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福元館の多喜二 [現代日本の世相]

福元館の多喜二

 この春四月二二日、年輩の友人とともに厚木・七沢温泉の福元館を訪れた。山あいの小さな沢沿いに立つ福元館の周りには、ここかしこに八重桜が花開き、樹々は競って新芽を出していた。多喜二が秘密裏に逗留し小説『オルグ』を書き上げた福元館を、この心地よい季節に訪れる機会を持てたことを喜んでいる。
 心地よかったのは季節のせいだけではないようだ。ここでは多喜二が今もなお大切に扱われていると、確かに伝わってくるからでもあったろう。
DSC_0029 ○ 多喜二.JPG
 多喜二が宿泊し『オルグ』を書いた小さな「離れ」が、当時のまま保存されている。母屋の東、道路を隔てた崖上に、木々に埋れて立っている。下の道や母屋からは見つけることはできない。「離れ」の部屋には、丹前や炬燵用火鉢、徳利とゴールデンバット、鉄瓶が置かれ、ここで書き上げたとされる『オルグ』の表紙コピーもある。
 多喜二は一九三〇年六月二四日、治安維持法違反で検束され、翌三一年一月二二日保釈された。その後、暫くして福元館に逗留したことになる。このときの多喜二はすでに地下にもぐり不安と緊張に支配された生活を送っていた。多喜二のその緊張した「気持ち」に思いを重ねてみる。静かな、かつ生活感の乏しいこの離れにいると、彼の緊張の一部がよみがえってくるようにも感じる。
 「離れ」から外、ガラス戸の向こうの山あいの景色に目を移してみる。多喜二も書き疲れた後など顔を上げて何度も眺めたのではなかろうか。その景色は今も変わってはいない。
 「離れ」には母屋に通じる呼び鈴があり、手紙も食事も運ばれたという。多喜二は風呂以外に「離れ」を出ることはなかった。当時彼には拷問のひどい傷が残り、福元館では彼岸花と卵黄、酢、メリケン粉を混ぜて傷跡に塗ってくれたという。人懐っこい多喜二は福元館の人々に確かな印象を残したようだ。
DSC_0016 ○火鉢と徳利とバット.JPG
(火鉢と徳利とバット)
 ノーマ・フィールド『小林多喜二』(岩波新書)によれば、三一年二月ごろ七沢温泉に一ヶ月ほど逗留し『オルグ』を書いたことはこれまで知られていたものの、どの旅館であるか長い間不明であった。福元館であると広く知られるようになったのは、つい最近、二〇〇〇年三月のことであるという。福元館は、戦前戦中から戦後の六九年間にわたり、若くして虐殺された多喜二を、誰から求められることもなく人知れず大切に「供養」してきたのである。

 戦前戦中から敗戦直後、高度成長期、社会主義体制の解体、そして「蟹工船」ブームといわれる現代まで、多喜二評価は様々な「変遷」を経てきた。振幅の大きい「毀誉褒貶」が繰り返されてきたし、これからも繰り返されるだろう。しかし福元館における多喜二は、静かなずっと変わらぬ信頼に包まれ居場所を得ているようで、なにかしらホッとするものがある。多喜二は今なおここに逗留することを容認されているようでもある。

 福元館の多喜二をぜひ一度、訪れてみてはいかがだろうか。 (文責・児玉繁信)



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