抗したブロック経済を目指すTPP

 TPPを、「平成の開国」などと大げさに宣伝しているものの、実態は大きく異なる。TPPには中国が入っておらず、実質的には日本と米国のEPAという性格が大部分を占めており、中国に対抗する日米+環太平洋ブロック経済の形成を意図したものだからである。

 そのようなところから考えるなら、TPPは、米国がその力の後退を意識しているなかで勃興する新興国・特に中国に対抗してブロック政策、ブロック経済圏を形成を意図したところから生まれており、きわめて危険なものであると言える。

 日本政府はそのような米国の意図、ブロック経済への加入という性格を知っておりながら意図的に隠し、かつ
無視し、そして米国政府の意向に従順に従っている。その卑小な態度を、時代がかった「平成の開国」などと宣伝し、煙幕を張って、しかも重要なことは国会での全国民的な議論をすることもなく、加入へと突き進もうとしているのである。
 
 日本の将来は、成長する中国、東アジアとの良好な関係のなかにこそ描くことができる。中国を排除したTPPへの一方的な加入は、米国の対中国政策に利用されているだけであって、政治的経済的には対抗し対立するブロック経済を準備する危険性を持ち、歴史的にみるならば、第一次世界大戦から第二次大戦の間の時代のように、新たな対立、さらには戦争の原因をつくる可能性・危険性さえはらんでいる。(文責:林 信治)
 


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法人税引き下げに反対する! [現代日本の世相]

菅首相 法人税率の5%引き下げを指示

法人税引き下げに反対する!

1)12月13日22時の速報によれば、「菅首相が法人税率の5%引き下げを野田財務大臣に指示した」と伝えている。

2)法人税引き下げに反対する!
 日本の国家財政は危機的な状態に陥っている。そのような状況で法人税率を5%引き下げるべきではない。

3)そもそも、国家財政が危機的な状況に陥った原因は、90年代のバブル崩壊以降、資本に利益を確保させるため、公的資金の投入、公共事業をはじめ莫大な金額を、終始バランスも省みず国家財政から支出し、資本を救いつづけたことにある。
 「企業が元気になれば、仕事も増えて働く人々の収入も増える」と言って、せっせと資本のために支出したが、この言葉、この理窟はまったく嘘だということをはっきりと証明してしまった。働く日本人は貧乏になるばかりだ。

4)さらに、90年代以降、規制撤廃をすすめ、派遣法など労働者の権利を奪い取る政策を推し進め、不安定雇用低賃金労働者層を増大させてきた
 そのことによって資本は多くの利益をあげてきた。他方、不安定雇用低賃金労働者層の増大は、厚生年金、国民年金を支払えない労働者層を増やし、現在と将来の年金制度を破壊してきた。健康保険も同様である。賃金の面で、年金・健康保険料の面でも、資本は支出を節約し、その分利益をあげてきたのである。格差社会日本が出現したが、そのことで資本は儲けてきたのである。そのつけは、この先何十年にもわたって、日本国民の生活を破壊するし、国家財政の負担を大きくする。

5)経団連をはじめ、資本家の法人税引き下げの理窟が呆れる。「法人税が高ければ、資本が逃げていく」というのだ。
 他方、大多数の働く日本人は逃げていく場所はどこにもない。財産のない者はどこにも逃げていくことはできない。
 国家から、納税の義務から逃げる手段を持っているのは、資本だけである。その立場をちらつかせて、「法人税を下げないと、逃げるぞ!」と脅しているのである。

6)経団連がかつて、「愛国心教育」を政府に提言したことがあった。こういうのをチャンチャラおかしい、というのだ。
 法人税を下げてはならない。経団連の連中に「愛国心」を教え込まなければならない。

 法人税をよりたくさん支払って、自身の愛国心を示せ!
 現在、働く日本人はますます生活が苦しくなってるにもかかわらず、あるいは生活が苦しくなっているからこそであろうが、日本を代表する大資本の多くは空前の利益をあげている。そのような状態であっても、「法人税を下げろ!」と要求し、政府に圧力をかけているのだ。
  
 不安定雇用低賃金労働者層を増大させ、貧乏人を増やしてきた。その「所得」は資本に移転さててきた、内部留保を増大させ、経営者や株主の取り分を増やした。
 そうであるのに、さらに加えて、「法人税の減税」を要求しているのだ。
 
 国家財政が危機的な状況にあるにもかかわらず、資本は自身の目先の利益を追求し、法人税引き下げの大合唱を続けてきた。資本にとって国家財政とは、「国民から収奪する道具」であり、「資本の利益を引き出す財布」である。国家財政が破綻しようがしまいが、どうでもいいのだ。

7)それに応じてしまう菅首相、民主党政権も情けない。何をやっているのか。
 今からでも撤回せよ!
 法人税引き下げを止めよ!(文責:林信治)

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「生活苦で再犯、刑務所がセイフティネットに」 [現代日本の世相]

 日経新聞(8月26日朝刊)は、「出所した高齢者や障害者が生活苦から万引きや無銭飲食をして再び刑務所に戻るケースは後を絶たない」という「恐ろしい現実」を報じている。

「生活苦で再犯、刑務所がセイフティネットに」

 強制施設を出所した高齢者や障害者が必要な福祉を受けられず、生活苦から万引きや無銭飲食をして再び刑務所に戻るケースは後を絶たない。
 2006年の法務省の調査は身元引受先のない満期出所者約7200人のうち、高齢や障害を抱え自立が困難なのは約1000人と推計。65歳以上の満期出所者のうち5年以内に再び服役する割合は約7割で、64歳以下の6割を上回った。知的障害者とその可能性のある受刑者の約4割が「生活苦」を犯行動機に挙げている。

