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大嘗祭に異議あり!広島集会 [現代日本の世相]

 11月14日大嘗祭を批判した、広島集会が開催された。講演された天野恵一さんの話をまとめた。
 あくまで聞いた者のメモであって、文責は当方にある。


 大嘗祭に異議あり!広島集会
改めて「象徴天皇制」を問う
天野 恵一
 
 
 
1)天皇制は暴力・弾圧と表裏一体

 10月22日、「おわてんねっと」(「終わりにしよう天皇制!『代替わり』反対ネットワーク」)のデモに機動隊から乱入してきたのに3人が逮捕された。北海道でも「おわてんねっと」のメンバーが、友人の死に際し遺族の了解のもとにお金をおろしたところ逮捕された。天皇制に反対すると法律を無視した逮捕、弾圧が横行し、司法も追随する。天皇制には暴力・弾圧が表裏一体に存在する。

 国家とメディアが組んで、天皇の神聖化をつくり出す。メディアは過剰な「さまさま」報道を行い、絶対敬語を乱発。天皇は絶対神聖であって、反対する者には、警察・民間右翼が何をやってもいい雰囲気をつくり実行している。

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<講演する天野恵一さん>

2) 「いい天皇」と「悪い天皇」 

 白井聡が『国体論』で、明仁天皇が安倍の右翼的政策を批判したように述べた。

 1990年の本島事件を思い起こす。自民党系の本島等・長崎市長が「裕仁天皇には戦争責任がある」と発言したら右翼に撃たれた。この時、浩宮が「言論の自由は大切だから、守らなければならない」と発言。だからと言って、浩宮が「いい皇太子」なのではないし、支持すべきなのでもない。

 04年の園遊会で、東京都教育委員の米長邦雄から「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事です」と話しかけられた明仁が「やはり、強制ではないことが望ましい」と述べた。この時も「いい天皇だ」という話が出て、唖然としたことがある。

 「いい天皇だ」とは、問題の本質をまったく理解していない。象徴天皇制の存在そのものが問題なのだ。
 ただ、明仁は裕仁のように威張り腐る態度はとらず、メディア受けを意識し演じた。「象徴天皇制」の一特徴だ。自覚的に対抗しなくてはならない。

3)戦後の天皇制の始まり

・米国の原爆投下を、米社会は肯定する。「原爆でファシストを殲滅した」とトルーマンは宣伝し、大量虐殺の責任を回避した。その上で、天皇制を日本支配に利用することにした。象徴天皇制の成立背景だ。

・日本政府側は?  「天皇が決断して戦争が終わった、天皇は命の恩人だ」と描き出した。これも事実に反する。1945年の死者が最多だ。沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎への原爆・・・天皇が決断しなかったため多くの人が死んだ。※半藤一利:「天皇の決断で日本が救われた、天皇の決断が戦後の日本をつくった

 戦後民主主義、日本国憲法は、アジアへの侵略責任を米国に免罪してもらうことから、旧植民地出身者の切り捨てることから、天皇制を引き継ぐことから、出発している。

4)高御座(たかみくら)とデモクラシー

 戦後の憲法学者のなかからは、天皇制批判の理論もかなり出たが、限界があった。マシな憲法学者の論理の特徴は、「象徴天皇制」は「戦後につくられた」=戦前と戦後の断絶を主張する、また「憲法で天皇と天皇制を縛っている」という論理。その議論は憲法の枠内に限られ、憲法自体が時代的な限界をはらんでいることには触れない。そこに限界がある。しかし、こういう批判も今では少なくなった。

 裕仁は戦前戦後、連続して天皇を務めた。断絶していないが誰も不問にした。憲法には「天皇の地位は国民の総意に基づく」とあるが、嘘だ。国民は天皇を選出できないし、罷免もできない。
 「連続性」は、天皇制にとって不可欠、支配層の連続支配を意味しているからだ。

 今回の退位に際して明仁主導で皇室典範改正を行った。驚くべき事態だ。大日本帝国憲法は立憲主義ではなく、皇室典範は憲法より上位にあった。当時、皇室典範を変更できたのは天皇だけ。今回同じような事態が起きた。憲法上大問題なのだが、誰も問題にしない。異常な事態が目の前で起きている。戦後民主主義的な、憲法学の達成が、崩れ堕ちつつある。

 祭祀については、国家が丸抱え。即位式、大嘗祭合わせて166億円、すべて公費だ。
 高御座の継承儀式は、宗教儀式そのもの。大嘗祭だけではない、即位式すべてが問題。「政教分離」は、そもそもデタラメだ。祭祀は象徴天皇制にとって欠くことができない。「憲法20条(政教分離)があるから大丈夫」ではない。憲法20条は破壊され続けてきた。

5)どう立ち向かっていくか?

