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人は簡単に壊れる! 加藤智大被告 [現代日本の世相]

 人は簡単に壊れる!加藤智大被告

 1)3月24日、東京地裁は、秋葉原殺傷、加藤被告に死刑判決

 3月24日、東京地裁は、秋葉原無差別殺傷事件で殺人罪などに問われていた加藤智大被告(28歳)に死刑判決を言い渡した。この事件は2008年6月8日午後0時半ごろ、秋葉原の歩行者天国の交差点に軽トラックで突入し、5人をはねて3人を死亡させ、さらに12人を刃物で刺して4人を死亡させたもの。

 新聞報道によれば、概要は下記の通りである。

 加藤智大被告は、当初「人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと供述し、捜査段階から一貫して起訴内容を認めていた。そのため、裁判では被告の「責任能力の有無」が主な争点となっていた。

 検察側は起訴前の精神鑑定をもとにして「完全責任能力が認められる」と指摘し、「犯罪史上まれに見る凶悪事件で、人間性のかけらもない悪魔の所業」として死刑を求刑していた。
 
 これに対して弁護側は「被告は事件当時の記憶がほとんどなく、何らかの精神疾患があった可能性がある」として心神喪失の状態にあったと主張して死刑回避を求めていた。

 村山浩昭裁判長「白昼の大都会で、多数の通行人の命を奪った責任は最大級に重い。人間性の感じられない残虐な犯行だ」とし、検察側の求刑通り責任能力を認め、死刑が言い渡された。

 判決は動機について、幼少期に「虐待とも言える不適切な養育」を受け、他人と強い信頼関係が築けなくなったことや、友人や仕事を失い、「居場所がない孤独感」を感じていたことが背景にあると指摘している。そのため、「現実より携帯電話の掲示板サイトでの人間関係の比重が重くなったが、サイト上の嫌がらせでネット上の人間関係を失ったと感じ、大きな事件を起こして嫌がらせをやめさせようとした」と分析した。

 ただ、加藤被告自身は、法廷で「携帯サイトの掲示板で嫌がらせをした人にやめてほしいと伝えたかった」と述べ、検察側が動機として指摘していた自分の容姿に対する劣等感や、派遣社員で不安定であることに悩んでいた内容については否定したという。

 判決は「相手のことを全く顧みない、人間性の感じられない残虐な犯行」と指弾した。判決は「個人的事情を理由に無関係の第三者に危害を加えることなど到底許されない」と批判し、「犯行を思いついた発想の危険さ、残虐さ、冷酷さは被告人の人格に根差したものであり、更生は著しく困難である」と述べた。

 事件後、インターネット上に凶悪犯罪を予告するような「模倣」したかのような書き込みが相次ぎ、警察は取り締まりを強化した。加藤被告が犯行に使った両刃のナイフは、所持が禁じられた。

 判決、および上記の報道に見られる日本社会の認識と対応は、果たして進行している現実を把握しているのか、その上できちんと対応したといえるのか、という観点から、大きな疑問・疑念を感じずにはおれない。

 2)「会社に居場所がなくなった

 加藤智大被告は、「会社(派遣先)に居場所がなくなった」と供述した。
 実際その通りであろう。

 加藤被告は、2007年11月から日研総業の派遣社員としてトヨタ系列関東自動車工業東富士工場(静岡県裾野市御宿1200)の塗装工程で働いていたが、2008年5月29日に、1ヵ月後である6月末で契約を解除するという通知を受けている。派遣社員という彼の立場での「契約解除」は、職と同時に住む場所も失う事を意味する。

 彼自身が携帯サイトにこう綴っている。「あ、住所不定・無職になったのか ますます絶望的だ」と。彼が絶望的になっているところへ「ツナギ紛失事件」が起きる。犯行を起こす3日前の6月5日朝、職場へ出勤するもののロッカーにある筈の自分のツナギの作業服がなかった。加藤は、怒って暴れて帰ってしまう。「あるはずの作業着のつなぎがロッカーに無かった、それは自分に会社を辞めろということかと思った」と加藤被告は供述している。このトラブルが無差別殺人の引き金になったようである。

 職を失い、住む場所も失う。職場では一人の人格として扱われていない。取り換えのきく部品であるかのような扱いだ。唯一の「関係」であるネット上でも、声を上げ発信するにもかかわらず、誰からも相手にされない、自分は誰からも認められていない、見られてもいないという焦燥と失望から、もう自分はどうなってもいいという絶望の淵に立つに至ったのである。

