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天皇制は、すでに憲法を逸脱しつつある [靖国、愛国心、教育、天皇制]

天皇制は、すでに憲法を逸脱しつつある
        
1)「汝ら、悔い改めよ!」

 「汝ら、悔い改めよ!」とは、元は新約聖書にある言葉だという。この言葉を、トルストイは1904年6月に英国「タイムズ」誌上で発表した日露戦争に反対する「非戦論」の冒頭に置いた。東京朝日新聞は、杉村楚人冠が訳し「トルストイ伯 日露戦争論」という表題で、1904年8月2日~20日、計16回連載している。また、週刊「平民新聞」は、1904年8月7日第39号、幸徳秋水・堺利彦の共訳で、紙面一面から六面までつぶして「汝ら、悔い改めよ!(Bethink Yourselves!)」と題して一挙掲載した。「平民新聞」第39号は、発売後ただちに8千部売りつくしたという。

 ちょうどその頃、23歳の魯迅(1881年-?1936年)が、1904年9月からの仙台医学専門学校入学を控え、東京ですごしていた。留学生仲間のあいだでこの記事が話題になっていたのだろう。
 22年後の1926年、帰国していた魯迅は厦門(アモイ)で短編小説『藤野先生』(1926年)を執筆し、そのなかでトルストイの「非戦論」「汝ら、悔い改めよ!」に触れ、「……これは新約聖書のなかの語であろう。だがトルストイが最近に引用したものでもあった。時あたかも日露戦争、トルストイ翁はロシアと日本の皇帝にあてて公開状を書き、冒頭にこの一句を置いた。日本の新聞社はその不遜をなじり、愛国青年はいきり立ったが、・・・・・・・」(魯迅『藤野先生』竹内好訳)と記している。(佐藤春夫・増田渉訳『藤野先生』は、訳者がこの部分を削除している)

 杉村楚人冠による東京朝日新聞紙上の訳文は、表題を「トルストイ伯 日露戦争論」とし、「汝ら、悔い改めよ!」のくだりを省略している(自粛、自己検閲したのだろう)ことから、魯迅が『藤野先生』で述べているのは週刊「平民新聞」の紙面を指しているのが判明するという。(以上は、黒川創『鷗外と漱石のあいだで』(2015年)から、多くを引用した)

 当時、日本の新聞社は、トルストイの「非戦論」の内容よりも、「汝ら、悔い改めよ!」と呼びかけた相手にロシアと日本の皇帝が含まれていたことをとらえて、魯迅の記した通り、その不遜をなじり、愛国青年はいきり立ったのである。いきり立ったのは、愛国青年というより、その背後にいた、日露戦争を推し進める日本政府と日本の支配層そのものでもあった。

 実際のトルストイの論旨に沿えば、その所論は、「戦争の下では皇帝の言葉も政治家たちの演説も、現状を追認するものにしかなりえない」。つまり、「悔い改めよ!」との声に導かれて、戦争という事態を根本から考え直すことができるのは、帝王、兵士、大臣、新聞記者といった立場を離れ、ただ一個人として物事を考えられる者だけだ、とトルストイは主張する。またそれは、ひとりキリスト教だけではなく、仏教、イスラム教、儒教、バラモン教など、あらゆる世界に通じる大法である、とくに日本人の多くは仏教徒であると聞くが、仏教は殺生を禁じているではないか、と彼は述べる。
 

 「帝王、兵士、大臣、新聞記者と言った立場を離れ、ただ一個人として物事を考えられる者」たるべきとトルストイが考えたのは確かなようで、キリスト教に基づくトルストイ自身の考えとともに、人類に対する希望、信頼、あるいはそのように信じたい彼の「願い」が表れている。その「願い」は、日露の政府や支配者、すなわち帝王や、大臣、新聞記者等には響かなかったが、そうではない多くの民衆に確かに影響を与えた。

 注目すべきは、この時の日本政府、新聞、日本社会のとった対応である。日露戦争に反対する主張や考えに対し、その内容を検討するのではなく、天皇へ「汝ら、悔い改めよ!」と呼びかけるのは「不遜、不敬」であると非難の合唱を浴びせ、抑え込む世論が意識的に組織されたことだ。

 この洪水のような宣伝のなかで、国民は、帝国憲法上は天皇が始めた戦争に、「自主的自発的」に協力するように誘導される。「自主的自発的」に応じない者には、「皇室に対する罪」として不敬罪(刑法74条、76条)、大逆罪(73条)という強制が、当時の日本社会には存在した。「自主的自発的な支持・協力」と「強制」の二つは、セット・表裏一体である。「平民新聞」に関係した幸徳秋水ら多くは、1910年、大逆罪で26名が逮捕され、12名が死刑とされた。当時の政府、権力者らが幸徳らを弾圧し殺した理由の一つは、日露戦争で「平民新聞」が国策に公然と反対し非戦を説いたことにある。