 象徴天皇制の成立している基盤、根拠をきちんととらえなおした上で、対抗を考えなければならない。「政教分離に反している」とかの批判もあるが、部分的な対抗であって限界がある。

 明仁・美智子が、災害地域を訪問し、国民(私事ではなく)のために祈る行為を行っている。これは「偽善」であるが、同時に国民統合のための「幻想」をつくり続けているのだ。徳仁天皇の時代には、より加速していくのではないか? きちんと批判していくことが重要だ。

 天皇制を批判していく上で「戦前回帰」と懸念するのももっともだが、戦後民主主義と憲法の限界を認識したうえで、私たちは象徴天皇制を批判し対抗していく論理を持たなくてはならない。

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 11月14日の天野さんの講演、そのあとの懇親会での話なども含めての感想を記します。あくまで筆者の理解に基づく感想です。

1) 天皇制と暴力装置のこと

 天野さんは、「おわてんねっと」(「終わりにしよう天皇制!『代替わり』反対ネットワーク」)のデモに、法律など無視した警察から弾圧・逮捕があり、司法も追随しているという現状を紹介されました。天皇制と暴力装置は表裏一体です。

 安倍首相は災害に際しての非常大権、権利の一次的な停止の構想を語りました。日本政府は、関東大震災の時に朝鮮人大虐殺、大杉栄・伊藤野枝夫妻・橘宗一少年や、南葛労働者の指導者である川合義虎ら8名の虐殺してきた「犯罪歴」を持っています。危険極まりありません。

 支配層に本当の危機が迫った時、天皇制を国家機構の一部として利用する、機能させることも考えておかなくてはなりません。

 タイのクーデターを研究すべきです。
 タクシン派政権をプラユット陸軍司令官がクーデターで倒し、プラユットは今、首相になっています。投票するとタクシン派が有利なので、直近の選挙ではタクシン派有力議員候補を「不敬罪」で狙い撃ちし、政権維持に成功しました。タクシン派は携帯電話などで富を成した新興資本勢力であり、プラユットは軍や国王に近い旧来の支配層、旧来の富裕層の利益を体現しており、どちらを支持すべきかとは言えません。権力争いとなった時、旧来の支配層が国王への忠誠、不敬罪などを利用し、権力を奪取した事実に注目しなければなりません。

 天皇制の機能の一つを想起させます。日本の支配層はまだ利用するほどの危機に陥っていないだけです。そのような機能を持っていることを常に意識し暴露することが重要だと思います。

 天皇制は、宗教であるとともに、支配的なイデオロギーであり、かつ国家機構の一部でもあります。

2)象徴天皇制に対する批判

 天皇制を批判する時、「戦前と同じようになる」という批判を聞きます。貴重な声だとは思いますが、象徴天皇制はすでに74年続いています。明治維新から敗戦まで77年間ですから、すでに近代天皇制の半分近い期間、続いていることになります。

 象徴天皇制は、材料は確かに古い伝統的な権力要素をもとにつくられていますが、74年間にもわたって戦後の日本社会のなかで再生産されてきており、「戦前回帰だからダメ」だけではなく、現代の日本社会に存続している象徴天皇制に対する批判をすべきだと思います。

 象徴天皇制は、イデオロギーである限り私たちの意識に日常的に介入してきており、社会のなかの物質的な関係に入り込んで来ます。象徴天皇制が現代日本人の価値意識の体系のなかで、どのような位置を占め、どのように機能し、どんな危機をはらんでいるか、意識的に明らかにしていくことで、批判し対抗していかなくてはならないと思います。

 例えば、天皇の地位は置かれている社会関係のなかで現実的に規定されますが(憲法の規定はその一部)、しかし不断に、儀式や祈りの行為を繰り返すなかで、日本社会とは独立に、まず天皇霊があり、新天皇の身体に付着して天皇にするストーリー=幻想をつくりだし、血縁の歴代天皇の存在を社会の成立原理にすり替えています。天皇の機能は、現代日本において人々を「幻想の喚起による心情の統合を促す」ところにあります。明仁・美智子の災害地域の訪問・祈りなどもその機能を果たしているのだと思います。

 象徴天皇制は、現代日本の社会階級的な対立を抑圧するためのイデオロギーであり、かつ政治機能を持った国家機構としてあること、したがって現代日本社会の欠陥として批判し、批判のうちにその廃絶を構想すべきです。