 元横浜刑務所主席矯正処遇官の浜井浩一・龍谷大学教授(犯罪学)は「出所者に対する福祉の不在が再犯を生み、刑務所がセーフティネットと化している」と指摘。(8月26日 日経朝刊)
――――――――――――――――

 現代日本社会を特徴づける「貧困と孤立化」

1)「自己責任」と「厳罰化」は有効ではない

 「犯罪」に対しては、「自己責任」でもって非難し、したがって「厳罰化」すれば犯罪はなくなるというキャンペーンが一方的になされている。法務省・警察庁はそう思い込んでいるフシがある。

 「自己責任」と非難さえしておれば何も対策しなくていい、したがって最も安くつくからそう主張している、と疑ってみたくなる。実際には「当たらずとも遠からず」というところがあるであろう。

 また「厳罰化」したところで、厳罰である刑務所の方が世間より住みやすい状況にある悲惨な人びとにとっては、「厳罰」にもならないから、犯罪は減ることはない。
 
 「孤立した貯えのない高齢者、障害者」は、現代日本社会では生きていくことはきわめて困難であって、無収入で厳しい世間に放り出されるよりは、刑務所のほうがまだ生き延びることができるという現実が目の前にひろがっている。
 指摘の通り、福祉行政の貧困は刑務所をセイフティネットにしている、ひどい現状が起きている。

 しかも、このような状況は、この先確実に増大する。
 というのは、現在、国民の20%が年金を支払っていない。ということは、将来国民年金を受け取ることのできない大量の高齢者を生みだすのは確実である。確実に、貧困化した高齢者は将来増大する。現状よりは悪くなる。

2)必要なのは厳罰化ではなく、福祉施設の充実

 高齢者や障害者らを福祉施設に入所できるようにすることが何よりも必要なことは言うまでもない。

 必要なのは厳罰化ではなく、福祉施設の充実なのだけれど、格差社会が拡大し、貧困層が増大すれば、福祉施設拡充と運営のための費用は、膨大な額にのぼってしまう。その負担は、国家に転嫁されて、さらにいっそう国家予算が膨らんでしまう。今でさえ財政赤字なのにさらに福祉充実のために赤字を拡大していくには限度がある。

 しかし、これらのことは考えてみれば、バブル崩壊の恐慌・不況下で、日本政府と日本企業がコスト削減努力を行い、正社員を減らして派遣社員を増やし、国内の雇用を減らして海外進出して、それなりに努力して、作りだした現実でもある。

 さて、「こんな日本に誰がした」ということか。(文責:林 信治)

9月6日追記

 (上記記述に関連して)「2009年度は、国民年金は支払対象者のうち40%が未納。」(日経 9月5日朝刊)と報じている。
 少なくとも国民年金はすでに、崩壊状態に入っているということ。

 

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政治家は簡単に節を曲げていいのか! 辻元離党、千葉法相 死刑執行 [現代日本の世相]

政治家は簡単に節を曲げていいのか!
単なるウソツキではないか!


辻元清美議員の社民党離党

 7月27日の記者会見で、辻元清美議員が社民党離党を表明、「政権の外に出たら政策実現が遠のく」のが理由だという。当面は無所属で行くというが、そのうち民主党に入るだろう。民主党側も衆議院議員三分の二確保を狙っているから。
 辻元議員は、民主党・国民新党の選挙協力で当選してきた。社民党にいたのでは次の選挙で民主党の選挙協力は期待できないことも、離党の要因には違いない。

 要するに政権に残りたかったから、社民党の政権離脱に反対だったということなのだ。副大臣なりにいろいろやってきた、政権の外にいたらできなくなる、と考えたということだ。
 国土交通副大臣を9ヵ月ばかりやったこと、権力の一端に身を置き権力を行使したことで、何かしら勘違いをしたのだろう、としか思えない。権力の行使は、人を惑わすほどの魅惑なのだろうか、改めてそのように思う。

 5月28日、前鳩山首相は福島消費者行政担当大臣を罷免した。普天間問題で辺野古移転承認を迫り、拒否したので福島大臣を罷免したのである。当然のこと、社民党の政権離脱に帰結した。

 それは何を意味するか! 社民党は政権離脱の犠牲を払っても、普天間閉鎖、辺野古移転拒否を貫いたのである。

 逆に、福島党首が明確に辺野古移設を拒否しなかったら、社民党は政権のなかで独自の政党であり続けることはできず、この先消滅したであろうことは容易に推定できる。福島党首はその意味では、社民党としてのとるべき道を誤らなかったのだ。

 社民党にとって、政権に残ることは、「県外移設」の放棄であり、沖縄県民への裏切りである。辻元議員ならば、そんなことがわからないはずはなかろう。

 しかし9ヵ月ばかり国土交通副大臣をやり勘違いした辻元議員は、自身の今後と社民党が守った原則とを天秤にかけ、社民党離党を選んだのだ。

 問題なのは、社民党のなかに他に政権に戻りたい者が他にもいることなのだ。私には、政治家としての現実感覚がないとしか思えない。「県外移設」の放棄は、社民党の独自性の消失であり、その次にはかならず社民党は消滅を招く、そしてかならず社民党に属していた議員の雲散霧消、すなわち消滅をも招くであろう、そんなことは目に見えている。

 この見通しが正しいかどうかは、数年先の辻元議員を追ってみれば、いずれ判明する。
 取り返しのつかない事態なって、判明しても後の祭りではあるが。

 最近の政党は、社民党に限らないけれども、政党の体をなしていない。単に議員の集まりであるという性格をより強くしている。目先の利害に引きずられやすい体質にすでに変わっている。党の原則は、いとも簡単に変えられてしまう。「マニフェスト」が乱発されているが、扱いがいかにも軽い。
 
