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森近運平 「父上は怒り玉ひぬ 我は泣きぬ さめて恋しき 故郷の夢」 [現代日本の世相]

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  <森近運平 NHKテレビより 2012年1月30日放送>

森近運平の生家跡を訪ねる

 2013年1月24日、岡山県井原市高屋町の森下運平生家跡を訪ねた。
 高屋町中心部から高屋川沿いに5,6キロメートル上流にすすみ田や家々が少なくなった山間に、生家跡はある。石碑のみで、すでに生家は残っていない。少し離れて西側の山際に森近一族の墓所がある。

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<墓所から高屋川下流側(南側)を望む、山の向こう側(下流側)に高屋の町はある>
 
 大逆事件(1910年)で幸徳秋水以下26名が逮捕され、12名が絞首刑にされた。処刑されたのは1911年1月24日、管野すがのみ25日。102年目に当たる。
 無期刑とされた12名の多くも獄中で死んでいる。

 刑死者12名の一人が森近運平、岡山県井原市高屋町(当時は、岡山県後月郡高屋村田口)の山里の農家に生まれた。日清、日露戦争の影響で困窮する農民の救済を志し、社会主義草創期を代表する先進的な業績を残した。だが、彼の足跡は30年で消された、とともにその後も「国賊」の烙印のため長く封じられてきた。
 戦後、「大逆事件」は天皇制国家が捏造した権力犯罪であることが明らかになった。しかし再審請求を高裁が1965年に棄却、最高裁も特別抗告を1967年に退けたままである。

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<獄中の歌 「父上は怒り玉ひぬ 我は泣きぬ さめて恋しき 故郷の夢」>

 高屋町の故郷には刑死50年後の1961年に建立された墓や顕彰碑が立つ。
 1961年に「森近運平之碑」(荒畑寒村書)が建立され、碑には運平が処刑前に獄中で残した歌が刻まれている。

「父上は怒り玉ひぬ 我は泣きぬ さめて恋しき 故郷の夢」   とし彦

 「とし彦」とは、堺利彦、彼の書である。

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<「森近運平之碑 寒村書」とある>

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<「とし彦」>

 大逆事件の刑死者たちは、処刑後、墓に葬ることも禁じられた。生家跡近く山際の墓所に墓を建立できたのは半世紀後の1961年。運平の墓には左右後ろの三面に、生い立ち、刑死、建立の経緯まで細かくびっしり碑銘が刻まれている。50年ぶりに建立されたこの墓には、遺族と「森近運平を語る会」の人々の思いも、ともに刻み込まれている。

 わずか30年の人生だが、その足跡は鮮烈である。岡山県庁時代の「産業組合手引」著述、日露戦争に対する反戦運動、「岡山いろは倶楽部」設立。さらに大阪平民社での「大阪平民新聞」発刊、体系的社会主義書とされる「社会主義綱要」著述、・・・・大変な活躍ぶりである。
 碑銘にはないが、片山潜や堺利彦らと国内初の合法社会主義政党「日本社会党」を結成、その際には幹事役も務めた。反戦平和、格差是正、女性解放などの活動の功績もある(田中伸尚『大逆事件』 岩波書店 2010年5月28日刊より)。

 幸徳や堺らは平民新聞で日露戦争反対を唱えた。運平も岡山県職員の時代に、吉備支所で日露戦争公債購入に反対する演説をし、「依願免官」に追い込まれている。
 天皇制政府が大逆事件を引き起こしたのは日韓併合と同じ1910年。日清、日露戦争を経て大陸進出を図り、侵略戦争による領土拡大を推し進める政府は、国内での思想弾圧を強める。戦争遂行体制の整備である。平民新聞は何度も発禁とされ、社会主義者たちは執拗に弾圧される。
 運平は事件前年の1909年には生活も活動も困窮し、社会主義活動の盟友・幸徳秋水と訣別し帰郷した。
 故郷では農学校で培った専門知識を生かし、最先端の温室栽培に挑戦。農業や農村生活の改善運動に励んだ。短い期間ではあったが、地元の人たちに確かな印象を残した。

 そのようななか、事件は起きた。いや、起きたのではない、天皇制政府が引き起こしたのである。思想や言論の弾圧のため、全国の社会主義者、無政府主義者を処刑することを目的として起こした権力犯罪であった。元老・山形有朋、桂太郎首相、平沼騏一郎司法省民刑局長らがシナリオを描き、実行した。

 運平を含む刑死者、逮捕者たちの潔白は、戦後の再審請求とともに深まった研究・調査により、捜査や裁判の不当性とともに、明らかにされた。だが前述のとおり、再審請求は高裁が1965年に棄却、最高裁も特別抗告を1967年に退けた。事件の本質を明らかにすることを、戦後日本の検察、裁判所は拒否した。既存の法秩序、支配秩序が乱れることを嫌い、権力による犯罪であること、冤罪であることを認めようとしなかった。「法の安定性を守る」という「理屈」である。したがって司法は現在もなお、権力が引き起こした犯罪、「大逆事件」に加担しつづけている。

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<森近運平の妻・繁と娘・菊代、 処刑後「たぶん繁子が生家に戻る直前に撮った母子別れの写真」(細井好氏)という。田中伸尚『大逆事件』より>

 処刑の三日前、1911年1月21日、妻・繁子に宛てた手紙からは、運平の「人物の大きさ」が読み取れる。(文末に掲載)