3)天皇制イデオロギーの根拠の一つ、連続性

 天皇制イデオロギーの根拠の一つは、「連続しているという幻想」です。アマテラス霊が歴代天皇に憑依して続いてきた、血統を根拠に2千数百年続いてきたというストーリー、そのストーリーからいつの間にか、特別な存在、「高貴な」存在へと転化します。

 世襲原理は、競争原理・自由競争における「高貴」の欠如を埋めます。連続する天皇の存在は、日本民族の変転する歴史の象徴へと転化し、歴史の欠如を埋めます。無国籍の「民主主義」、「物質文明」、「基本的人権」、「生産力」・・・・に対して、日本人のアイデンティティ―を意識させます。特にグローバリゼイション、日本社会の格差拡大と貧困層の増大、日本経済の停滞のなかで、反作用として天皇を意識したナショナル・アイデンティティーとして現代的に担ぎ出されるのではないでしょうか。

 これにどう対抗していくか? というのも象徴天皇制批判の一つの課題だと思います。

 懇親会での話ですが天野さんが、どこからか(憲法第1章を認めたのであれば共産党から)「天皇を選挙で選べ」という声が出るなら、支持してもいい、と言われました。選挙で選べば、霊の憑依とか、血統であるとか、2千数百年続いたとかのストーリーが一瞬にして壊れ、天皇は少しも「ありがたくない」存在になるからです。
 選挙で選ばれた千葉県知事の森田健作は少しも「ありがたくない」ので、災害地を訪問しても、「来るのが遅い」、「被害情報がキチンと伝わっていない、支援物資が届いていない、県は何をしているのか」、「公用車で別荘に寄ってきたのではないか?」などと文句を言われますが、天皇にはなかなか文句は言えませんし、言わない雰囲気がすでに醸成されています。
 もっとも天皇制に反対している者が、「選挙で選べばいい」と主張はできませんが。

 連続性のイデオロギー、その偽善ぶりをつねに暴露し批判し続けることも必要です。

 以上、講演を聞いての感想と考えたことです。










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映画『象は静かに座っている』を観る [映画・演劇の感想]

映画『像は静かに座っている』を観る

1)現代中国に生きる民衆の姿

 この30数年、中国は急速に経済発展して来た。GDPは日本の3倍となり、米国を追い越すのも時間の問題だ。現代はパクス・アメリカーナの時代から、中国を含むパクス・アシアーナの時代に移行しつつある。米国がしかけた米中貿易戦争は米中覇権争いであり、沈みゆく米国の「悪あがき」の様相を呈している。

 中国社会は急速に変わってきた、歪みも生まれているのだろう。急速な変化を経た現代の中国人は、どんな人たちであり、何を考えどのように生活しているのか、人々の関係はどんなであるか、長い間疑問に思い続け、その姿は想像のなかにしか存在しなかった。映画はその一端を描き出してみせた、そのように受け取った。

 新聞やTVでよく見かける中国政府首脳ではなく、アリババや華為の経営者でなく、中国の庶民、底辺に近い人々の生活とその姿が描かれているように見えた。登場するのは庶民ばかり、それがまず興味深かった。

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<映画のチラシ>


2)行き場のない登場人物たち、家族が壊れている

 舞台は地方都市らしい、画面に石家荘北車站(駅)が映し出される。
 石家荘は石炭産地だが、大気汚染やらエネルギー転換やらで、廃業し急速に廃れているらしい。主人公ブーの通う高校も廃校になる。

 街のチンピラ、チェンが女の部屋で朝を迎える。突然、夫らしき男がドアを叩く。彼はチェンをみても驚いた様子もなく、「お前か」と一言いって窓から飛び降り自殺する。男は女のために部屋を買ったが、にっちもさっちもいかなくなっていたらしい。男の母が自殺現場にやってくる、自殺に衝撃を受けているチェンと話す。チェンには恋人が別にいるが、別れると言われ会ってくれない。だから友人の女と寝たと言い訳する。

 17歳の高校生ブーが通う高校は「底辺校」で、高校の副主任からは「卒業したら、道端の露店で焼き鳥?を売って暮すのが相応だ」と言われる。ブーは同級生(チェンの弟)と喧嘩になり過って怪我をさせてしまい、その場から逃走する。父親からは常々、家から出て行けと言われており、もともと居場所がない。別のアパートに住む祖母を訪ねるが死んでいる。逃げたが行き場がない。

 ブーの同級生で恋人のリンは母親と二人暮らし。母は薬の個人販売員?らしいが生活は苦しい。17歳のリンが高校教師の副主任と一緒にいるところをブーが見てしまう。リンと副主任との逢瀬の動画がネットに出回り、リンも行き場を失う。副主任の教師も地方政府の指示のまま配転させられるのを恐れており、上の顔色をみて生活している。