 そのようなことを考えるならば、一つ重要なことは、当時の「(天皇への)不遜をなじり、いきり立ったという愛国青年」の姿がどのようであったか、どのように社会的雰囲気を醸成したか、当時の社会の状況、人々の気分や態度はどのようであったか、私たちはよく考え、想像してみなければならない。どんなふうに愛国を主張したのか? どんな言葉を吐いたのか? 愛国の主張は、賛同し従わない者へのどのような乱暴な暴力を伴っていたのか? 多くの日本人は、どのように恐れおののき、かかわらないようにしたのか? そのことで従ってしまったのか? それらをよく調べ、想像し、認識しておかなくてはならない。

 なぜならば、2019年の現代に同じような現象が、再び生じているからである。
 そして次に、どのように対処しなければならないかを、現代に生きる我々はよく考えなくてはならない。そのうえで、決して放置するのではなく、対抗する行動に踏み出さなければならない。

2)もう一つの最近の出来事

 2月7日に韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長(74)が「慰安婦問題の解決には天皇の謝罪が必要」と発言した。文議長がブルームバーグとのインタビューで、慰安婦問題に関し「一言でいいのだ。日本を代表する首相かあるいは、私としては間もなく退位される天皇が望ましいと思う。その方は戦争犯罪の主犯の息子ではないか。そのような方が一度おばあさんの手を握り、本当に申し訳なかったと一言いえば、すっかり解消されるだろう」と語ったのだ。

 この発言にはいくつかの問題が含まれているのだが、

 一つは、天皇の退位、即位に際して、「戦争犯罪の主犯の息子」という話題が常に出てくるというのが、アジア諸国の、あるいは国際的な常識だということに改めて、気づかされることだ。

 「裕仁天皇は、戦争犯罪の主犯だ」とは、日本人の多くが、決して表向き言わないことだ。TVや新聞は決してこのようには報じない。明仁天皇でさえ、昭和天皇は平和を志向していたなどと、デタラメを言っている。なぜ本当のことが言えないのか!

 日本社会と韓国社会、あるいはアジア諸国とのこの「温度差」を、日本人は深刻に、あるいは正面から受け止め考えなければならない。果たして日本人のうち何人が、「裕仁天皇は、戦争犯罪の主犯である」ことを正面から受け止め、考えたかだ!
 無視しても、国際社会との「温度差」は決して解消などされない。
 TV、新聞は無視して済ませるようである。

 二つ目は、慰安婦問題の解決は、日本政府が、日本軍による犯罪と被害事実の一つ一つを認めたうえで、真剣な公式謝罪を行い、被害者に賠償しなくてはならない、そして二度とこのような被害を繰り返さないために、被害事実を調査し公表し研究・教育しなければならない、ということだ。したがって、文喜相国会議長の言うように、ただ明仁前天皇が頭を下げて謝罪すれば済むというものではない。
 きっかけの一つにあるかもしれないが、そんな「きっかけ」をつくってくれては困る。
 
 三つ目、なぜならば「天皇の地位は、主権者たる国民の総意に基づく(憲法第一条)」のであって、国民に主権があり、天皇は単なる象徴にすぎない。議長は、天皇を国家元首であると誤って認識している。

 天皇は「政治的機能を有しない」、それは天皇に権力を集中した戦前の大日本帝国憲法の欠陥に対する反省から、天皇の権限に厳格な制限を課しているのである。天皇制は戦争の原因の一つであった、あるいは原因をつくった(と評価された)から、「政治的機能を有しない」規定が入っているのである。一番いいのは天皇制の廃止だが、当時そこまでできなかっただけにすぎない。天皇制が存在する限り、日本国民は再び戦争を招く要因、理由を持ち続けることになる。危険極まりない。

 天皇の政治的行為は憲法で規定している象徴の役割の逸脱であり、政権による天皇の政治的利用へとエスカレートする。その点でも文議長は、間違っている。

 上記のような問題があるのだが、ここで言いたかったことはそのことではなく、日本社会から生まれた「反応」である。

 「天皇陛下に失礼だ!、不遜だ・・・・・」という反応が、マスメディアで、あるいは現代の「愛国青年」がweb上で、大量に現れたのである。慰安婦問題の解決をどのようにすべきか、という点について触れずに、「天皇陛下に失礼だ!、不遜だ・・・・・」と対応でもって、問題を押し流そうとしている。115年前の「日本の新聞社はその不遜をなじり、愛国青年はいきり立った・・・」のと似た現象を繰り返しているのだ。発信源、その大元は、安倍政権であって、権力に従う大手マスメディアが、「失礼だ、不遜だ・・・」という報道を意図的にまき散らしている。