 政党政治はすでに崩壊している。(その意味では、選挙ごとに即物的な票集めに走るフィリピンの政治とよく似てきたと、これを書いていて気づいた。)

千葉法相、死刑執行命令にサイン

 他方、千葉法相は、7月24日死刑執行命令にサインをした。そして自ら執行命令を出した2人の処刑現場を立ち会ってきたという。「死刑の執行は適切に行なわれ、私自身自らの目で確認させていただき、あらためて死刑に関する根本的な議論が必要だと感じました」(記者会見)と語った。

 千葉法相は2009年9月の法相就任直後まで「死刑廃止を推進する議員連盟」に加盟していた。27日の会見では「私自身、もともと廃止するのも方向性の一つと考えてきた。それは変わるものではない」と強調。死刑を執行したことは「法務大臣として職責をどう果たしていくべきかを考え、様々な検討、精査した結果」と語った。

 「死刑を執行を指示した後で、死刑廃止の考えは変わらない」と言っているのだから、何を言っているのか、支離滅裂であるとしか言いようがない。
 死刑廃止の信念がいとも簡単に放棄されている。死刑廃止を含めた議論を開始するに当たり、死刑廃止に反対の人も含め議論のテーブルについてもらうために、二人の死刑を執行した、ということだろうか。
 自身のこざかしい政治的な判断のために、死刑執行された、ということなのか。

 千葉法相に訊ねたい。
 仮にだ、「死刑廃止を主張する議員をなくすにはどうしたらいいか?」と問われたら、「順番に半年ずつ法務大臣に任命すればいい」と答えるのがあなたの行動から得られる教訓だが、正しいかい?

 仙谷由人官房長官も、死刑廃止議員連盟の古くからのメンバーであるが、発言も控えているし何の対応さえもしていない。

 いずれも、何と頼りないことか。
 何を基準に政治家の言うことを信用していいのか、何を基準にを選んでいいのか、まったくわからなくなる。

 これまで死刑制度を維持してきた警察、検察、法務省その他の官僚のあるいは権力の圧力はすさまじいのであろうことは、想像される。実際には、権力の圧力にどのように闘っていくかが問題なのだろう。
 それにしても、ほとんど闘おうとする姿勢さえ見せず、早々と既存権力の軍門に下っていることに、呆れてしまう。(文責:林信治)


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両国の回向院 [現代日本の世相]

両国の回向院

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 両国・大江戸博物館の「モンゴル至宝展」とやらに出かけたものの、歴代モンゴル王朝の金飾りをおもに集めた展示ゆえ、観客は展示品を価格に換算するのがいかにも容易。俗っぽいことこのうえなし。金飾りの大きさに比例した熱心さと感歎の声をあげるよう誘導される。

 早めに切り上げて両国駅あたりをうろうろしていると、回向院とあったのでのぞいてみる。
 明暦の大火(1657)の死者を供養するために建立された、と説明板にある。回向院過去帳に記載された死者数は20,002人、江戸全体の死者は数万人にのぼったという。

 行き場のない死者を葬る必要があったから建立された回向院。明暦の大火は江戸の街ほとんどを、すなわち町人屋敷のみならず、江戸城本丸を含む武家屋敷も焼きつくしてしまった。それゆえ、江戸復興のために武士ばかりでなく、町民の気持ちも考慮するが必要であったというわけか。

 それからそののち回向院、行き場のない死者を引きとる専門寺院となった。行き場のない者に行き場があるのは、いいことだ。
 安政の大地震(1855)の死者(4,000人)もここにいる、関東大震災の犠牲者もいる。いずれも引きとり手のない死者たち。

 江戸の住民、名もなき民、有象無象は、「死んだ証」をもって、かつてかれらがここらあたりに「生きた証」を残す。

 ただし、古い死者を祀るだけでは商売はうまくいかないようで、犬猫ペット供養塔や力士力塚などをも受け入れて、雑然とした様相を呈す。われらが祖先、名もなき民にとっては、このいいかげんな「雑然さ」は、むしろ親しみやすかろう。にぎわいがあり、われらには似合いだろう。

 墓地もあるが、つめにつめ、墓石は手を伸ばせば「お隣さん」に届く。これでは地震がきたら、となりの墓石に当たって共倒れとなろう。

 もともと共倒れした同士だもの、それもまたよかろう。死者は次から次へと増えるので、新参者多くなり、先に行き着いた者共は、居場所をつめるしかない。

 それに加えて回向院、昨今の土地高騰の波うけて、周りの土地は次々と業者に切り取られ、両側からマンションやビルが迫りきて、参道も細く削られた。本堂の後ろももう他人の土地で、回向院自体も狭いところに押し込められた。
 「ああ、狭苦しや回向院」、墓石たちが口そろえた歌声を、夜も深き境内で、聞いた人があるという。死んでなお、厳しい生存競争にさらされているというべきか。(文責:玉)

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教育社への抗議行動に参加 [現代日本の世相]

12月18日昼、教育社への抗議行動に参加
091218 教育者社前 抗議行動 新宿マインズタワー 002.jpg
  <12 月18日昼、新宿マインズタワービル前、㈱ニュートンへの抗議行動>


1) 教育社抗議行動に参加
 12月18日昼、新宿マインズタワービル前で、教育社労働組合の抗議行動があり参加しました。新宿駅南口からすぐのマインズタワーには㈱ニュートン、㈱ニュートンプレスが入っていますが、両社とも経営者は教育社社長・高森圭介、みどり夫妻です。80名ほどの参加者があり、社前で経営者・高森夫妻への抗議の声をあげました。