 この街には文教地区と底辺地区があり、家賃の差が3倍。文教地区の学校でないと上級学校に入ることができない、学歴がなければ金持ちになれず、安定した生活を送れない。一人暮らしの老人ジンは、娘夫婦から孫の入学のため文教地区に引っ越したいので老人ホームに入ってくれと言われている。老人ホームに入るにも金がいる、ホームを見学するが、人のつながりは今以上にない、自分の居場所ではないと感じる。ジンも行き場がない。監督が描き出すのは、老人ホームの入居者たちが外の社会以上にここでも「孤立」している姿だ。

 登場人物の家族がみな壊れている。このような描写は果たして本当なのだろうか? 現代中国では子が親に従う従来の古い親子関係・家族関係が、壊れ消えつつあるのは確かなようだ。ただそのなかで家族関係そのものが壊れている、代わる新しい家族関係は形成されていないと映画は描き出すのだ。

 ブー、チェン、リン、ジン、誰もが家族のなかで孤立しているし、家族が家族でなくなっている。登場人物の家庭はどれもつながりが希薄だし、すでに壊れている。親も子も修復するつもりはないし、できそうにない。地域のつながりもないのだろうか? 少しも描かれない。

 チェンはチンピラのくせに、父と母に対しては従順な態度をとる。既存の「ある秩序」には従順なチンピラなのだ。弟を怪我させた同級生(ブーのこと)を探してこいと指示した母親は、「見つけられなかった」と言うチェンの頬を平手打ちする。驚くばかりだ。チェンは、父母とは分かりあえないと確信しており、両親には従順な態度を見せるものの、親子のつながりはあきらめている。家族関係に代わるつながりを求めているが、恋人には別れを切り出され、新たな家族、人間関係をつくることができない。

 監督が描き出してるのは、家族関係、濃密な人間関係を喪失した現代中国の人物たち、その孤立した姿だ。

3)つながりあえない庶民たち

 家族が壊れているばかりではない。彼ら庶民同士もつながりあえないで、それぞれがひどく孤立している。

 いくつかの事件が起きる。事件に「応対」する様が描かれる。登場する人物たちは、一つ一つの事件を自分で解決することができない。既存秩序や有力者に従い、なるように任せることで対処するしかない。ここにも現代中国の社会関係の特質の一つが描き出されている。
 
 描かれているのは、声の大きいものの言い分が通る社会、実業家というか金を持っている者が幅を利かす社会、当局や権力への近さが幅を利かす社会、金がない者、狭い部屋に住んでいる者は侮蔑される社会である。登場するチェンの実業家家族といえどもそれほど上層ではない。下層の庶民たちのなかに幾重もの階層関係があり、互いに対立しひしめきあい争っている。それぞれ窺わなければならない顔をもち、何重もの入り組んだ階層関係のなかにいる。悲しいばかりだ。どうして民衆同士がつながりあえないのだろうか?

 こういった描写は、監督の中国社会の現状に対する批判なのであろう。

 年配の者と若者世代との価値観の違い、断絶、対立が、随所に現れる。互いに理解することなど初めからあり得ないという判断ばかりがあふれている。急速な社会発展によって家族関係、旧来の価値観は壊れたが、それに代わる関係、つながりを持つことができていない、自身の価値観を形成しえていないの人々の姿である、監督はそこに絶望があるという。

 これらは急速な中国社会の変化がもたらした新しい現実であり、この映画の告発するテーマなのだろう。居場所を失った者たち、孤立した者たちがあふれている! これが現代中国社会の一面だというのだ。 
 
 中国社会の実情をほとんど知らないで映画から見てとっただけでいうのだが、このような社会にとって代わる新しい社会関係を構想するのが、解決を準備するのだろうと思う。それを上から、共産党や政府からではなく、下から人々の間からつくり出していくことが求められているのだろう。中国社会に自主的な自発的な市民運動や市民社会の形成が求められているのだろう、その方向に絶望は解決を求めるのだろう、中国社会はそのような段階に達したのだろう、と思うのだ。監督の描きだしたい内容、方向(=「絶望」)とはずれるけれども。

4)監督の工夫と意図 

 この映画の特徴の一つは、登場人物の会話にある。会話は何かしら象徴的な表現ばかりだ、すれ違っているような会話のやりとりを通じて本当の感情、関係を描き出そうと試みているらしい。会話のやりとりのうちに監督(脚本家)の工夫がみられる。

 ただ、そこに繰り返される「実存的な」問いは、深いように見えるが、会話を重ねれば重ねるほどリアリティが消えていく。生まれ出てきたリアルな孤立と絶望を表現するところから、逸れている。何度も繰り返されるので、考えてみればみるほど、何かしら表面つらの会話に沈んでいる、そうとしか思えなくなるのだ。
 
