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大嘗祭に異議あり!広島集会 [現代日本の世相]

 11月14日大嘗祭を批判した、広島集会が開催された。講演された天野恵一さんの話をまとめた。
 あくまで聞いた者のメモであって、文責は当方にある。


 大嘗祭に異議あり!広島集会
改めて「象徴天皇制」を問う
天野 恵一
 
 
 
1)天皇制は暴力・弾圧と表裏一体

 10月22日、「おわてんねっと」(「終わりにしよう天皇制!『代替わり』反対ネットワーク」)のデモに機動隊から乱入してきたのに3人が逮捕された。北海道でも「おわてんねっと」のメンバーが、友人の死に際し遺族の了解のもとにお金をおろしたところ逮捕された。天皇制に反対すると法律を無視した逮捕、弾圧が横行し、司法も追随する。天皇制には暴力・弾圧が表裏一体に存在する。

 国家とメディアが組んで、天皇の神聖化をつくり出す。メディアは過剰な「さまさま」報道を行い、絶対敬語を乱発。天皇は絶対神聖であって、反対する者には、警察・民間右翼が何をやってもいい雰囲気をつくり実行している。

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<講演する天野恵一さん>

2) 「いい天皇」と「悪い天皇」 

 白井聡が『国体論』で、明仁天皇が安倍の右翼的政策を批判したように述べた。

 1990年の本島事件を思い起こす。自民党系の本島等・長崎市長が「裕仁天皇には戦争責任がある」と発言したら右翼に撃たれた。この時、浩宮が「言論の自由は大切だから、守らなければならない」と発言。だからと言って、浩宮が「いい皇太子」なのではないし、支持すべきなのでもない。

 04年の園遊会で、東京都教育委員の米長邦雄から「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事です」と話しかけられた明仁が「やはり、強制ではないことが望ましい」と述べた。この時も「いい天皇だ」という話が出て、唖然としたことがある。

 「いい天皇だ」とは、問題の本質をまったく理解していない。象徴天皇制の存在そのものが問題なのだ。
 ただ、明仁は裕仁のように威張り腐る態度はとらず、メディア受けを意識し演じた。「象徴天皇制」の一特徴だ。自覚的に対抗しなくてはならない。

3)戦後の天皇制の始まり

・米国の原爆投下を、米社会は肯定する。「原爆でファシストを殲滅した」とトルーマンは宣伝し、大量虐殺の責任を回避した。その上で、天皇制を日本支配に利用することにした。象徴天皇制の成立背景だ。

・日本政府側は?  「天皇が決断して戦争が終わった、天皇は命の恩人だ」と描き出した。これも事実に反する。1945年の死者が最多だ。沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎への原爆・・・天皇が決断しなかったため多くの人が死んだ。※半藤一利:「天皇の決断で日本が救われた、天皇の決断が戦後の日本をつくった

 戦後民主主義、日本国憲法は、アジアへの侵略責任を米国に免罪してもらうことから、旧植民地出身者の切り捨てることから、天皇制を引き継ぐことから、出発している。

4)高御座(たかみくら)とデモクラシー

 戦後の憲法学者のなかからは、天皇制批判の理論もかなり出たが、限界があった。マシな憲法学者の論理の特徴は、「象徴天皇制」は「戦後につくられた」=戦前と戦後の断絶を主張する、また「憲法で天皇と天皇制を縛っている」という論理。その議論は憲法の枠内に限られ、憲法自体が時代的な限界をはらんでいることには触れない。そこに限界がある。しかし、こういう批判も今では少なくなった。

 裕仁は戦前戦後、連続して天皇を務めた。断絶していないが誰も不問にした。憲法には「天皇の地位は国民の総意に基づく」とあるが、嘘だ。国民は天皇を選出できないし、罷免もできない。
 「連続性」は、天皇制にとって不可欠、支配層の連続支配を意味しているからだ。

 今回の退位に際して明仁主導で皇室典範改正を行った。驚くべき事態だ。大日本帝国憲法は立憲主義ではなく、皇室典範は憲法より上位にあった。当時、皇室典範を変更できたのは天皇だけ。今回同じような事態が起きた。憲法上大問題なのだが、誰も問題にしない。異常な事態が目の前で起きている。戦後民主主義的な、憲法学の達成が、崩れ堕ちつつある。

 祭祀については、国家が丸抱え。即位式、大嘗祭合わせて166億円、すべて公費だ。
 高御座の継承儀式は、宗教儀式そのもの。大嘗祭だけではない、即位式すべてが問題。「政教分離」は、そもそもデタラメだ。祭祀は象徴天皇制にとって欠くことができない。「憲法20条(政教分離)があるから大丈夫」ではない。憲法20条は破壊され続けてきた。

5)どう立ち向かっていくか?