 教育社労働組合は1971年結成されましたが、結成以来高森社長は労働組合を敵視し、一次、二次、三次にわたる解雇、暴力職制による弾圧、別棟隔離就労など、38年間も執拗な労働者弾圧、労働組合破壊攻撃を続けています。
 労働者弾圧に奔走する高森社長は、経営をも悪化させてしまい、その挙句は賃金切り下げや分社化を行い、犠牲を労働者に転嫁してきました。さらには、賃金不払い、職場縮小などによって退職を強要しました。

 教育社労働組合は、賃金切り下げ、未払いに対し裁判に提訴し、いずれも勝利しました。賃金、退職金支払いを求めた裁判では八度にわたって、1億5千万円の支払いを命じる判決が出されましたが、高森社長は一切拒否しています。1億5千万円は労働組合員の未払い分ですが、組合員以外の労働者への未払い分を含めると、7億6千万円にも達してしまいます。高森社長は、最高裁の判決さえ無視しているのです。最高裁判決で勝利を勝ち取っても、資本家の無法は通ってしまう日本社会なのです。

 ㈱ニュートン、㈱ニュートンプレスでは、最近でも給料遅配が頻繁に起こったうえ、わずかな金額しか支払われず、ついには常態化しつつあります。組合員でない労働者も苦しんでいます。

2) 詐欺商法の経営
 ㈱ニュートンは、科学雑誌『Newton』を発行しており、新聞などで「Newton」名で広告を出し、資格試験用『合格保証TLTソフト』を販売しています。広告には「不合格なら全額返還」と記していますが、不合格になった人が返金を求めても、応じません。そのため、㈱ニュートンには、電話でのクレームが殺到し、ネット上や消費者生活センターにも抗議や苦情、相談が多数寄せられています。この「詐欺」は長年続いていますが、高森社長は、あらためようとはせず、なおりくりかえしおこなっています。

3) 教育社闘争に変わらぬ支援と連帯を
 教育社・高森社長は経営者としての最低のモラルも逸脱しているばかりか、法律違反を堂々と行っています。労働者、労働組合としては生活と尊厳のためには団結して闘っていく以外にありません。
 現在、日本社会は、新自由主義による「格差社会」化と世界的な経済危機で、失業者や不安定雇用低賃金労働者が増大しています。いわば多くの「仲間」がぞくぞくと生まれています。
 高森社長ほどではないにしても、労働者に犠牲を転嫁する経営者が増えています。労働組合組織率が低下し、告発されないことをいいことに、弱い者いじめの不法な経営が横行しつつあります。
 教育社労働者、労働組合の長年にわたる苦しみ、悩み、闘いは、生活破壊、権利剥奪に苦しむ現在の多くの労働者の苦しみ、悩み、闘いでもあります。教育社労働組合の粘り強い闘いが、新しい仲間のあいだに広がり、そして勝利することを望みます。そのためにこの先もずっと教育社労働組合の闘いとともにありたいと思います。(文責:玉)

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福元館の多喜二 [現代日本の世相]

福元館の多喜二

 この春四月二二日、年輩の友人とともに厚木・七沢温泉の福元館を訪れた。山あいの小さな沢沿いに立つ福元館の周りには、ここかしこに八重桜が花開き、樹々は競って新芽を出していた。多喜二が秘密裏に逗留し小説『オルグ』を書き上げた福元館を、この心地よい季節に訪れる機会を持てたことを喜んでいる。
 心地よかったのは季節のせいだけではないようだ。ここでは多喜二が今もなお大切に扱われていると、確かに伝わってくるからでもあったろう。
DSC_0029 ○ 多喜二.JPG
 多喜二が宿泊し『オルグ』を書いた小さな「離れ」が、当時のまま保存されている。母屋の東、道路を隔てた崖上に、木々に埋れて立っている。下の道や母屋からは見つけることはできない。「離れ」の部屋には、丹前や炬燵用火鉢、徳利とゴールデンバット、鉄瓶が置かれ、ここで書き上げたとされる『オルグ』の表紙コピーもある。
 多喜二は一九三〇年六月二四日、治安維持法違反で検束され、翌三一年一月二二日保釈された。その後、暫くして福元館に逗留したことになる。このときの多喜二はすでに地下にもぐり不安と緊張に支配された生活を送っていた。多喜二のその緊張した「気持ち」に思いを重ねてみる。静かな、かつ生活感の乏しいこの離れにいると、彼の緊張の一部がよみがえってくるようにも感じる。
 「離れ」から外、ガラス戸の向こうの山あいの景色に目を移してみる。多喜二も書き疲れた後など顔を上げて何度も眺めたのではなかろうか。その景色は今も変わってはいない。
 「離れ」には母屋に通じる呼び鈴があり、手紙も食事も運ばれたという。多喜二は風呂以外に「離れ」を出ることはなかった。当時彼には拷問のひどい傷が残り、福元館では彼岸花と卵黄、酢、メリケン粉を混ぜて傷跡に塗ってくれたという。人懐っこい多喜二は福元館の人々に確かな印象を残したようだ。
DSC_0016 ○火鉢と徳利とバット.JPG
(火鉢と徳利とバット)
 ノーマ・フィールド『小林多喜二』(岩波新書)によれば、三一年二月ごろ七沢温泉に一ヶ月ほど逗留し『オルグ』を書いたことはこれまで知られていたものの、どの旅館であるか長い間不明であった。福元館であると広く知られるようになったのは、つい最近、二〇〇〇年三月のことであるという。福元館は、戦前戦中から戦後の六九年間にわたり、若くして虐殺された多喜二を、誰から求められることもなく人知れず大切に「供養」してきたのである。