 利益や秩序に従う社会、その底辺に生きるものの不満と不安、批判が確かにそこにある、解決できないという判断があるから、「あきらめ」や「絶望」として描かれる。不満と批判を監督は「実存的な問い」を投げかけ絶望感として描く。監督の意図が「絶望の描写」にあるからだ。

 絶望のなかで映画が生み出した志向は、意味のないことに何かしら意味があるように思いたいという幻想だ。現実生活への不満と逃避なのだが、抜け出るすべを持たない者は、そのような気持ちに囚われる。国境の街、満州里の動物園の「象は静かに座っている」と知り、その姿に何かしら意味があるように思う、その象の姿を見たい、今の生活から抜けて出かけたくなる。映画の題名である。

 あるいは、最後の場面で老人のジンが語る。「よその世界はよく見えるが、本当のところ、よそ世界も今いる世界も同じだ。ここで生きなければならない。今いる世界にいるから「満州里の静かに座っている象」を観たいと思い続けられるのだ」。
 ジンは経験的な真実の一部を述べ、「満州里の静かに座っている象」を見ても何も解決しないと、ただ現実生活からの逃避であると、諫めている。ただ、ジンは何が問題で、どうすればいいかと語っているわけではないし、解決のプランを持っているわけでもない。

 監督の描き出した現実が存在する事を、観客である私は認める、監督の描く現代中国人の「絶望」も確かにその通り存在するのだろう。
 しかし、検討すべきは、絶望にとどまらず、絶望に至る人間関係、つながりの喪失に対する徹底した批判から、そこに新たなつながり、関係の獲得と創造を構想するのが自然な道行きではないかと思う。

5)映画の描き出す現実から生まれる批判とは何か?

 映画が描き出す現実を検討するならば、登場する庶民たちは孤立しており、人々の関係、連合体を持っていない。それは現代中国社会の特質の一つだ。(日本社会も新自由主義のもとで、人々は派遣労働者、嘱託、パートなど何種類もの不安定雇用に階層化され、それぞれの関係や連合体を失い、孤立化している。人と人の関係が、金の関係、支配と被支配の関係に置き換わっており、少し似ているところもある。)

 したがって、その批判や不満の解決は、絶望の深さ大きさの表現も重要だが、失われた人々の紐帯の新たな形成・再生に向かわなくてはならない。中国社会のなかに自主的で自発的な人々の連合体、われわれのイメージで言えば、市民社会、自主的自発的な市民運動、人々のつながりの形成が、必要とされている段階に達しているのだ、というところに向かわなければならない。その方向に映画が描出した現実への批判が立ち上がってくると思うのだ。もっとも、現代中国社会でそれがどのように可能なのか、実現されていくのかは、現代中国社会を十分いは知らない私にはわからない。

 登場する人物は、ひどく孤立していて、絶望に囚われている。自身の意志で行動することができない。経済発展の何かしら巨大な流れに、押し流されるばかりだ。自主的に自発的に振る舞うことができない。登場人物たちは、社会の流れのままに暮らす人々だ、自主的に自発的に行動する「関係」にいないし、それが可能となる人々の関係をつくりあげていない。

 これまでは確かに、上から中国政府が号令して経済発展や社会変化は効率よく急速に発展してきた。人々の生活も急速に改善してきた。しかし、そのような発展の仕方についていけない人たちが大量に発生しているのであろう。発展の過程で、それまでの家族や庶民のつながりが破壊され、何層もの序列関係、権力や政府との関係、金の関係に置き換わり、孤立した人々が増えたのではないか? それゆえ「希望」を持つことができず、「絶望」に囚われているのではないか? そう思う。

 孤立した庶民の絶望を解決するには、中国社会は、上意下達式の社会関係から、人々の自主的な自発的な活動とつながりにとってかわる段階に当面しているのではないか? 人々が自身の生活と仕事を取り戻す段階に当面しているのではないか? そういう変革を遂げなければ次の段階の社会変革に進むことができないような事態に直面してるのではないか? 映画の描写はそのような問題を提起していると受け取るべきなのだろう。

 もちろんこのようなことを監督は提起していない、描き出そうとしているのは「絶望」だ。
 この映画で価値があるのは、描き出されている現代中国社会の現実であって、監督の訴えたい「絶望」ではない。そのように思ったのだ。
 
 ただ映画は4時間近い。長い、やはり長すぎる。
(文責:児玉 繁信)








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ハンジン・フィリピン社の破産 [フィリピン労働運動]

 ハンジン・フィリピン社の倒産と労働者の状況、要求、闘争の現状について、プリモに問いああせたところ、下記の文書が送られてきた。19年3月20日前後の文書で少し古いが、掲載する。

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ハンジン・フィリピン社の破産

ハンジン・フィリピン社とは?

