映画「コマンダンテ」 [映画・演劇の感想]
映画「コマンダンテ 」
オリバー・ストーンがフィディル・カストロに密着してインタビューした記録映画
<映画のパンフレットから>
1)はじめに
この映画を観て一つの映画を思い出した。『ゆきゆきて神軍』(原一男監督)だ。奥崎謙三を撮ったドキュメンタリーのような映画で興味深くはあったが、監督が奥崎に引っ張りまわされ監督の意図が貫徹していない、そもそも意図が希薄だ。貴重な素材を扱いながら何を撮ったのか、何を撮りたかったのか、希薄なのだ。監督の見識の希薄さがそのまま出ていた。
さて、映画『コマンダンテ』も同じようなところがあって、監督オリバー・ストーンの意図が貫徹していない。監督の意図を超えて、あるいは監督の見識の希薄さは確かに存在するがそれを超えて、コマンダンテ・カストロの人物像と現代キューバの実情が、断片の積み重ねではあっても鮮やかに描き出され、結果的には貴重な映画になっているのだ。『ゆきゆきて神軍』と大きく違っている。
2)オリバーのこと
オリバー・ストーンはベトナム戦争に従軍し二度にわたり負傷した経験を持つ。映画『プラトーン』でベトナム戦争を闘った米兵の軍隊生活、米兵の扱われよう、惨めな死を描いた。栄光に満ち賞賛される兵士だけの米兵像に異を唱え、米兵も一人の苦悩する人間として描き出したこの映画は、米国民に衝撃を与えた。その点では貴重な映画だった。
しかし他方、ベトナム人はまるで小動物であるかのように描かれ、人間扱いされていなかった。オリバーの「人間的感情」には「国境線」が厳として存在していた。ストーンのヒューマニズムの適用範囲は米兵までであって、解放戦線や北ベトナムの兵士や民間ベトナム人にまでには及んでいなかった。ベトナム人の内面に迫ろうとはしていなかった。
3)インタビューを重ねるスタイル
さてこのオリバーがカストロにインタビューする。2002年と画面に紹介される。
オリバーの質問内容やそのスタイルは、カストロの返答に比べて対比されると明確になるのだが、アメリカ的実証主義とはこんな考え方であることを鏡のように映し出し描いてしまう。オリバー個人の考えもちろん出ているが、でもそれを超えて現代アメリカ人ジャーナリストの問題の捉え方、皮相的な「事実」を重ね「ディベート」に秀でた「IQが高い」とされる現代アメリカ知識人の一つのタイプが、カストロに対比されて現れくるのだ。カストロの応答といかに違っているかを描き出してしまうのだ。
もちろん、オリバー・ストーンが現代アメリカにおいては、より「ましな」映画人であることはよく承知しているつもりだ。
オリバーは一言の回答を求める。その要望に沿って、カストロは丁寧に率直にそして当意即妙に一言で答える。そのことで、カストロがいかに知性溢れる人物であることを表現してしまう。オリバーはカストロの欠点やキューバ社会の欠点をあぶり出そうとしたが、あぶり出たのはカストロがいかに魅力的な知性溢れる人物であるか、偉大な知性であるかだ。
ブッシュや安倍など現代資本主義国の政治家たちが、例えば同じようにオリバーの質問に曝されたら、たちどころに馬脚を現してしまうだろうなどと想像さえしてしまう。たぶんこの違いを観客はたちどころに理解しただろう。
4)何があぶり出ているか?