 加藤被告は以前から、派遣契約を打ち切られるのではないかという不安を同僚に漏らしている。あるはずの作業着のつなぎがロッカーになかったのを見て「クビになったと思い込む」のは、加藤のような扱われ方をしてきた者にとっては、きわめて「当然な、自然な認識」であろう。実際にこれまで簡単に首になってきたし、そのように扱われてきたから。

 3)まさに「流浪の孤立者」

 加藤被告のたどってきた軌跡をあらためて追ってみよう。
 青森を離れてからの加藤被告の軌跡を追うと、まさに彷徨っている、「流浪の孤立者」である。

2001年3月:県立青森高校を卒業、中日本自動車短期大学(岐阜県加茂郡坂祝町深萱1301)入学
2002年:卒業まで半年になり、突然、地元の国立大への編入希望を出した。受け入れられるはずもない。
2003年3月:中日本自動車短期大学卒業、
2003年7月から2005年2月まで:宮城県仙台市に住む友人宅に身を寄せ、03年暮れに仙台市内の警備会社に契約社員として勤務。05年2月「自己都合」で退社。
2005年4月から2006年4月まで:日研総業派遣社員。埼玉県にある日産ディーゼル工業上尾工場に勤務。
2006年5月から2006年8月まで:茨城県常総市の住宅建材メーカーに派遣社員として勤務。
2007年1月から2007年9月まで:青森市でトラックの運転手として(2007年4月以降は正社員)、 「自己都合」で退社。
2007年11月から2008年6月まで:日研総業に登録、静岡県裾野市の関東自動車工業東富士工場の派遣社員で働いていたが、事件3日前の6月5日に、ロッカーに作業着がないと怒って帰る。6月6日以降は無断欠勤。

 東日本各地を転々としている。加藤智大の孤立した流浪の生活を想像してみよう。とうてい、他の人と深い繋がり、人間関係を持ち、それを育て継続させていくような状況ではなかったろう。

 『流浪の孤立者』。このような働き方、暮らし方をする人は急増してる。
 派遣社員の全員ではないものの、加藤のような孤立した流浪生活を繰り返す人々は多く存在する。現代日本社会ではこの10年急増したし、現在もなお増えている。『流浪の孤立者』は加藤だけの特殊な例ではない。日本社会に広がっている過酷な「働き方」であり、それ以外選択できない追い込まれた人たちが確かに存在する。そのようにいえばすでに日本社会には『流浪の民』は形成されている。かつ『流浪の民』同士は何の繋がり連携も持っていない。孤独な人たちだ。

 4)自分はだれからも認められていない 

 加藤は、自己顕示したかったわけではない、ただ誰でもいいから自分のことを気にかけてほしかった、相手にしてほしかった。濃密な人間関係を取り結びたかった。人は人である限り、人とのつながりを求める。でなければ生きていけない。しかし誰も気に留めてくれない、誰も自分を受け入れてくれない。

 携帯サイトに頻繁に送信される彼のメールを見ても彼の孤立感は尋常ではない。(犯行前半年間、携帯サイトに加藤の送ったメールがネット上に公開されている、加藤がどういう暮らしをし、何を考えていたのか、その一端がよくわかる)。

 携帯メールの送られる時間が、まったく不規則である、ほとんど夜中、多くは明け方に送られている。そのことに驚く。彼がいかに不規則な生活、非人間的な生活をしているかわかる
 
 確かに、人はとりあえず衣食住があれば生き延びることはできる。しかしあくまでとりあえず、である。希望なしに、人とのつながりなしに、生涯にわたって生きていくというわけにはいかない。加藤には、衣食住はとりあえず確保できたが、人とのつながり、人間関係を持たなかった。派遣社員である加藤は、職場では人格を持つ一人の人間として扱われてこなかった。そこには密接な信頼にたる人間関係は形成されなかった。忙しい時には派遣されて働き、暇になれば契約を解除される。取り換えのきく「もの」扱いだ。会社の契約しているアパートに帰れば一人であって、隣人との関係もない。ネット上にしか人間関係は存在しない。