180125 世界最大のコンテナ船船、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ就航式.jpg
<2018年1月25日、スービック韓進造船所で行われた世界最大のコンテナ船アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの就航式、元大統領マパカバル・グロリア・アロヨ(前列左から6人目)、ハンジン社長Gwang Suk Chungなどが並んでいる>


 ハンジン重工業フィリピン社スービック造船所(以下:ハンジン・フィリピン社)は、世界で5番目に大きいドッグを持つ造船業者。韓国資本の韓進重工業のフィリピン子会社。韓進グループは、韓進海運、大韓航空などを要する韓国の財閥だが、オーナー家内の争いから韓進重工業はこのグループから離れている。一方、韓進海運は倒産し、韓進財閥は危機にある。

 1991年にアメリカ海軍が退去したルソン島スービック海軍基地だった地域が「自由経済区」に転換され、現在はスービック湾メトロポリタン当局(SBMA)によって管理されている。ハンジン・フィリピン社は、その一部敷地であるサンバレス州スービック湾レドンド半島(スービック湾をはさみオロンガポ市の向い側)に直接投資し造船所を建設した。

 韓進重工業は、造船では韓国内5,6番手であり資本蓄積が小さいため、フィリピン・ハンジン社では、1万人の労働者が造船所を建設しながら、他方、1万人の労働者が船をつくるというスタイルで操業を始めた。ピーク時には、ハンジン・フィリピン社の労働者数は33,000人に達した。造船業は、労働集約的産業であり、その中でもハンジン・フィリピン社は機械化に投資せず人手により造船所を建設し、生産してきた。そのため、労務管理がハンジン経営のノウハウであった。3万人以上の労働者が働いていたが、そのうちハンジン・フィリピン社員はわずか1,000人程度であり、残りは21もの下請け企業からの出向であった。さらにフィリピンの契約労働制度を悪用し、低賃金労働を最大限利用する経営を行った。労働災害が多発し、死亡事故は60人以上起きたが、アロヨ政権が誘致した海外投資であることから政権にすり寄って、労災事故が多発していたにもかかわらず安全衛生基準を実施しようとしなかった。労働組合結成には弾圧で対処した。

 資本規模が小さく債務の大きい韓進重工業は、世界的な造船不況で業績が悪化し、2018年12月、ハンジン・フィリピン社は約7,000人の労働者を解雇し、さらに19年2月13日には、3,800人のレイオフを発表した。最終的には工場メンテナンスのための労働者である300人にまで減らした。

 過去、ハンジン・フィリピン社は労災での死亡事故が相次ぎ労働者から労働安全基準順守違反と申し立てられ、フィリピン議会上院委員会が職場の状況を調査した。 調査報告は、ハンジン・フィリピン社は09年以降、複数の労働災害、複数の死傷者をもたらしたと報告した。それでも、ハンジン・フィリピン社は安全衛生違反を是正しなかった。

 労働組合準備組織サマハン(SAMAHAN-WPL)の記録によると、労働雇用省(以下:DOLE)がハンジン・フィリピン社に労働安全衛生基準違反を是正させなかったため、11年間で60人が死亡し、5,000件もの大規模および軽度の事故が発生したという(最初の3年間のDOLEデータによる)。さらに、21の下請業者はハンジン・フィリピン社と契約雇用を締結し、労働者を派遣していた。ハンジン・フィリピン社社員は、韓国から来た社員を含めて、もわずか1,000人であり、中核の労働者でさえ正規労働者ではなかった。高度なフィリピン人労働者は人間以下の労働条件、生活環境で労働し生活してきた。

 19年初め、ハンジン・フィリピン社は会社更生を申請した。韓国・投資家の債務とともに、フィリピンの銀行に少なくとも4億ドルの巨額債務がある。ハンジン・フィリピン社は、業績が急速に悪化したため、保守作業のためのわずか312人だけを残し、すべての労働者を解雇した。大量解雇は、10年以上にわたってハンジン・フィリピン社で働いてきた高度な熟練労働者と家族の生活を破壊するものだし、地域経済に大きな影響を与えている。

