SSブログ

必然性において理解する [現代日本の世相]

 益川敏英の講演が、3月14日 読売新聞で紹介されていた。

 2月25日、ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「次世代へのメッセージ」が大阪・清風学園講堂で行われたという。そのなかで、益川敏英・京都産業大学教授(2008年ノーベル物理学賞受賞)の基調講演が、3月14日の読売新聞で紹介されていて、おもしろく読んだので、その一部を書き抜いてみた。

120321 3月14日読売新聞 益川敏英 (320x256).jpg

――――――――――――――――――
 
 「・・・・・科学がどういうものか説明するために、まず「自由」とは何か?というところからはじめたい。

 目の前に二つのレバーがあり、いずれかを引くと百万円が出てくるが、もう一方を引けば青酸ガスが出て、あなたは死ぬ。「どちらでも自由に、好きなほうを引いてください」と言われたとする。「自由に」と言うが、実はそこに自由はない。ただ偶然に身を任せているだけだ。

 自由とは「こうすればこうなる」という必然性を理解した上で、選択することだ。そして科学は、人類にこの必然性を教え、より多くの自由を「準備する」ものだと言えるだろう。

 ファーブルが「昆虫記」を記した当時、彼が住んでいた仏アビニョン地方では蚕の病気が流行し、主要産業の養蚕業が大打撃を受けていた。政府が派遣した対策団の団長は細菌学を確立したパスツールだった。

 ファーブルは、パスツールが蚕のことをまったく知らないことを知って落胆した。しかしパスツールは、昆虫に精通したファーブルがまったく手を打てなかった蚕の病気を鎮静化させた。

 この逸話から、科学というものの性格がわかる。ファーブルは現象的には非常に詳しいが、原理的なことを知らなかった。パスツールは病気が流行する原理を理解していたから、初めて見る蚕の病気にも焼却処分をするなど対処ができた。つまり、基礎的な科学には、より汎用性があるのだ。・・・・・・」

 そのあとで、「物事を現象的に理解するのではなく、原理にさかのぼって理解することが重要だ。」と述べて
いる。

ーーーーーーーーーーーーーーー

 益川敏英は確かに面白いことを言っている。
 まず、「自由」について言っていることは、適切であると思う。

 最近、コロンビア大学のインド系女性のシーナ・アイエンガー教授が、「選択肢が多い社会が自由な社会だ」と述べている授業を、NHKのETV で、何回か見た。
 「選択肢を選ぶ」「自由」は、益川敏英の言うとおり、本物の自由ではない。単なる偶然である。あるいは、「にせもの」の、見せかけの自由である。ところが米国の一部の大学では、それが「自由」だとおおっぴらに言われている、ということもあるらしい。

 例えば、選挙のおりに「共和党」と「民主党」しかない。選んでいる選挙人のなかには、「自由」に選んでいると思っている人も、なかには幾人かいるだろう。
 先のコロンビア教授は、「選択肢がないよりはあるほうが、自由であるのは確かだ」と言うだろう。何度も繰り返される「自由」についての薄っぺらな講釈だ。

 「選ばされている」というのが、適切かもしれない。そう思っている人もいるにちがいない。
 「自由」と言いながら、極限にまで切縮められた「自由」、贋物に転化している「自由」であろう。

 日本でも事情は、そんなに変わらない。自民党政権をやめ、民主党政権を選択してみたが、何も変わらない。民主党が変えられてしまって、実質何も変わらない。原発は再稼働されそうな状況だし、八ッ場ダムも再開する、消費税は上げられる、子ども手当は出ない・・・・。政権交代してみたら、本当の権力はどこにあるのか、が明らかになった。巨大な官僚機構、政治家、マスメディアそれらが一体となった本物の支配集団が、その姿の一端をあらわした。

 われわれの「自由」が、いつの間にか形式的なものに転化してしまっている。選挙権行使や、その結果としての政権交代さえも、無効にしてしまう「力」が存在し、働いている。

 われわれの「国民主権」は、自身の「自由」を全面的には発揮していない。益川の言うとおり、国民がわからすれば、「必然性を理解した上で、自由を行使しなければ、自由とは言えない」ということであれば、国民主権は、「こうすればこうなる」という理解力を獲得し、本当に変革するプランを見つけ、そうして自身の「自由」を行使しなければならない、ということになろう。

 なるほど、益川敏英の言っていることは、おもしろいし、刺戟的だ。

 それから、パスツールとファーブルの話もまたおもしろい。

 ファーブル「昆虫記」で、昆虫について「現象的には非常に詳しい」叙述をした。それはそれで、貴重で、立派な仕事ではある。しかし、「昆虫に精通したファーブルは蚕の病気に対しまったく手を打てなかった」。
 他方、「蚕のことを知らなかったが、病気が流行する原理を理解していたパスツールは、蚕の病気を鎮静化させた」のである。

 われわれは、おうおうにして「現象」にだまされ、引きずりまわされることが、多い。
 「事実だ、事実だ」と言いながら、本当のところ、自分に、あるいは自分の主張や利害に、都合のいい「事実」を集めて、自身の主張を押し通すことも、そういう人も実に多い。
 気づかずに、そんなことばかり言っている人も、なかにはいる。「事実だ」と言えば、「科学だ」と思い込んでいる人も多い、あるいは誤魔化すことができると考えている人もいる。

 「科学的な装い」をもって、自身の主張と利害を貫きとおすのである。戦後、アメリカから入ってきた実証主義は、その一つでもある。

 素人ながら想像するのだけれど、理論物理学などにおいては、様々な実験結果、実験事実に引きずりまわされることなく、それら結果や事実を必然性において理解することが、何よりも必要なのだろうなあ、などと思う。
 益川敏英は、研究生活のなかでそのような考えを身につけたのだろうか、それとも坂田昌一がそのように言っていて、薫陶を受けたのであるか。もちろん、どっちでも構わない。

 そのようなことは、決して物理学においてだけのことではないだろう。
 そういう力、そういうとらえ方を、私たち自身が身につけなくてはならない。日常生活において、社会生活において、身につけなければならない。

 というようなことを考えたりして、面白く刺戟的に、読んだ。(文責:小林 治郎吉)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。