 戦前戦中から敗戦直後、高度成長期、社会主義体制の解体、そして「蟹工船」ブームといわれる現代まで、多喜二評価は様々な「変遷」を経てきた。振幅の大きい「毀誉褒貶」が繰り返されてきたし、これからも繰り返されるだろう。しかし福元館における多喜二は、静かなずっと変わらぬ信頼に包まれ居場所を得ているようで、なにかしらホッとするものがある。多喜二は今なおここに逗留することを容認されているようでもある。

 福元館の多喜二をぜひ一度、訪れてみてはいかがだろうか。 (文責・児玉繁信)



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フジヤマの サクラの国の 失業者 [現代日本の世相]

フジヤマの サクラの国の 失業者

 「美しい国日本」と言った首相がいた。
 格差社会に眼をそらし、「美しい国」日本とは何事か。政治的には欺瞞であるとともに、そもそも「美しい」と言い述べる美的センスを疑う。
 現代の貧困の広がりには眼をそらして、何が見えるか。
経済危機で真っ先に首を切られる人が数十万人も突然現れ、仕事といえば、不安定雇用の低賃金、人間扱いされない人間の増えた現代日本社会は、どのように美しかろう。

フジヤマの サクラの国の 失業者

 この川柳は、鶴彬の作品。戦前の作。
 大和心とか、サクラにフジヤマの日本精神と偏狭なものの見方を「自画自賛」し、多くの従順な「社会的無知」の日本国民を作り出し、周辺諸国、周辺民族を蔑視した戦前の日本軍国主義。
 その時代に生きた鶴彬は、「フジヤマ、サクラ」の「偽善」を見抜いてこの川柳を読んだ。

 ところでわれわれは、現代日本社会の偽善をしっかりと見抜いているか。
 しっかりと見抜いていないとすれば、鶴彬の批判精神は、現代の日本社会への批判、皮肉としてもそのまま通用させなければならないであろう。

 さて、この鶴彬の精神を我らの精神として、「日本的精神」、すなわち誇るべき日本労働者の精神として呼び戻し、我らのうちに植えつけ、現代の土壌の上に育てることが必要であろう。

 鶴彬の川柳と批判精神が、現代日本にぴったり必要であることを、思え!
 (文責:玉)
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麻生の支持率が急落 [現代日本の世相]

麻生政権の支持率が下がっている

1)麻生の支持率が急落

 麻生政権の支持率が急落している。12月8日の毎日、読売、朝日の各新聞社によれば、麻生政権ン支持率は、21%~22%にまで急落したという。
 自民党にとっては大変だ、これでは選挙に勝てない。自民党は衆議院解散を非常にやりにくくなった。別の選挙向けの「顔」にすげ替えるのか。選択肢はだんだん狭くなっている。

 それでまたぞろ、政界再編だそうだ。目先を変えて政権にしがみつこうとする。宮崎県知事や大阪府知事で「目先」を変えて支持を得たものだから、同じ効果を狙っている。政治理念も何もあったものではない。政界再編で何が変わったか。何も変わらなかった。いや、正確には、よりひどく国民がコケにされた。また、繰り返しをやるのか。

2)急増した雇用不安こそ問題だ

 自民党支持率の急落は、急増した雇用不安にある。自民党支持率が下がろうと上がろうとどうでもいい。雇用不安こそ大きな問題だ。派遣労働者の契約期間での雇い止め、それどころか契約前の解雇が大量に発生している。その人数が極めて多く、しかも急速であったため、広範なレベルで社会不安が広がったし、更に広がるだろう。他方同時に並行して、身分変更、転職、賃金切り下げが進んでいる。大学生内定者の取り消しも相次いでいる。

 派遣労働者という制度の持つ非情な意味が、あらためて明確になった。怒りを感じる。資本家にとっては、いつでも自由に解雇できる都合のいい制度なのだ。労働者を人とは扱わない制度なのだ。
 派遣労働者法の撤廃が根本的な解決だ。これ以外にない。

3)更にバカにするのか

 政府自民党は、「派遣労働者を雇ったら企業に100万円支給する、内定取り消し者を採用したら企業に100万円支給する」という救済策を出してきている。これもまた人をバカにした政策だ。解雇された労働者や内定取り消し学生への支援を、資本家への支援・くれてやりを通じてやろうというのだ。なぜ直接労働者や学生へ支援しないのか。実際、財源も明確でなく、いつからどのようにどの程度やるかは不明だ。とりあえず不人気だから、人気取りのために出してきた政策らしい。

 あらゆる政策の実行を、必ず資本家を儲けさせることを通じて、行おうとするもの。その趣旨においてこれは本当に国民をバカにした考えであり、政策だ。

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トヨタの末端の三次下請け企業ベトナム人研修生の驚くべき実態 [現代日本の世相]

ずいぶん前の話

 名古屋ふれあいユニオンの酒井委員長
 9月14日(日)、15日(月)は反トヨタ愛知行動に参加したが、名古屋ふれあいユニオンの酒井委員長の報告に驚いた。

 トヨタは子会社だけでなく、部品会社、下請け、孫請け会社を抱えた、垂直的な産業構造を形成している。この垂直的な産業構造は戦後の日本資本主義が発明し発展させ、国境を超えて世界に拡大し、また世界に伝播させた。フォード型生産システムを内側から食い破り、今風に言うと「ビジネスモデル」に作り上げた。いまや自動車産業だけでなく、電機・電子産業、繊維産業などあらゆる分野に広がっている。
 
 酒井委員長の報告は、トヨタの末端の三次下請け企業働かされているベトナム人研修生の驚くべき実態である。彼女らの時給はわずか300円、一日12時間労働、休日なし。しかも研修生制度ゆえ研修先でしか働くことができない(転職の自由がない)。研修先がいやなら即刻帰国しなければならない。研修生制度という名目で、最低賃金制を破り、残業規制を破り、休日を奪い、転職の自由さえない。転職できない弱みから、雇用主はセックスの相手まで強要してきたという。現代の「奴隷労働」である。