初めに

 2019年3月1日の午前7時、就労を求め出勤した約100人の労働者は、サンバレス州スービックにあるハンジン重工業フィリピン社造船所への入場が禁止された。 ロックアウトされた彼らはゲートでピケットを行った。100人の労働者は、会社・経営陣によって提示された「自主的削減プログラム(VRP)」(=自主的な退職条項を含む)」への署名を拒否した人たちだった。 自発的な退職に同意した200人の労働者のみが造船所の敷地への入場を許可された。現在まで、ハンジン関係者この問題について沈黙したままだ。
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※ビジネスミラー紙、ニュース
2004年に操業を開始して以来、ハンジン・フィリピン社は、低賃金にもかかわらず熟練した有能な労働者によって極めて短期間で、123隻の建造を完了した。[Cabuag、V.(2019年1月9日)。ハンジン・フィリピン社は、債権者の法的救済を求めている。
https://businessmirror.com.ph/2019/01/09/hanjin-subic-shipyard-seeks-court-relief-from-creditors/から
2019年1月12日取得
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<スービック、トレンド半島の一部を削って建設したハンジン・フィリピン造船所の全景>

 ハンジン・フィリピン社によるフィリピン労働者に対する粗雑な扱いは目新しいものではない。会社の劣悪な労働慣行は、現在の経営破綻の前にすでに記録されており、死亡事故、多数の事故を引き起こしてきた。フィリピン政府がこれまでハンジン・フィリピン社の「労働安全衛生違反を是正させられなかったのは、政府の責任であり、現在もなお政権の課題である。大企業の利益より、先に国民の権利と生活をどのように護るのかという問題だ。

ハンジン・フィリピン社の会社更生法申請

 債務が増大したため、2019年1月8日に、ハンジン・フィリピンは共和国法10142または「財政的に苦しんでいる企業および個人の更生または清算を規定する法律」に基づく会社更生を申請した。[Sison、B.、Jr.(2019、 1月16日)。 オロンガポ市地方裁判所(RTC)は、会社更生のためのハンジン請願を受理した(フィリピン・スター紙)。
https://www.philstar.com/headlines/2019/01/16/1885490/rtc-grants-hanjin-petition-rehabilitationから2019年1月17日に取得したニュース]

 2019年1月14日、オロンガポ市地方裁判所(RTC)支部72がハンジン・フィリピン社・管財人の請願を受理し、直ちに会社を企業更生の対象にした。

 現在の「公平な負債」の会社更生計画は、5つの外国企業の参入を歓迎している[マナバト、A。(2019年3月20日)。 5つの外資系企業、地元銀行のコンソーシアムは、ハンジン社の再生を狙っている。ビジネスミラー紙、ニュース。 2019年3月21日、
https://businessmirror.com.ph/2019/03/20/5-foreign-firms-consortium-of-local-banks-eye-hanjin-rehab/?Fbclid
 
 ハンジン・フィリピン社の倒産については、偽証の疑いもあった。最近の進展ではハンジン・フィリピン社は操業を継続する動きも見せており、その場合は造船所の人材が必要になる。それにも関わらず、すでに10年間会社で働いてきた労働者を再雇用するために、ハンジン・フィリピン経営陣も労働雇用省も何の動きもしていない。

交渉と解決策

 2019年1月28日、労働組合準備組織サマハンに結集した労働者は、ハンジン・フィリピン社の会社更生申請に伴い労働者の置かれた困難な状況に対処するために、シルヴェスト・レ・ベロIII労働雇用省長官との交渉を求めた。労働者たちは、きちんと賃金を支払うこと、賃金から差し引かれる3%の雇用債の払い戻し、失業補助金、および労働者とハンジン・フィリピン社間の法的拘束力のある契約を通じた優先再雇用などの救済を求めた。

 ハンジン経営陣は労働者の要求に応じることなく、19年2月8日に自主的な退職に関する覚書を発行し、「自主退職プログラム(以下:VRP)」に署名した人だけが離職手当などの利益を受け取ることができるという条件にした。これに対応して、サマハンはこの問題を明確にするために、三者間対話を要請する手紙をDOLEに送った。

 2月19日、労働雇用省 第3地域ディレクターのシェナイーダ・アンガラ・カンピータ(Zenaida Angara-Campita)が司会を務める3つの交渉が、ハンジン社の異なる下請業者と労働者組織サマハンの間で、開催された。労働者の要求に関して、両当事者間の最終的な合意は得られなかった。

 3月1日、「自主退職プログラム( VRP)」への署名を拒否した113人の労働者は、RFIDがブロックされた状態でロックアウトされていることに気付いた。そのため、ハンジン労働者は仕事に戻せと要求しピケットラインを設置した。人事部長ユージン・デロス・サントスは、労働者のピケットにこたえ、電子エントランス装置が誤作動し、IDが意図せずにブロックされたと説明した。しかし、それは言い訳にすぎない。彼はまた、労働者に状況を説明するメモの回覧をリリースし、VRPを利用しなかった人々が働き続けることができることを保証した。しかし、経営者はメモの回覧ではなく、労働者の下請業者から閉鎖通知をリリースしたとされている。