 だから、加藤は唯一の「人間的つながり」である携帯サイトに、「つながり」をもとめ、自らの存在を叫んでいた。『俺のことを見てくれ!』『俺を認めてくれ!』と。

 犯行日近くになると頻繁に携帯サイトにメールを送っている。携帯サイトだけが彼を相手にしてくれる「場」だった。誰かが気まぐれに返信してくれる。気まぐれな返信やコメントだけが、彼の相手だった。しかし、この「関係」は気まぐれで、希薄なものであって、実際のところ、6月8日朝【秋葉原で人を殺します】と「犯行予告をした」にもかかわらず、ネット上の相手は、誰も止めてくれなかった。コメントもなかった。「誰かが止めてくれると思った」と、加藤は後日語ったそうである。

 もともと何のつながりを持たない、職場では人として扱ってくれない、話をする相手もいない。自分が発信するのはネット上だけである。自分は何のために存在しているのか? 存在理由を確認できない。自分は存在しているけれど、誰も必要としていない。誰も見てさえいないし、気にとめていない。こういう生活を続けておれば、人は簡単に壊れる。

 絶望の淵から飛び降りた加藤は、自暴自棄になった。自分はどうなってもいい、もう死んでもいい、死刑になってもいい。それでもいいから、事件を起こしてTVや週刊誌に載ることを最期に期待したのは、『誰か俺を見てくれ! 相手にしてくれ!自分という人間がいたことを認めてくれ!』と強烈に欲したからだろう。

 つながりが希薄な社会のなかでは、「自分は果たして何者なのか?」、本人にもわからない人間ができてくる。人は社会関係の総体であるから、社会関係が希薄になり、相互の人間関係にて感情の表出、ぶつかりを抑え続けて消えてしまえば、人間関係が形式的な儀式・技術に置き換わってしまう、貧弱な人間関係になってしまう。するとそれが、その人になってしまう。希薄なつながりしか持たなければ、「人の内容」が希薄になってしまう。

 人間関係を喪失したら、人は容易に壊れてしまう。貧弱な社会関係しか持たなければ、その人の『内容』も貧弱になる。人は誰からも相手にされなければ生きていくことができない。

 5)判決は何を決めたか!

 3月24日の東京地裁判決は、何を決めたか。
 凶悪な事件を起こしたこの「やさ男」に死刑判決を下し、日本社会から排除することにした。

 全体としてみれば、裁判所と裁判制度は、現代日本社会が生みだしたし、現在もなお生みだしつつある加藤智大のような人物、「壊れた人たち」を、日本社会から排除することにしたのである。

 このことは、日本社会の抱えている病状・問題点に対して、法制度・裁判制度がいかにずれた対応をしているかを示しているだろう。それだけでなく、法制度・裁判制度は、現代日本社会の抱える問題して、それを認識し対処し解決する力を持っていないことを、証明しているだろう。

 このような意味からすれば、加藤を死刑にして排除しても、同じような境遇の人は今現在も大量に再生産されているのであり、判決は「死刑」なる厳罰で脅して押さえつけることを意図しているのであろうが、何の解決にもならない。むしろ「何も解決しない、解決に関与しない」ことを表明していることになる。

 6)人々の反応
 
 テレビのワイドショーで事件が取り上げられるたびにコメンテーターが発するのは「どうしてこんな凶悪な事件が起きたのか?」という対応である。そして「いかに特別な事件であるか! 犯人がいかに特別な凶悪な人物か! あるいはこんなにも怪しい、奇異な、普通とちがう人物であるか! 生い立ちや家庭環境や教育からしてもともとおかしい 」・・・・・・・こういう結論(にならない結論)で繰り返し塗りつぶして、「ひと騒ぎ」して終わりである。

 あるいは、ネット上の反応をみると、加藤被告に対して「こんな事件をおこしたらどうせ死刑なのだし、死にたかったら一人で死ね、俺たちとはまったく違う奴」という言葉、感情を投げつけるのが一つの傾向のようである。

 加藤に対して厳しい非難の言葉を投げつける反応が極めて多い。「とうてい理解しがたい、愚かな人物」と描き出す。自分とは全く違う人物と描きだしたいようである。加藤を「理解する」以前に、強い調子の「拒否反応」を示している。おそらくこのような反応は、自分は「そうなってはならない」という拒否反応(あるいは、自覚しておれば自戒)からくる面が多く混じっていると思われる。