 このベトナム人研修生が名古屋ふれあいユニオンに相談に来て、この様な実態が暴露され、雇用主を告発し闘っている最中であるという。
 
 ただよく認識しておかなければならないのは、この「研修生制度」による「現代の奴隷労働」も、トヨタ生産システムの一部を形成しているのだ。垂直的な産業構造は何のためか、底辺企業群で不安定雇用、低賃金労働者を活用するためだ。活用しても、頂点のトヨタには責任は及ばないにもかかわらず、果実は得ることができる。
フィリピントヨタでの労働組合潰しも、トヨタ生産システムの重要な根幹にかかわる原則なのであろう。

 そのことは、トヨタが大きくなればなるほど、世界の労働者は不幸になることと同じなのだ。トヨタの存在と拡大は、人類の未来を暗くすることに他ならない。(文責:今久留米 泉)
(名古屋ふれあいユニオン委員長・酒井徹さんのブログ http://imadegawa.exblog.jp/  参照)
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『無差別殺傷事件、あるいは通り魔事件』 [現代日本の世相]

無差別殺傷事件、あるいは通り魔事件

貧困化すれば孤立する現代日本社会


1)続発する「無差別殺傷事件、あるいは通り魔事件」 

 7月28日午後7時半ごろ、JR平塚駅コンコースで、通行人7人が十徳ナイフで切られた。犯人は34歳の女性で、新聞報道によれば「死にたいと思った、人を道連れにしたいと思った」と話しているという。被害者は無関係の人たち。
 先日、八王子で「通り魔事件」が発生し、2名の死傷者が出た。この時の犯人の動機も「誰でもよかった」という。
 秋葉原の「通り魔事件」も被害者は無関係の人たちだった。
 一連の事件は同じ特徴がある。

 とりあえず、「通り魔」事件と書いたが、果たして「通り魔」事件と呼んでいいのだろうか? 犯人たちは、「通り魔」と呼ぶには、あまりにもイメージが異なる。決して「凶悪」という印象ではない。一言で言えば「壊れた人たち」

 何かひ弱な、自分の居場所を持たない、あるいは奪われた人たち、現代日本社会から「疎外」された人たちの、最後の反抗、あるいは爆発であるように見える。
 「自暴自棄」的に、緊急避難的に見ず知らずの人を傷つけている、破綻した自身を死刑にしてもらいたいと妄想するのも特徴の一つ。

2)犯人たちのタイプ、どこから生まれたのか?

 犯人たちのタイプはみんなよく似ているように見える。どちらかというとおとなしいまじめな、しかし孤立した人、あるいは人間関係が極端に「細い」人。これまで決して「凶悪」ではなかった。むしろまわりから押さえつけられてきた人。周りから認められていないと感じている人、実際に相手にされなかった人。
 こういう人たちはどういうふうに生まれてきたのか。

 現代日本社会は、希薄な人間関係、コミュニケーション不足を日々ますますつくり出しつつある。
 携帯電話やメールによる人間関係は、情報量が極端に多くなるにもかかわらず、それゆえにというか、それにともなった濃密な関係をつくりだすことをともなわない。実際に感情の交換の場が奪われたり、失われている。

 核家族化が日本社会にとって全般的となり、家族内で、地域で、学校や職場で、すなわちどこにおいても、コミュニケーションが希薄になり、更には消失している。家族の間でも、個々の関心はTVやゲーム、芸能人がそれぞれの頭に直接的に入り込み、家族間相互の関係が希薄になっている傾向がある。
 さらにそれ以上に、現代日本では単身者世帯が増大している。決して若い世代にのみにとどまらない。60歳以上でも急増している。全世帯数の30%を超えようとしているし、さらに増大しつつある。誰とも会話しない、したとしても形ばかりの、無内容な、という人が増えている。

 他方、現代日本社会では、小学生の頃から周りへの対応の「スキル」を身につけることを要求される、周りに対して嫌われない人間、問題のない自己であること、洗練された自己を表現することを求められる。そのことは、感情のぶつかり、小さな喧嘩、自己主張を極力抑えることでもあるし、あえてそのような場を奪っている。このような関係に永くすごしていると、感情の表出、ぶつかりのない、本当でない表面だけの人間関係ができてくる。
 その結果、人とぶつからないように、感情を害さないようにふるまう人間ができあがってくる。本当の人間関係を持たない人間が多数現れてくる。
 いざ感情のぶつかり合いになった時、折り合いをつけることができない。そんな能力は身につけていない、そんな人が増大している。

 そのような希薄な社会関係のなかでは、「自分は果たして何者なのか?」、本人にもわからない人間ができてくる。人は社会関係の総体であるから、社会関係が希薄になり、相互の人間関係にて感情の表出、ぶつかりを抑え続けるなら、人間関係が形式的な「スキル」にだけになってしまうなら、それがその人になってしまう。希薄な社会関係は、「人の内容」を希薄にしてしまう

 例えば、日本人の多くは子どもも大人も、人と話し合い解決する力を身につけることができていない、そのような資質を急速に失ってしまった。人間関係が希薄になっていることの別の面からの一つの証拠である。
 たとえ、人間関係が希薄ではない人でも、一般的に言って人と議論することを嫌うし、また議論そのものができない。違う考えの相手に自分の考えを伝えることができない。トラブルを引き起こすのが面倒だからそんな話もしないし、もっと面倒なら人間関係を切ってしまう。
 現代日本社会の一般的傾向なのである。