 この反応に、日本社会の内部から、明確な批判がほとんど出てこなかった。メディアは何も指摘しなかった。驚くべきことだ。

 天皇の退位、即位の祝賀ムードの洪水のなかで、批判はしづらい雰囲気は確かに醸成されている。むしろ祝賀ムードは批判を押しつぶす役割を果たすものだ。表裏一体である。そう認識すべきなのである。祝賀ムードをまき散らすのも、発信源は安倍政権である。

3)天皇制は、すでに憲法を逸脱し機能しつつある

 私たちの周りには、権力や権威あるものにすがろうとする「風潮」が確かに存在する。しかも権力や権威は声高に、強引に主張する。

 他方、われわれのあいだ、例えば家族や近所、職場では、表立って主張しない雰囲気がある。相手が気まずくなるのではと忖度し、もめごとはなるべく避け、たわいもない話だけに終始する。その結果、表面的な人間関係しか形成できない。こういう関係しか持てなければ、人々は連帯することも少なくなり、政府からの、メディアからの、周りからの「祝賀ムード」の洪水に流されるしかなくなり、対抗できなくなる。こういう関係もまた表裏一体になっている。

 洪水のような祝賀ムードとともに、天皇制は、すでに憲法を逸脱し機能しつつある。
 すでに4月5月の退位、即位の儀式において、国家神道に基づく儀式や祭礼に対しても国費を支出しており、数々の逸脱がすでに公然と行われた。祝賀ムードによって、この「逸脱」を強引に実行しつつあるのを、我々は目の前で見ている。元号の使用、日の丸の掲揚も、祝賀ムードのなか強行されている。

 祝賀ムードに、どのように対抗していくかを考えなくてはならない。天皇制に反対するには、天皇制反対のデモで参加したりしてはっきり声をあげることはとても大事であるが、それととともに、身の回り、職場や近所の人たちのあいだで、このムードにどのように対抗していくかも、また重要なのだ。

(2019年5月8日記、文責:林信治) 

 5月に原稿をいただいていましたが、手違いで掲載が遅れたことをお詫びします。





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「戦後日本の変容と『歴史問題の和解』の課題」 [靖国、愛国心、教育、天皇制]

 10月19日、広島で「安野 西松和解10周年記念集会」があり参加した。
 そのなかで、外村大(東京大学大学院教授)さんの講演があり興味深く聞いたので、メモをもとにまとめた。ただし、筆者が勝手にまとめたので、文責は筆者にある。理解が至らない、あるいは誤解しているところがあるかもしれない。それも筆者の責任である。

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 「戦後日本の変容と『歴史問題の和解』の課題」
 
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<10月19日、外村大・東京大教授>

1) 戦後の出発と友好親善運動 

 戦後出発において、日本社会と日本人はなかなか戦争責任を明確に認識し、謝罪する・・・というふうにはならなかった。

 その原因・背景には、冷戦構造がある。冷戦構造下において日本はアメリカの庇護のもとにいたことで、日本政府は近隣諸国に対して戦争責任を認め、謝罪せずに済ませることができた。中国や朝鮮、アジア諸国の人々とは市民運動として交流がなかった。サンフランシスコ講和条約は単独講和であり中国、韓国は呼ばれなかった。中国とは1972年まで国交がなかった。それらのことは、日本人、日本社会にも確実に影響を及ぼした、アジアへの日本の侵略、支配という歴史を明確に意識しなかったし、見ないままにしてきた面がある。そのため、戦争責任や加害事実を認めること、謝罪し賠償することに対し、無自覚なまま過ごしてきたと言える。

 戦後の平和運動を引っ張ってきたのは労働組合であり、社会党、共産党である。いろんな努力があったにしても労働組合は企業別労働組合でインターナショナルな意識が生まれにくいところがあった。市民が海外に出ていくことはきわめて難しかったし、アジア諸国の人々との交流も意識的に追求されてこなかった。

 戦後の日本社会では、日本人は被害者という考え方が支配した。アジア諸国民への加害の歴史には触れることはきわめて少なかった。日本の戦死者・遺族は、保守系の軍人恩給連盟、日本遺族会に組織されていくという問題があった。その過程で保守的な歴史観が遺族の間で支配的になったという経過をたどった。