 ネット上で見て驚いたのだけれど、「加藤は在日朝鮮人」という書き込みが氾濫している。理解しがたい人物は「在日朝鮮人」と決めつけて排除する、このパターン化した「対応」である。というよりはこういう「心情」は、崩壊していく日本社会なかで日々迫ってくる自身の「不安」、焦燥、苛立ちを、受け止め理解し対処するのではなく、目の前の誰かを敵か原因にみたて排除しようというものであろう。排外主義的な方向への組織化していく危険な動きに利用されかねない。社会の内部の自分ではない別の人びとを敵と見立て対立を引き起こし、ある部分を排除していく志向を表現している。

 いずれにせよ、これも加藤を「理解しがたい人物」として描き出す「心情」の背景をなすものであろう。そうして「自分とは違う」という結論を導き出して少し安心するのである。

 われわれは、加藤智大を「理解しがたい人物」として描き出してはならない。彼を理解しなければならない。現代日本社会をとらえている病の産物である。

 7)メガネをかけた「やさ男」 

 加藤智大は、凶悪犯というにはあまりにもイメージが異なる。加藤はどう見ても「やさ男」である。一見して決して「凶悪」という印象ではない。

 より正しく言えば「壊れた人」。何かひ弱な、自分の居場所を持たない、あるいは奪われた人たち、現代日本社会から「排除」「疎外」された人たちの、最後の反抗、あるいは暴発であるように見える。「自暴自棄」的に、緊急避難的に見ず知らずの人を傷つけて、破綻した自身を死刑にして、この生活を終わらせたいと妄想した。そのことを通じて自身の存在を認めてもらいたかった。

 加藤智大のような人物は、現代日本社会が生みだした一つのタイプであることに間違いはない。

 自分はだれからも認められていない、受け入れられていない。

 このように言うのは、7人もの殺傷事件を起こした加藤の犯行を擁護しているのではない。これは明白な犯罪ではある。被害者は何の関係もないのに殺害されたし、傷つけられた。こんなに理不尽なことはない。
 
 問題にしているのは、事件がどうして起きたのか、その解決には何が必要か、考え対応しなければならないということだ。加藤の破綻は、日本社会の欠陥を体現している。

 加藤のような人物は、不安定雇用低収入の孤立する単身者が急増する現代日本社会が生み出したものであることもまた間違いない。加藤のような人物がどのようにして形成されてきたのか、ということである。加藤の犯行は「特別」であろうが、彼のような生活を送る人たちは、決して特別ではない。むしろ一般的なタイプであり、多数存在する。

 押さえつけられ支配されてきたこの人たちは、自己と自己の権利を主張する術を持たない、その資質まで失ってしまう。何か問題が発生したとき、これを解決する術、解決する上でのまわりとの関係、人間関係、社会関係をもたない。リセットするしかない。「無断欠勤」、「自主退社」して、他の派遣に移るしかない。そうして孤立した「流浪の民」に加わる。(「無断欠勤」、「自主退社」という言葉は、会社には責任はなくて、派遣社員当人の「自己責任」という意味をその内にすでに含んでいる。)

 そのうちの全員ではない極少数の者が、リセットという解決でない解決を繰り返すことができなくなった者の一部が、最後に「自爆的」に「壊れて」しまったのだ。事件を起こしたから、「顕在化」した。しかし、事件を起こしていない人は、私たちの周りに既にいっぱいいる。顕在化したのは、氷山の一角である。加藤のように暴発して人を傷つけるのではなく、「壊れて」自殺した人はより多くいるだろう。自殺未遂した人は、さらにその数十倍はいるだろう。これも同じ社会的病状からくる。その原因は底部において重なる。

 「自爆的」に「壊れて」しまったから、初めて注目するべきなのではない、問題視するのではない。事件を起こさない多くの人たち、その多くの人たちを生みだしつつある現代日本の社会関係をこそ、問題にしなければならない。

 日本人の自殺者が年間3万人を超えて久しいが、このうちのある部分は、加藤のような「だれからも認められていない、受け入れられていない」人たちであろう。この二つの現象は「対」としてとらえるべきと判断べきであると考える。「顕在化」していないさらに多くの「だれからも認められていない、受け入れられていない」人は、たくさんいる。日本社会のなかで自分を発信する機会も少なくしか持たず、その術を身に着けることができなくて、黙って孤独の中を生きている人はたくさんいる。それぞれが日々、一所懸命生きている。