 象徴天皇制の成立している基盤、根拠をきちんととらえなおした上で、対抗を考えなければならない。「政教分離に反している」とかの批判もあるが、部分的な対抗であって限界がある。

 明仁・美智子が、災害地域を訪問し、国民(私事ではなく)のために祈る行為を行っている。これは「偽善」であるが、同時に国民統合のための「幻想」をつくり続けているのだ。徳仁天皇の時代には、より加速していくのではないか? きちんと批判していくことが重要だ。

 天皇制を批判していく上で「戦前回帰」と懸念するのももっともだが、戦後民主主義と憲法の限界を認識したうえで、私たちは象徴天皇制を批判し対抗していく論理を持たなくてはならない。

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 11月14日の天野さんの講演、そのあとの懇親会での話なども含めての感想を記します。あくまで筆者の理解に基づく感想です。

1) 天皇制と暴力装置のこと

 天野さんは、「おわてんねっと」(「終わりにしよう天皇制!『代替わり』反対ネットワーク」)のデモに、法律など無視した警察から弾圧・逮捕があり、司法も追随しているという現状を紹介されました。天皇制と暴力装置は表裏一体です。

 安倍首相は災害に際しての非常大権、権利の一次的な停止の構想を語りました。日本政府は、関東大震災の時に朝鮮人大虐殺、大杉栄・伊藤野枝夫妻・橘宗一少年や、南葛労働者の指導者である川合義虎ら8名の虐殺してきた「犯罪歴」を持っています。危険極まりありません。

 支配層に本当の危機が迫った時、天皇制を国家機構の一部として利用する、機能させることも考えておかなくてはなりません。

 タイのクーデターを研究すべきです。
 タクシン派政権をプラユット陸軍司令官がクーデターで倒し、プラユットは今、首相になっています。投票するとタクシン派が有利なので、直近の選挙ではタクシン派有力議員候補を「不敬罪」で狙い撃ちし、政権維持に成功しました。タクシン派は携帯電話などで富を成した新興資本勢力であり、プラユットは軍や国王に近い旧来の支配層、旧来の富裕層の利益を体現しており、どちらを支持すべきかとは言えません。権力争いとなった時、旧来の支配層が国王への忠誠、不敬罪などを利用し、権力を奪取した事実に注目しなければなりません。

 天皇制の機能の一つを想起させます。日本の支配層はまだ利用するほどの危機に陥っていないだけです。そのような機能を持っていることを常に意識し暴露することが重要だと思います。

 天皇制は、宗教であるとともに、支配的なイデオロギーであり、かつ国家機構の一部でもあります。

2)象徴天皇制に対する批判

 天皇制を批判する時、「戦前と同じようになる」という批判を聞きます。貴重な声だとは思いますが、象徴天皇制はすでに74年続いています。明治維新から敗戦まで77年間ですから、すでに近代天皇制の半分近い期間、続いていることになります。

 象徴天皇制は、材料は確かに古い伝統的な権力要素をもとにつくられていますが、74年間にもわたって戦後の日本社会のなかで再生産されてきており、「戦前回帰だからダメ」だけではなく、現代の日本社会に存続している象徴天皇制に対する批判をすべきだと思います。

 象徴天皇制は、イデオロギーである限り私たちの意識に日常的に介入してきており、社会のなかの物質的な関係に入り込んで来ます。象徴天皇制が現代日本人の価値意識の体系のなかで、どのような位置を占め、どのように機能し、どんな危機をはらんでいるか、意識的に明らかにしていくことで、批判し対抗していかなくてはならないと思います。

 例えば、天皇の地位は置かれている社会関係のなかで現実的に規定されますが(憲法の規定はその一部)、しかし不断に、儀式や祈りの行為を繰り返すなかで、日本社会とは独立に、まず天皇霊があり、新天皇の身体に付着して天皇にするストーリー=幻想をつくりだし、血縁の歴代天皇の存在を社会の成立原理にすり替えています。天皇の機能は、現代日本において人々を「幻想の喚起による心情の統合を促す」ところにあります。明仁・美智子の災害地域の訪問・祈りなどもその機能を果たしているのだと思います。

 象徴天皇制は、現代日本の社会階級的な対立を抑圧するためのイデオロギーであり、かつ政治機能を持った国家機構としてあること、したがって現代日本社会の欠陥として批判し、批判のうちにその廃絶を構想すべきです。

3)天皇制イデオロギーの根拠の一つ、連続性

 天皇制イデオロギーの根拠の一つは、「連続しているという幻想」です。アマテラス霊が歴代天皇に憑依して続いてきた、血統を根拠に2千数百年続いてきたというストーリー、そのストーリーからいつの間にか、特別な存在、「高貴な」存在へと転化します。

 世襲原理は、競争原理・自由競争における「高貴」の欠如を埋めます。連続する天皇の存在は、日本民族の変転する歴史の象徴へと転化し、歴史の欠如を埋めます。無国籍の「民主主義」、「物質文明」、「基本的人権」、「生産力」・・・・に対して、日本人のアイデンティティ―を意識させます。特にグローバリゼイション、日本社会の格差拡大と貧困層の増大、日本経済の停滞のなかで、反作用として天皇を意識したナショナル・アイデンティティーとして現代的に担ぎ出されるのではないでしょうか。

 これにどう対抗していくか? というのも象徴天皇制批判の一つの課題だと思います。

 懇親会での話ですが天野さんが、どこからか(憲法第1章を認めたのであれば共産党から)「天皇を選挙で選べ」という声が出るなら、支持してもいい、と言われました。選挙で選べば、霊の憑依とか、血統であるとか、2千数百年続いたとかのストーリーが一瞬にして壊れ、天皇は少しも「ありがたくない」存在になるからです。
 選挙で選ばれた千葉県知事の森田健作は少しも「ありがたくない」ので、災害地を訪問しても、「来るのが遅い」、「被害情報がキチンと伝わっていない、支援物資が届いていない、県は何をしているのか」、「公用車で別荘に寄ってきたのではないか?」などと文句を言われますが、天皇にはなかなか文句は言えませんし、言わない雰囲気がすでに醸成されています。
 もっとも天皇制に反対している者が、「選挙で選べばいい」と主張はできませんが。

 連続性のイデオロギー、その偽善ぶりをつねに暴露し批判し続けることも必要です。

 以上、講演を聞いての感想と考えたことです。










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