 もちろん、日本人と日本社会は、戦後出発からちゃんと侵略と植民地支配のことを考えるべきだったし、そこにおける加害と支配の歴史を考えるべきであった。

 戦後の日本には80万人の在日朝鮮人・韓国人がいたが、運動の側、人々の側も内政不干渉、国交回復が主な目標となって、日本の過去の植民地支配を批判することはすくなかった。そのことは在日の人の受難と被害の歴史を認め、権利回復を考えるというふうにはなかなかならず、逆に在日の人が日本社会のなかで「遠慮して」生きなければならない状況を広げた。

 戦後を通じて現在まで、日本人の多くは、植民地支配を悪いことと認識していない。「創氏改名」とか「徴兵制度」を敷いたのはよくなかったが、それ以前は善政を敷いて、朝鮮を近代化したという認識を持つ人が多かったし、現在もなお多い。

2) 被害者の人権救済活動の開始 

 1965年に日韓条約が締結された。
 戦後日本の突出した経済成長は、日本をアジアへ再び経済進出させ、アジア諸国との経済関係を再構築させた。しかし、それは経済成長によって膨張した日本経済が、新たな市場、基盤を求めた経済進出であり、かつての植民地支配や侵略に対する批判がきちんとされないままの進出だった。

 アジア各国政府と各国支配層は、経済成長する日本との貿易や投資のために、日本の経済進出に応じる対応をとった。経済進出したものの日本政府や日本企業は、かつての植民地支配や侵略に対し謝罪せず、それどころか触れもしなかったため、アジアの人々から批判が立ち上がった。しかい、日本政府はアジア各国政府を相手に、経済協力、経済援助などをばらまきそれに対応する姿勢をとった。
 そのためこの時期になっても日本人と日本社会の大勢は、過去の侵略や植民地支配に対して、加害に対して、意識せずに済ませてきた面がある。あるいは、経済援助の問題、「お金の問題」と理解する傾向が生まれた。

 そんななかで、市民運動のあいだで、在韓国被爆者への支援の始まりがあった。市民運動のなかから被害者の人権侵害に対する救済運動が始まる。ただし、当時の中国人や韓国人には実際的には日本へ入国できなかったし、他のアジア諸国の人々にとっても、日本に入国することはほとんどできなかった。

 アジア近隣諸国との関係をどうするのか、国民的な議論があったわけではないが、市民運動のなかに人権救済の動きが生まれたことに注目したい。

3) 冷戦後、80年代末

 アジア諸国の経済的発展、市民社会の形成にしたがって、台湾や韓国で民主化運動が力を増してくる、被害者が声をあげてくる、市民団体、人々の交流も盛んになってきた。

 1990年代初めには 慰安婦の問題が取り上げられる、韓国の金学順さんが慰安婦被害者として初めて名乗りあげ、外交問題になった。そのほかの国々でも名乗りをあげる慰安婦被害者が続いた。アジア各国における一定の民主化の進展、人権尊重の機運が、被害者が名乗り出る条件をつくった。

 日本政府の対応は、93年の河野談話、95年村山談話、アジア女性基金などとして現れた。遅ればせながら「戦後処理」が課題となったのである。

 このような変化は、90年代前半は、確固としたものではなく「ぼんやりとしたもの」だったが、日本が謝罪したほうがいいという世論が、日本国内で生まれだしてきたからでもある。当時の若い世代は、「謝罪への転換」に賛同しており、戦後補償に肯定的だった。周りの国や市民からの批判に対して、どう対応するのかという課題が浮かび上がってきたのをそれなりに意識したと言える。

4)世論の逆転と国民間の葛藤の激化

 90年代末から「揺り戻し」が起きている。
 90年代末、新しい教科書をつくる会若手議員の会、のちに日本会議が発足する。
 どうして揺り戻しがおきたのか? これは何か? 歴史修正主義はなぜ広がったか?注意深く検討しなければならない。
 日本の右翼保守層が時間をかけて準備してきたのは明らかだ。雑誌、TV・・マスメディアのあいだで、歴史修正主義が徐々に広がっていった。
 
 政府や保守的な論調、右派の主張などがあふれるようになった。その結果、日本社会では、戦後補償の問題を「個々人の人権侵害の救済」というより、「国家間で調整する問題」ととらえる認識、傾向が広まった。その浅い認識の上に「まだ、韓国や中国は謝罪を要求するのか?」という気分が日本人のあいだに広がった。

 日本人の多くは、韓国や中国、アジア諸国から歴史問題を持ち出されると、日本人と日本が攻撃されているような認識を持つ人が多くなった。人権侵害の救済の問題ととらえることができない。