 自身が刑死することを知った運平が、妻や娘にたいする思いやりあふれる言葉を残している。「弱い女」の身である妻に幼い娘を遺して先に逝くことを詫びるかのように述べ、処刑後の遺族に対する迫害を予想したのだろう「胸の裂ける思がする」と記している。「事件の真相は後世の歴史家が明らかにして呉れる」と自身の信念の一端も記したうえで、7歳の娘・菊代には「お前のお父さんはもう帰らぬ。監獄で死ぬ事になった。其訳は大きくなったら知れる」と別れの言葉を残した。(田中伸尚『大逆事件』 岩波書店 2010年5月28日刊より、多くの叙述を引用させていただきました。)
 なかなかこのように書けるものではない。
 
 運平の処刑後、実家に戻った妻・繁は、わずか三年半のちの1914年夏に、娘・菊代は1927年5月30日、23歳で亡くなっている。

 田中伸尚氏は、著書『大逆事件』で、「運平のいう『後世の歴史家』とは、決して専門の研究者だけでなく、広く私たちの社会を指しているのだろう。」と書いている。まったくその通りである。田中伸尚氏の言うとおり、私たちは運平の言葉を一歩踏み込んで受け取らなければならない。
 司法はいまだ「大逆事件」の再審請求さえ拒否したまま放置している。そのような現代日本社会を生きる私たちは、「事件の真相を明らかにて呉れる」という運平の遺言に果たして応えていると言えるであろうか、そのように問わなくてはならない。

 生家跡や墓所に立つと、無実の罪で処刑された運平と、「国賊」の縁者として苦しんだ人らの無念さや怒り、悲哀が、季節の寂寥感とともに伝わる。

 運平の墓の前には、3mはあろうかという逞しい南天の樹が天にむかって奔放に伸びる。
     (文責:児玉繁信)


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<運平の墓の前にある南天>

1911年1月21日、運平から妻・繁への手紙

 「実に世に類なき裁判であった。判決を知った時、御身は狂せんばかりに嘆き悲しんだであろう。まことに思いやられる。それも無理はない。僕は死の宣告によって道徳的義務の荷をおろして安楽な眠りに入るのだが、御身と菊とはこれがために生涯の苦痛を受けねばならぬのである。御身は今まで僕のために苦労ばかりしてくれたのに僕は少しも報いることを得ず、弱い女に幼児を背負わして永久の眠りに就かねばならぬ。アア胸の裂ける思いがする。愛する我が妻よ、人間の寿命は測るべからざるものだ。蜂に刺されたり狂犬に咬まれたりして死ぬ人もある。山路で車から落ちて死ぬ人もある。不運と思うてあきらめてくれ。事件の真相は後世の歴史家が明らかにして呉れる。何卒心を平かにしておもむろに後事を図ってくれよ。(一部略)

 そして葡萄栽培や養鶏などで飾らず偽らず、自然を愛し、天地と親しみ、悠々としてその生を楽しみうるならば、またもって高尚な婦人の亀鑑とするに足ると思う。順境にいては人の力量は分からぬ。逆境に処して初めて知れるのだ。憂事のなおこの上につもれかし、限りある身の力ためさんという雄々しき決心をして、身体を大切にし健康を保ち父母に孝を尽くし菊を教育してくれ。これ実に御身の幸福のみでなく僕の名をも挙げるというものだ。

 菊に申し聞かす。お前は学校で甲ばかり貰うそうな。嬉しいよ。お前のお父さんはもう帰らぬ。監獄で死ぬ事になった。其訳は大きくなったら知れる。悲しいであろうがただ泣いたではつまらぬぞ。これからはおじさんをお父さんと思うて、よくその言いつけを守りよき人になってくれよ。大きくなったらお母さんを大切にしてあげることがお前の仕事であるぞ。
                        一月二一日記 」

‐‐‐‐‐‐
2013年5月8日追記

 簡潔で明確な、上記の手紙は、実質的に運平の「遺書」となった。運平本人は「遺書」と自覚していなかったかもしれない。獄中でまだたくさん書き残すべき多くのことがあったし、そのつもりであった。なにしろ、1911年1月18日に死刑判決が出され、わずか6日後の1月24日に執行されたのだ。

 「妻への手紙」では、運平の人柄の一端をうかがい知ることができる。

 「・・・そして葡萄栽培や養鶏などで飾らず偽らず、自然を愛し、天地と親しみ、悠々としてその生を楽しみうるならば・・・」と書いているのをみても、運平自身が「飾らず、偽らず」生きることを尊重していたと教えてくれる。
 「自然を愛し、天地と親しみ、悠々としてその生を楽しみうる・・・」という叙述も、運平の自然に対する、田畑に対する、農村での暮らしに対する考えでもあるのだろう。これから死刑に処されようようとする人物が、妻と子に対し、「生を楽しみうるならば・・・」と書くのである。

 また別の一節では、きわめて自然にかつ率直に「愛する我が妻よ!」と呼びかけている。 明治の男で、このように率直に「愛する我が妻よ!」と呼びかけた者が、果たして何人いたことだろう。そればかりではない、文面には妻を一個の自立した人として、対等に扱っていることもわかる。それも彼の社会主義思想の一部であったのだろう。この一点だけとってみても、彼が時代のはるか先端を歩んでいたと、うかがい知れる。

 森近運平と同時代人であるわが愛すべき石川啄木は、妻・節子が家出し実家に逃げた時、金田一京助を訪ねるなり、「嬶(かかあ)に逃げられあんした」と語ったという。啄木に比べてさえも、運平の自然で落ち着いた、先進的な考え方が読みとれるのではないだろうか。もっとも、啄木を悪く非難するつもりはない。「大逆事件」の内容と意味を、その起きたさなかに知ろうとつとめ、かつ批判的な考えを書き残した数少ない日本人、啄木である。

 草花の匂いのする社会主義思想家・森近運平、「遺書」だけ読んでも運平が、いかに魅力的な人物であったか、わかるのである。

 
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