 逆に言えば、日本社会はそんな対応力など求めていないし、求めてこなかった。人間関係のトラブルは、会社内外の支配従属関係、公務員内の上下に連なる関係、「金」の関係に「翻訳」して解決してしまう。それに相応した階層的な社会関係ができあがり、他方での個人の孤立は、対応している。
 
 したがって、問題は決して若い人だけではない。あらゆる年齢層、階層の日本人に、多かれ少なかれ、みられる特徴である。

 年上の世代にもその傾向は認められる。日本社会では、通常失業したら孤立する。会社を辞めた人はこれまでの人間関係を失う。人と人との関係のうちの多くが、会社、あるいは「取引」、「金」でつながっていたことを思い知る。失業や退職した後、人々を繋ぐ社会関係、これが極めて弱いのだ。家族や地域、趣味や社会活動、企業、労働組合そのほかのあらゆる社会活動が、衰弱してしまった。他方、制度的「セイフティネット」、年金や生活保護なども破壊されつつある。

 例えば退職したあと、あるいは正社員から派遣社員になったあと、孤立してしまう人が多いのも日本社会の特徴の一つだ。老人の万引きなどの軽犯罪が急増している事実は、そのことを別の面から証明している。孤立した老人、やるべきことを持たない人、こころよく働く仕事を持つことのできない人々があらゆる世代で急増していることが、孤立した、コミュニケイション不足の、このようなタイプの人たちをつくりだしていることと密接につながっている。孤立した人は、日本社会にとってあまり必要でない、したがって「粗末に」扱われている人たちなのだ。
 企業は派遣社員、アルバイト、60歳過ぎた人を、人としては扱わない。正確に言えば、第二級の人間として扱う。

 「自殺者が年間3万人を超えている」異常な状況も、この人間関係がきわめて希薄な、人間関係が「物の関係」、会社や金の関係におきかえられている現代日本社会の特徴に起因している。「貧困化すると孤立する」という現代日本社会の特性からきている。

 したがって、あの犯人たちの特徴は、支配されている現代日本人の特徴、すなわち、孤立した、コミュニケーションの不足した、貧弱な人間関係しかもたないという特徴を、多分に含んでいることになるだろう。このように判断するのが適切なのであろう。

 そこに格差社会日本(より正確には、被搾取者が搾取階級荷よって支配される社会日本)における新しい階層階級の支配―被支配関係がズシリと重なってきているし、その表現でもある。格差社会日本は、人と人との関係を、正社員と派遣社員の関係に変えてしまう。それに連なる支配―被支配関係、搾取する人間の搾取される人間に対するむき出しの支配に置き換えつつある。現代的「奴隷」として実際に扱われている。

 文句を言えば、派遣元にチクって取り替えればいい。車が故障したとき取り替える部品のようなものだ。もはや一人の人間、対等な人ではない。扱っている方は特に気にも留めていないが、扱われている方は日々強烈な不満が蓄積する。

 このような「効率的支配」が毎日毎日、更新、形成されて続けている。現代的な日本資本主義社会なのだ。利益を生み出さない要因を徹底的に排除する、「ムリ、ムラ、ムダ」のない社会。これにあわせるように、労働力生産の場である学校も教育も、そして家庭も地域社会も、「自主的に」変質していっている。したがって、「犯人たち」に観察される一つのタイプは、この現代日本社会が不可避的に今もなお生み出しつつある、一つのタイプ、あるいは一つの典型的なタイプの人たちにさえ見える。

 押さえつけられ支配されてきたこの人たちは、自己と自己の権利を主張する術を持たない、その資質まで失ってしまう。何か問題が発生したとき、これを解決する術、解決する上でのまわりとの関係、人間関係、社会関係をもたない。

 そのうちの全員ではないある者が、最後に「自爆的」に「壊れて」しまう。事件を起こしたから「顕在化」した。事件を起こしていない、こういう人たちは、私たちの周りに既にいっぱいいる。顕在化しているのは、言葉通り、氷山の一角である。「壊れないで」自殺した人もいる。自殺未遂した人はその十倍はいるといわれている。これも同じ社会的病状からくるのではなかろうか。その原因は底部において重なるのではなかろうか。

 そのような人たちのうち、全員ではないある者が、今回のように、他者を傷つける事件を引き起こした。「もう死にたい、殺して欲しい、死刑にして欲しい」。あるいは、そのことで、自身を支配してきた親や社長に「些細な」迷惑をかけて「復讐」したつもりにもなる。

 現在、問題視されつつあるのは、「壊れた犯人たち」が、殺人や傷害事件を引き起こすまで至っているからである。殺人や傷害事件を引き起こさなければ、誰もとりたてて問題にはしなかった。「氷山の一角」だけを問題にし、注目している。「氷山の一角」だけに問題を限るなら、すなわち、「その「一角」だけを削りとってしまおう」と対処法を考えるなら、それは根本的に解決することにはならないだろう。
 
 もちろんの犯人たちの行為を擁護できはしないし、言い分にも正当さはない。
 しかし、マスコミのように、「奇異だ」、「おかしい」として扱ってはならない。物事を何にも理解していない「あほう」であることを、そしてなんの対処にもならないことを自覚していない「あほう」であることを、証明するだけである。
 
 彼らを生み出した本質的な原因について論及しているのだ。決して個別的ではない日本社会の抱える問題なのだ。すなわち例えば、「親がよく教育しておくべきだった」云々という対策では解決はしない。

3)凶器の規制で解決できるか?

