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タルデンヌ兄弟『少年と自転車』を観る [映画・演劇の感想]

 タルデンヌ兄弟『少年と自転車』を観る

 1)原初的な表現

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<パンフレットから>

 タルデンヌ兄弟の映画は、せりふよりも人のとる行動、表情、動作の描写を重ねる。行動や態度・表情による表現を、心がけている。それが人にとって「原初的」であり、生活のなかで起きるから、と考えている。確かにそうだ。何もかも言葉で説明するかのように、実生活においてせりふが発せられるわけではない。

 新藤兼人『一枚の手紙』は、せりふはまるで人がしゃべっているようでない、会話として成立していない。脚本は、新藤自身の頭のなかで成立している論理であり、完結している。論理展開がそのまませりふになってしまい、説明に転化している。その不自然さに脚本家・新藤兼人は気づいていないように見える。意図は理解できるだけに、ある「残念さ」が残る。

 話がそれた。わざわざ新藤兼人の『一枚の手紙』と比べなくても、『少年と自転車』のよさは際立っている。映画は、行動や動作の描写で一瞬にしてある感情や人間関係を表現することを、あらためて教えてくれる。

 人は一人ではなく誰かと一緒に生きてるという原初的な関係を、タルデンヌ兄弟は現代社会のなかで表現したいようなのだ。シリル少年は行動、表情で、彼の心のなかをよく表現している。
 父親から捨てられたことを知った少年が車の中でけいれんを起こす場面など衝撃的だ。そこには何のセリフもなかった。

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 2)登場人物は普通の現代人

 それから、出てくるすべての人物が、立派でもないがそれほど悪い人物でもないのも、特徴である。人に対するタルデンヌ兄弟の考えなのだろう。
 主人公のシリル少年に強盗をやらせるチンピラ青年も、家では寝たきりの婆さんの世話をしている。少年と同じように3年間ホームにもいたことがある。
 シリルの父親も、子供を捨ててしまうのだから立派な人間ではないが、金がなくていっぱいいっぱいの生活に追い込まれていることはわかる。金には困っていたが、シリルが強盗をして得た金を、受け取りはしなかった。
 どれもこれも、立派ではなく、何か欠けたところある、危うい、何かしら過ちを犯してしまう現代人の姿である。欠点を持つ、むしろいわば普通の生きた人たち。ひょっとしたら、俺のことか、あるいは俺の周りにいるあいつのことではないかと思わせる。

 タルデンヌ兄弟の映画に登場する人物は、チンピラもいるしホームレスもいる、犯罪者もいる。しかし、どの人物もわれわれと少しも違わない。兄弟は、「同じさやのなかのえんどう豆だ」ととらえる。
 実在する生きた人間を描きたい、という兄弟の確固たる思想がある、それは人に対する信頼でもある。そのような見方こそ、大切であり適切なのだろう。

 3)人が「類的性質」を発揮する

 サマンサなる女性は、ほとんど偶然からシリルの里親になる。シリルを父親に会わせに行ったり、自転車を買い戻したりしてやる。自分でも思いがけない行動をとってしまう。美容師であるサマンサがシリルと生活するその風景もいい。欠点も持つ普通の人が「類的性質」を発揮するのも、またありうる、タルデンヌ兄弟はそう主張している。
 サマンサは、どうしてシリルを受け入れようとしたのだろうか。「本人にもよくわからない、でもこうなった」。そういうことはあるから、と描いている。

 人をここまで動かす「衝動力」はなんだろう。サマンサは決して聖人なのではない、「普通の人」。監督は、「こういうこともある」と描きたいらしい。危うい人も多いけれど、同時に「普通の人」のなかに、「類的性質」が現れることもある、と言いたいようなのだ。兄弟の人類に対する「信頼」である。

 サマンサとしても、誰かとつながって生きたい、支えあって生きたい欲求がの表現でもあるらしい、それはとても自然なことだ。ただ、そのサマンサの欲求は「意図的に」描かれていない。
 タルデンヌ監督は、あえて描かないようにしているらしい。安易に描くことができなかったのかもしれない。よくわからない。余韻というには少々大きい、疑問を残したままにしている。
 前々作『ある子供』で、ブリュノから赤ん坊を売ってしまったと聞いたとき、ヒロイン・ソニアは卒倒して倒れる。あれは卒倒する以外の表情や演技など、思い浮かばなかったからなのだろう。それと似ている。タルデンヌ兄弟は、サマンサの「類的性質の発揮」を説明しない。
 
 もちろん、タルデンヌ兄弟の考える通り、現実生活のなかでは、ヒューマニズムなる思想が、そのまま服を着て歩いてはいない。いろんな欠点を持った「普通の人間」が、自身の暮らし、周りとの関係の認識や批判から、「類的性質」を発揮する。
 でもやはり、サマンサなる人物が行動をとるに至る衝動の背景は、描かれるべきだと思うのだ。
 
 意図的に削ぎ落としている。描こうとして、余計な説明となると恐れたのか、それとも描けなかったのか、よくわからない。問題は、サマンサの「生きている姿」として、よく描けているかどうかである。このいい映画のなかで、少し「もやもや」するところである。

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 4)小さな不満

 これまでいくつかタルデンヌ兄弟の映画を観た。兄弟は、装飾しない、説明しない、むき出しの現実をそのまま提示する、逆に「作為」を感じさせる場面を極端に嫌う、それが特徴なのだ。

 この映画は、これまでと違って音楽もついていて、何かしら少し洗練されている、その分だけ監督の「観念」が前に出て、「むきだしの現実」が後退した感じが少しある、「こさえもの」感が残る。 (文責:児玉 繁信)


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