観た誰もがカストロとカストロに象徴された現代キューバ社会の生命力を受け入れざるを得ない。このドキュメンタリーのすぐれたところなのだ。
アメリカでこの映画上映が禁止されている理由でもあるのだろう。「自由の国アメリカ」の「自由」がたいしたものであることがたちどころに判明してしまう。
カストロは話せばわかってくれると信じているのだろう。「自分は人を説得するのが好きだ」と語る場面もあって、誠実に話せば最終的にはわかってくれるというカストロの確信に似た考えも明確になってくる。彼は一貫してオリバーに自分の考えを語っている。オリバーのくだらない質問にも、問題をどのようにとらえるべきかという、より現実的な包括的な把握へと組み替えようと努力している。
私は当初、こんなに丁寧に説明しても無駄であろうと思った、しかし、違った。オリバーはカストロの考えをすべて受け入れたわけではないし理解したわけではないが、カストロの問題接近の態度に信頼を寄せるに至っている。インタビューまえに比べて、確かにカストロの魅力に引きつけられた。
こういうカストロに感心する。揮発性の香を発する柑橘類かのように、人をひきつけてやまない。現実の認識を提起し議論し解決の方向を提示し、人々と共に問題を切り開いていこうとする態度が魅力的だ。こういう人々との関係、社会関係を築きながら、皆と一緒に実際の問題に対処し解決していくこの形態が、現代世界に求められている姿ではなかろうか。私にはとても魅力的に見える。
カストロがつくりあげようと試みているのは、現実社会に対する徹底した批判を、生きた人々のあいだで共有し、問題に立ち向かって行く人々の間の新しい関係(批判的アソシエイション)を立ち上げて行こうとすることであろう。
こういう批判的関係を何度も繰り返し立ち上げながら、われわれの歴史は少しずつ、あるいはダイナミックに前進するのだと思う。
5)いくつかのシーンについて
カストロは後継者問題を尋ねられて、後継者によってキューバ社会が混乱するというオリバーの理解の誤りを指摘するかのように、後継者を誰にするかも重要だが、キューバ国民の政治的成熟を信頼しているし、その点で心配していないと語った。
死を避けたいか?と問われ、避けられないと即答した。「それは希望して変わるものではない」。人生を二度すごせたらいいとある人物が言ったがどう思うかと問われ、「そのような考えを持つに至る事情は理解するが、そんな考えを自分は持たないし、またもつべきではない」、という。現代資本主義イデオロギーの説明する「独裁者」の心情を、カストロは持ち合わせていないことを証明してしまった。彼が個人的にものを考えるところからいかに遠いところにいるか明らかにした。
繰りかえす、現代キューバを診断するに当たり、「カストロの個人独裁」に要因を求めることに問題の焦点があるのではない。現代キューバ社会の生命力が何に存するかを見極めなければならないのだ、このことをオリバーは根底のところで理解していない。アメリカ的な個人主義、実証主義からは残念ながら根本的理解は出てこない。
もちろん現代キューバ社会も「欠点」を持っている。決して確固たる関係を築いてはいないし、危うい状態を決して脱しているわけではない。カストロにとって、あるいはキューバ国民にとって現代キューバ社会の「欠点」とは、オリバーが考える欠点とは、少々意味が異なっている。
キューバが抱える困難は、資本主義に政治的軍事的経済的に包囲され、経済競争も強いられながら、この先も生き残れるかという問題だ。きわめて特別な、キューバ固有の問題だ。キューバ社会の道行きは、現在もなお危うい条件に囲まれている。新自由主義に囲まれた現代世界でキューバが生き残るために、たどらなければならない道はきわめて細い。誤れば、崩壊する。これをきちんと見きわめ歩むことができるかにかかわる問題であり、この先も適切な対応をとり続けられるかということである。この基準に照らし合わせて、キューバ社会の欠点は語られなければならないし、改革されなければならないし、そしてキューバ社会はかわらなければならない。
この10年間キューバは、ラテンアメリカの一員として生きる道を模索し、実際にきり拓いてきた。ソ連解体後、ラテンアメリカの一員として生きる以外に現実的な道はなかった。南米諸国との貿易を拡大し、現実的で必要な経済関係を作りあげてきた。その関係のなかにキューバ社会主義が生き残り果たす役割を模索しつくりあげてきた。(トロツキーのいう『永続革命』ではないか)。
チェ・ゲバラのことに触れて、カストロが「チェは社会主義建設を行うにあたり資本主義の手法導入に賛成しなかった」と即答したことには少し驚いた。キューバではチェ・ゲバラは尊敬されていて、街角のギター弾きがチェを称える歌を歌い、革命広場の大きな肖像にもなっている。しかし、カストロもキューバ政府も、チェとの意見の違い、チェへの批判を率直に語るのだ。このカストロの問題意識は、60年代のキューバ社会主義建設にかかわる判断であるが、同時に90年代の危機にあたり新経済政策=「資本主義を檻の中で飼う」を導入して対処してきたことなどもあって確立している評価でもあろう。