 秋葉原での凶器はナイフだったが、八王子の事件では100円ショップで買い求めた包丁だった。平塚では十徳ナイフだという。秋葉原事件では、ナイフの所持や販売が規制されたが、果たして今回は包丁や十徳ナイフを規制するのだろうか? 100円ショップで包丁を大量に売っている。
 包丁を規制するのであれば、カッターナイフも規制しなければならなかろう。のこぎりはどうか? はさみだって危ない。

 こういう反応は、「危険な人」から自分を護る「個人的」発想から生まれている。「危険な人」が生まれるのは、むしろ必然で避けられない、避けられない世の中なのだから、これをいかに個人的に回避するか、いかに押さえつけるかと発想する。「危険な人」「危ない人」と「私」とは別の存在という判断が前提としてある。

 こんな対応は、ほとんどまったく的外れである。

 秋葉原の犯人がナイフを使用したため、警察は何かちょうどいい機会であるかのようにナイフの規制を主張した。問題の解決というより、そもそも警察のやりたかったことをこれを機会に実行しただけであろう。

 あるいは、秋葉原の歩行者天国と八王子の駅前に監視カメラをつけて、そして全国ありとあらゆる場所に監視カメラをつければいいのだろうか?

 これは決して笑い事ではない。すでに事態は先取り的に進行していて、最近はマンションの入り口には監視カメラがついている、コンビニにもついている。街のあらゆるところに設置されている。確かに監視カメラを生産している電機会社や通信会社にとっては新しい市場が広がることになる。警備会社もまた市場が広がる。監視カメラに賛成する人は出てくるだろう。しかし、これとて対症療法的であり、根本的な解決ではありえない。
 そのような対策はこっけいだが、それにとどまらず、誰が誰を監視するかという「危険」な問題でもある。いわゆる「監視社会」に急速になりつつある。

4) 厳罰化は解決するか?

 ここ数年来、「凶悪犯への厳罰化による防止」が宣伝されてきた。死刑執行の増大もその流れのなかにある。
 
 「犯人の人権よりも、被害者の家族の人権を尊重すべきだ」などと主張され、「被害者の人権」がいつの間にか「厳罰化」へともっともらしくすりかえられた。TVドラマ、陳腐なミステリードラマが描き出してみせる最近流行のテーマの一つだ。本当にワンパターンで、辟易する。

 それは「厳罰化」を進める政府自民党、警察などの政治的勢力の意志をが入ってきていると見なければならない。

 しかし、実態は大きく異なる。
 現代日本社会は、きわめて殺人事件の少ない社会である。歴史的にみても、世界的にみても稀な殺人事件は少ない社会である。わたしは、誇っていいとさえ思っている。
 そんな実態はなかなか報道されない。安心社会であると報道すると、警察は予算を確保しにくい、ということがあるのかもしれない。新しい現代的な不安を煽ると、予算を確保しやすいのかもしれない。

 さて、「厳罰化」も今回の事件を決して解決しない。被害をこうむった人に対して同情しなければならないが、しかし、「壊れた犯人たち」は、厳罰化や死刑執行の恐怖で押さえつけられ、犯罪の防止にはならない。押さえつければいい、というものではない。孤立し「壊れている」のだから、「死刑になること」を夢想して殺傷している者さえいるのだから。

 「押さえつければいい」とする主張は、現在進行している日本社会のひずみを、把握も認識もしていないことを告白しているに過ぎない。
 
5)解決は?

 事件の起きた原因は「凶器」ではなく、このような「犯人」をつくりだしたことにある。事件への対策は厳罰化ではなく、このような「壊れた」人を毎日作り出す日本社会の変更にある。

 現代日本社会への批判として、「壊れる」前に「孤立した」人、「搾取」された人、支配された人が自身を繋ぐアソシエイション、社会関係をつくりあげていくことにある。「孤立した」人、「搾取」された人、支配された人」が自分たちの置かれている実情を自覚し、つながりあい、自分たちの力で批判を立ち上げていくことにある。

 そのような社会関係を貧弱にしかもちえていない、いわば「武装解除」された現在の状態こそ、他国民に比べてさえ「おとなしい」といわれる現代日本人の特徴を、そして現代日本社会の病いを明瞭に映し出しているのだ。(文責:小林 治郎吉)

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8月3日、岩国・井原勝介市長を迎えての三鷹集会 [現代日本の世相]

8月3日、岩国・井原勝介市長を迎えての三鷹集会

8月3日、三鷹協働センターで岩国・井原勝介市長を迎えての三鷹集会が開かれ、230名の参加があり、市長の話もわかりやすくて、大変盛況だった。ピナット主催で、三鷹地域で市民活動にかかわるいろんな人が参加した。主催者の予想以上に人が集まって、会場は熱気に溢れ、椅子も足らず床に座り込む人もいた。
岩国市はこれまで戦後ずっと日本政府の基地政策に協力してきた。今回の米軍基地の拡大受け入れを国から一方的に決められたが、これ以上の負担はできないと、井原市長は住民投票で拒否の声をまとめ、新たな米軍基地受け入れを拒否した。すると日本政府は岩国市への補助金をカットしてきた。すでに着工している市役所の建て替えは最後の三年目に入っているが、今年になって補助金をカットしてきたため、市役所が完成しない。
こういうのを「姑息」というのだろう。何とやり方が汚いことか。国の政策に従わさせるため、補助金を使って締めつけてゴリ押ししてくる。政府には「市民生活をまもる」視点などどこにもない。現代日本における政府と地方の関係の一端を、如実に示す。
井原市長によれば、「こんなことを許せば民主主義が死んでしまう」という。岩国市議会では、「長いものには巻かれろ」式に、政府の補助金につられて基地受け入れを認める議員が多くを占め、市民の要望と市議会の動向は必ずしも一致していない。このような困難な情勢のなかで、井原市長は各地で訴えてまわっている。困難な闘いを強いられながらも、市民と共にがんばっている井原市長をぜひ、支援しよう。


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