 すぐに、サマハンは3月4日付けの労働雇用省シルベストル・ベロIII長官宛てに、労働者の利益を守り、直ちに経営陣に介入するよう促す手紙を送った。応答がなかったので1週間後、支援団体「ハンジン労働者の友(FOHW)」が、19年3月11日にマニラ、イントラムロスにある労働雇用省前でピケットを行い抗議を開始し、ベロ長官宛てに、労働者が置かれている困難な状況を直ちに是正するよう500人以上の学生が署名した請願書を手渡した。 労働雇用省は請願書を紛失したと言っている。ピケが激化するにつれて、ベロ長官は直ちに労働者組織サマハンと支援団体「ハンジン労働者の友(FOHW)」が参加する対話を呼びかけた。

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<ハンジンのコンテナ船>

 残念ながら、ベロ長官は労働者の問題に対処する代わりに、ドゥテルテ現政権の「ビルド、ビルド、ビルド」計画推進したし、スービック・ジョブフェアを強調する他の仕事でごまかすことができた。皮肉なことに、ハンジンで職を失った者からなる6,000人の労働志願者のうち、地上勤務で雇われたのは99人だけだった。さらに、労働雇用省は、ハンジン・フィリピン社がすでに閉鎖を申請しており、企業の受入能力を超えているため、三者間の対話を実行するよう管財人を強制することはできなかったと主張した。

 会議中に労働者から提供された事実を立証するために、交渉のため視察することはできた。ベロ長官は、対話の一環として、労働関係副長官であり、特別担当および地域活動グループ、CESO III担当のアナ・C・ディオーネ(Ana C. Dione)副長官に、サマハン指導者とともに現場視察の任務を割り当てた。

 2019年3月13日、労働雇用省アナ・ C・ディオーネ副長官と労働雇用省3リージョナルディレクターのシェナイーダ・アンガラ・カンピータは、サマハンの参加なしにハンジン造船所の視察を行った。サマハンの継続的な努力にもかかわらず、そして文書のフォローアップを行ったにもかかわらず、結果はまだ発表されていない。

労働組合準備組織サマハン(SAMAHAN)の現状

 20日間のピケットラインは、労働者だけでなく、稼ぎ手に生計を当てている家族にとっても困難な任務だった。残った53人のハンジン労働者の要求は、会社が操業を再開するまで彼らが仕事に戻されることだ。これらの労働者は、退職に応じていないが、メンテナンス作業を行う準備はできており、会社更生の後、新しいハンジン経営陣に加わる準備も同様にできている。

 この単純な要求にもかかわらず、労働雇用省は、造船での10年の豊富な経験を考えると、すべてが高度なスキルを備えた労働者の福祉にまだ取り組んでいないようだ。これは、11年間で123隻の船を生産し、そのうち99隻が58億ドルの価値があるという事実によって補強されている。しかし、労働者と彼らのスキルはぼろきれのように扱われている。

アクション
 19年3月25日の午前9時に、ピケットラインの53人の労働者と支援団体「ハンジン労働者の友」(労働者を支援する学生組織、機関、個人のネットワーク)の約400人のメンバーは、マニラ、イントラムロスの労働雇用省に集まる。

 抗議者たちは、午前8時30分までにメハン・ガーデン(Mehan Garden)前に集まり、午前9時までにイントラムロスの労働雇用省本部に向かって行進する。

 この決定的な行動は、フィリピン造船業で働く労働者たちが耐えてきた10年にわたる不公正を終わらせるための、労働者への呼びかけのためだ。

詳細については、以下に問い合わせ請う。


A)プリモ・アンパロ(Primo Amparo)
   ――「人々の解放のための労働者
  電話番号:(02)7173262
  連絡先:0917-867-6664
  メールアドレス:workers4peopleslib@yahoo.com
  住所:#22 ドミンゴ ゲバラ通り、バランガイ マンダルーヨン市ハイウェイヒルズ、メトロマニラ

B)ヴィルジリオ・M・ロドリゴ・ジュニア(Virgilio M. Rodrigo Jr. )
  書記長-サマハン
  メールアドレス:samahansahanjin@yahoo.com
  連絡先:0939-837-1669
  住所:#70、ソリアーノ通り、バランガイ、ワワンデュ、スービック、サンバレス州

C) ジュリー・スマヨプ(July Sumayop)
  スポークスマン――「ハンジン労働者の友」
  連絡先:0956-067-9435
  住所:フィリピン大学ディリマン校
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