学校の授業だろうか、中学生くらいの生徒がカストロのことを発表し合っているシーン。「カストロはいろんな過去の問題や理論的問題を知っているだけでなく、それらを現実の政治過程、人々の生活と行動の要請に応じて再編し表現する、行動の指針として表示する、そこがカストロの偉大なところだ」と14、5歳の子どもが語る。
オリバーが黒人系の人々が政治指導者に少ないことを指摘する。カストロはそれを認める。革命前、黒人層は奴隷状態にちかく最貧層を形成していた。革命によって教育も医療も生活も向上し政治参加も実現したが、現在でもなおその社会的差別が完全には解消していないことを認める。
警備の者たちもいるのだろうが、カストロが街に出て、率直に人々と接する姿にはあらためて驚く。カストロとキューバの人々との距離は驚くほど近い。現代キューバ人すべてとまではいかないが、ほとんど多くの人々がカストロに親しみを覚え、かつ信頼していることが映像の端々でわかる。
歴代のソ連の指導者たちの印象を語る場面もまた興味深い。「フルシチョフはまったく抜け目のない農民だった、でも彼に最も親しみを覚えた」という。女優ではソフィア・ローレンが好きだという。こういった断片の積み重ねで映画は構成されている。
6)映画に統一を与えているもの―――全体として有機的な体系をなすカストロの認識
オリバーの質問、それは意地悪いものもあるし、考えの浅いものもある。しかし、カストロはそのことを指摘しないで、怒りもしないで、その範囲内で率直に語っている。質問は断片的で、何の関連もなく皮相的な内容だが、カストロの回答はそれぞれ関連していて、全体として一つの有機的な体系をなしていることが徐々にわかってくる。誰もがわかるかどうかは別としても、オリバーだけではなく観客も次第に理解する。映画に統一性を与えているのは、監督ではなく、カストロの返答の統一性にある。個々の断片的返答が革命キューバの成立と現代キューバ社会を描き出しているのだ。それがこのドキュメンタリー映画を統一性のある偉大なものにしている。監督オリバーも注目すべきカストロ像とキューバの現実に触れ、彼なりに理解しそれを生かすように編集したようである。(文責:児玉 繁信)
追記:2007.12.26
カストロを評して「知性溢れる人物、偉大な知性」と書いた。
人によっては受けとった「知性」の意味が、当然違っていることもあるだろうことに、しばらくたって気がついた。
とすれば、私が「偉大な知性」と書いて済ませたのは、舌足らずということになろう。 私は、カストロが多くの知識を持っていると言っているのではない、また、彼のIQが高いといっているのでもない。次のようなカストロの思考と行動、態度の全体をもって彼の知性と呼んだ。
ソ連や東欧の社会主義が解体した後もなお、そして中国やベトナムが資本主義へ移行している現在もなお、この変化した条件のなかで、キューバ社会主義は生き残らなければならない。新経済政策を導入し、外貨を稼ぎ、資本主義を一部導入して生産力を高めなければならない。そしてまた、鎖国キューバ経済は成立しえないから、中南米を中心とする途上国との輸出入、経済関係を拡大し、そのベースの上に現在の社会主義キューバを存立させなおさなければならない。資本主義の導入は、当然のこと資本主義化への危険をともなうし、他方、グローバリゼイションや新自由主義に対抗できる基盤を、国内的にも国際的にもつくりあげなければならない。以前のままのキューバ社会は存立できない。新しい変化する条件に適応できるキューバに不断に変わっていかなければならない。これが現代キューバにおける社会主義建設の一局面なのだ。
あらゆる条件が変化するなかで、機能しなくなった社会関係を見きわめ、これを指摘するだけでなく変更する人々の関係を、上からの司令ではなく議論もしながら不断に、しかも人々の自主的な社会関係、連合体としてつくりあげていかなくてはならない。
このようなトータルな生きた国内的国際関係のなかで、これにどのように対処すべきかということにカストロの問題意識は集中している。
したがってあらゆることが有機的に連関し、生きて変化するととらえているし、そのなかでどのような行動、方針、キューバ社会、人々の関係をつくりあげていくか、ここに彼の問題意識、発言、行動は集中している。この彼の世界観と行動の指針をもって、私は「偉大な知性」と呼ぶ。少々強引な追記である。
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