 そのような認識が果たして正当なのか? についての国民的な議論がほとんどできていない。
 日本政府は95年に、慰安婦被害者に対し「アジア女性基金」で対応した。その考え方は、「要求は、どうせ最終的にはお金でしょ」、だから「お金を配って解決する」という考え方である。日本政府がお金を払った、基金を創設したことから、日本人の多くもそのような認識を持つに至っている。「とにかく政府が頭を下げ、お金を払う」それが解決というとらえ方があったし、いまもある。その考え方が克服できていない。

 一旦支払ったのに、韓国政府や慰安婦、徴用工の被害者が「いまだに解決を要求するのはおかしい、お金を払ったのだから、そのあとは触れてほしくない」というのが、多くの日本人の本心に近い認識であろう、そのような認識を多くの日本人が現在もなお持っている。

 日本人と日本社会は、いまだに「責任」の意味を誤解している、あるいは正しく理解していない。それゆえ、歴史問題を持ち出されると日本人全体を攻撃されているととらえる、そういう傾向が多数を占める「奇異」な状況が成立している。

 2000年代から日本社会では 「和解」が一つのキーワードとして頻繁に語られるようになった。キーワードとして頻繁に出てくるのは、それなりの理由がある。

 頻繁に出てくるものの、日本人と日本社会は「和解」の本当の意味を理解していない。

 本来の「和解」の意味は、過去の戦争・植民地支配に対して、日本政府が加害の事実をきちんと認めたうえで謝罪・賠償であるが、そのことが理解されていない。人権侵害の救済であることが理解されていない。その上で、あるいはそれとともに、市民社会が隣国の人々と関係をつくっていくことでもあることが理解されていない。

 隣国から歴史問題や戦争責任を提起されて、「その問題を解消したい、あるいは未来志向でもはや忘れて対処したい、何で解決しないんだ‥‥」などという気持ち、問題の本質がどこにあるか認識していないイライラが、「和解」というキーワードになって現れている。

 戦後の日本の経済成長によって、アジア諸国と人々にお金を配って関係をつくってきた、過去には触れないできた、それですましてきた。このような関係、考え方に影響を受けている日本人、日本社会は認識を転換しなければならない。市民運動はその課題を自覚して日本人のあいだに、新たな歴史認識の共有を意識する運動を進める必要がある。そのような努力をアジア社会の市民運動とも共有していくなかで、加害者側の意識の変化、被害者側の納得、これら全体を実現していくことがが、本当の「和解」の意味となる。

 それができていない、あるいは意識的に自覚されていない面がある。それゆえ、日本市民の間で、近隣諸国の「反日」へのいらだちが見えるようになっている。例えば、2005年廬武鉉大統領の3・1節演説などに、「反日」だという反応が出てくる。
 あるいは、韓国や中国が歴史問題に触れれば、TVなどは「反日だ!」という反応、報道が出てくる。
「反日」へのいら立ちが「和解」という言葉の繰り返しを生んでいる。

5)市民運動のこれから

 「和解」の意味をきちんととらえなおした上で、めざす市民運動の活動が重要である。そのために市民運動の歴史を意図的に記録し記憶していく必要があると、私は考えている。

 現在は、国家間の和解ではなく、日本社会における国民内部での分裂、対立が広がっている。現代日本社会は、困っている人を助けようという気運が、最近明らかに後退している。
 その背景には、日本経済の衰退、格差拡大、それに伴う市民一人一人のいっそうの孤立、分断化があると思われる。

 「経済大国」日本の姿は薄れた。「アジア唯一の先進国」の地位が日本人の自信の根拠だったが、その基盤が崩れ自信を喪失している。他方において、中国はすでに日本の3倍のGDPであるし、台湾、韓国はすでに一人当たりのGDPは日本とほぼ並んでいる。技術革新においても、すでに中国企業や韓国企業が多くの分野で日本企業を凌駕している。日本はここ20数年、ほとんど経済成長していない。そのなかで格差が拡大し、貧困化や地方の荒廃、労働者の階層化を分断、孤立化が目立っている。

 戦後の日本はアジア随一の高度成長を成し遂げたことで、日本人と日本社会はある「自信」のようなものを持ってきたし、その気分でアジア諸国の人たちに接してきたが、いまその基盤、背景が崩れている。
 
 市民社会、市民運動においては、「自信」を別の基盤の上に再構築することが必要だ。その基盤は、日本国憲法であり、人権尊重の理念である。それを現代と近い将来の日本人と日本社会の「自信」の新たな根拠にしていかなくてはならないし、市民運動は意識的に追求していかなくてはならない。その上に、市民社会、市民運動同士の国際的な信頼、連帯が広がるのだろうと思う。
(文責:林 信治)





















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