 そこには格差社会日本における新しい階層階級の支配―被支配関係がズシリと重くのしかかっている。格差社会日本では、人と人との関係を、正社員と派遣社員の関係に変えてしまう。それに連なる支配―被支配関係、搾取する人間の搾取される人間に対するむき出しの支配に置き換える。派遣社員のうちのある部分は、希薄な人とのつながり持つことができず、使いまわしされ、実際に現代的「奴隷」として扱われている。

 文句を言えば、派遣元に連絡され取り替えられる、気に入らなければ雇い止めにされる。派遣社員の側の心情はいかほどのものか、その不安と焦燥は、孤独感はいかほどのものか。もはや一人の人間、対等な関係ではない。扱っている方は特に気にも留めていないが、扱われている方は日々強烈な不満が蓄積する、あるいは不安が自身を襲う。そして、壊れる。

 このような「効率的支配」は長年かけて生みだされたものである。日本的経営の産物、現代的な日本資本主義の産物なのである。不況になったら自由に解雇できる派遣社員を増やし、利益を生み出さない要因を徹底的に排除する「ムリ、ムラ、ムダ」のない経営。日本の企業、日本生産性本部はこれを目指してきた。この経営の志向に応えるように、労働力生産の場である学校も教育も、そして家庭も地域社会も「自主的に」変質してきた。

 したがって、「加藤智大」に観察される一つのタイプは、この現代日本社会が不可避的に今もなお生み出しつつあるタイプの一つに見える。死刑にしたり、厳罰にしたりしたら、問題は解決するのではない。すべての人が人との豊かなつながりを持っていくにはどうしたらいいか。孤立した低収入不安定雇用の人びとをなくし、格差社会日本をいかに住みやすく変革するかという問題に連なっているとうことだ。(文責:小林 治郎吉)












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ゆうこ

tamashigeさま、はじめまして。
おはようございます。

このエントリに衝撃を覚え、
貴ブログ記事を全文転載させていただきました。

突然のコメント、失礼しました。
まずは転載のご連絡申し上げます。
by ゆうこ (2011-04-29 06:34) 

ゴンザレス

【地獄にも仏、鬼の目にも涙】
余りにも世間は冷たい。地獄の底でも慈悲を垂れる仏、地蔵 菩薩がいても良さそうなもの。加藤被告は凶悪犯罪を犯したのだから、裁判でどのような判決が出ようと厳粛に受け止めねばならない。日本は恵まれている方だ。ある程度空調が効いた所で三度の飯を頂けるからだ。但し、入浴は毎日という分けには行かないようだが。外国の監獄ならば、即刻死刑か、鞭打ち刑や飯無し空調無しの生き地獄を味わう所も少なくない。さて、加藤が犯した罪であるが、このブログの読者の中で、厳しい待遇に耐えて風雪の中で働く人達からすると、「対岸の火事」「妬ましいタダ飯の世界」「『監獄』という名のホテル生活」と映るだろう。しかし、このような暴虐な犯罪に走った人は、そうなる前から精神的に地獄にいた、という事だ。だから同じような境遇や同じような環境下にあったなら、同じような犯罪に走る可能性があるという事だ。加藤その2になりうるような潜在的危険性のある人達は多数いる事だろう。このようになる人は、周囲が「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」に見えていたり、生き血をすする吸血鬼、妖怪の世界に見えている事さえあるのだ。ウツ病になると世間が暗く見え、カルシウム不足になると、イライラになる。そして、食物繊維の摂取が不足すると、腹に慢性的な弱い痛みが出る。甘い食べ物、酒、辛い食べ物、日光浴不足、不規則な仕事と不規則な生活を続けていると、次第に人間がおかしくなる。私が実際にそうだったのだ。夜な夜な仕事に安いコンビニ弁当、パワハラのある派遣労働、タダ働きを要求される職場。カルシウム不足から怒りっぽくなって、「こりゃあ~まずい!」と判断、牛乳でカルシウム補給してイライラが消えた。食物繊維も積極的に摂るようにした。しかし未だ不十分だが。納豆にヨーグルト、休日には出来る限りの日光浴だ。少しは改善した。
by ゴンザレス (2011-07-30 09:47) 

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