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宮部みゆきは退化している [読んだ本の感想]

  
 宮部みゆき『名もなき毒』文庫本を見かけたので、買い求めて読んだ。つまらなかった。宮部みゆきは退化している。明らかに退化している。
  
 1)推理小説の効用

120908 宮部みゆき「名もなき毒」 - コピー (480x321).jpg

 日本で作家として食えるのは「推理小説」作家だけ、だからそこらじゅう推理小説作家だらけ。TV のスイッチを入れると、必ず「殺人事件」が起きて、善人で有能な刑事や警察が、あるいは賢い探偵がこれを解決する。
 このワンパターンの何度も何度も使い古しの筋立て。しかし他方で、現代日本社会は、驚くべきほど、殺人の少ない社会なのだ。であれば小説家は、驚くべきほど殺人の少ない現代日本社会の現状を描写し、その秘密を明らかにすることこそが、仕事であるはず。なのに、仮想の推理小説の世界では、ワンパターンの殺人事件が毎日起こり、気まぐれな「謎解き?」して見せる。
 3万人以上の自殺や「いじめ」は、現代日本の「殺人事件」であるのに、推理小説家は少しも反応しない。その理由を、原因を、なぜ推理しない!

 殺人事件に対する「人工的な恐怖」や「ワンパターンの批判」を毎日刷り込めば、警察のイメージアップになるだろうし、警察予算を確保するのに都合よくなる、その予算で生きている人たちの生活を安定させるという実際の効用がある。被害遺族の報復感情をあおり、さらには死刑制度維持にも効用がある。

 リアリティのない作り物の「殺人事件」とそのイメージをまき散らし、鮮やかに推理し解決するのが現代社会における「賢い」人物と描き出される。事件の解決、トリックの解明を通じた知恵比べが繰り広げられ、それが「エンターテイメント」なのだそうだ。

 むしろ「エンターテイメント」となっているのがより根本的な要因である。TVドラマや推理小説でブームを作りだすことで、TV局は「エンターテイメント」商売が成り立つ。現行の警察や検察システムを擁護するうえでも都合がいい。これら関係者の集団、「原子力ムラ」と少し似た「ムラ」が存立している。

 そんな事情はこの20年30年変化していない。

 2)宮城みゆきの登場は衝撃的だった 

 さて、そんなところに宮部みゆきは登場した。衝撃的でさえあった。
 日本では推理小説家しか食えない、したがって比較的多く存在する。そうするとなかに「社会派」が生まれる、「宮部みゆきの登場」はこういうことなのだろうと推定した。
 『火車』なぞは、実に面白かった。弁護士事務所に事務員として働いていた宮部みゆきは、多数のカード破産、サラ金破産の事例を目の前で見てきた。現実の観察から出発した。それは当時の日本社会の描写であり、描写はそのまま告発となり批判となった。

 さて、宮部みゆきはその後どのような作品を書いたか。
 破産の事例に詳しかった宮部も、売れてしまったら現実の日本社会と接する場を失ったらしく、それに代わる取材を怠けたらしく、ネタ切れが徐々に明らかになってきた。のちに書かれた作品をざっと見てそのように感じる。でも、腕力があるので、宮部は書くことができる、そしてたくさん書いた。

 「超能力者が社会的に受け入れられない悩み」だとかを書いた、作者が自分の観察をそのまま述べるために安易に、実際には絶対に存在しない中性的な少年による語り口でもって舞台回しをしてしまった。そんな少年など存在しない。はては時代物、こんなものに方向転換してしまった。腕力があるからとって、使い道を誤ってしまってはいけない。
 
 こんなテーマだと「観察」や「取材」しなくとも書くことはできるからというのが、私の見立てだ。「見立て」が当たっているかどうか以前に、つまらない、こんなもの読みたくもない。「エンターテイメント」だといって、喜んで読む人もいるらしい。
 
 通常、人は職業を持ち働いていろんな人々と社会関係を結び、その中で生きている、自己を実現し、同時に社会の一端をつくりあげていく。さらに必要ならその関係を変えても行く、行こうとする、家族をつくり友人をつくりそうして自身をつくっていく、その過程における世の中の認識が「観察」であろう。それが小説を生み出す要因、衝動力である。宮部みゆきには、ほかにいろんな才能があふれるほどあるのだが、この要因が欠乏している。

 小説家は、書くだけで稼ぐようになれば、既存のエンターテイメント産業の枠に入れば、「営み」が希薄になる、現代の日本社会のなかで生きていない存在になってしまう。
 
 宮部みゆきの才能は、尋常ではないので、上記の「衝動力」がなくても、何かしら書くことはできるのだし、実際に書いてきた。筆力というか、腕力をもっているから、強引に書き進めていくことができたし、そして売れもした。でも同時に、現実社会の観察、生きた生活が、彼女の小説のなかから徐々に確実に消えて行った。
 叙述のテクニックは冴えたのかもしれないが、肝心の生きた現実生活が消えて行った。
 「こさえもの」なんぞ読みたくない、そんなもの読みたいとも思わない。遺伝子組み換えのまがい物食品のようなものだ。

 3)社会性を喪失した

 さて、「名もなき毒」を文庫で最近読んだのである。しばらくぶりに宮部みゆきの作品を読んだ。
 たしかに読みやすい文章、一気に読ませてしまうだけの筆力があるのは確かだ。ふつうこんな叙述はなかなかない。
 しかし、読んだ後に、何も残らない。こんな人間はいるのだろうか? いないだろうなぁ、つくりもんだなぁ、読みながら、常にそんな疑念が浮かんでくる。
 結局のところ、現実を観察していない。頭の中だけで書いている。それも材料は使い回し、材料は本当に貧しい、使い古したワンパターンばかり。一度使った死んだ材料の「現実」が繰り返される。生きていない、動いていない。

 現実こそが小説家の命である。
 「事実は小説より奇なり」という言葉は、人の認識や想像よりも現実生活のほうが何倍も複雑で豊かだという意味でもある。
 頭の中だけで、観念だけで、小説は書けない。宮部みゆきはそんなことに気がついていないのではないか、と疑ってしまう。
 宮部みゆきが気づいているかいないかにかかわらず、「そんなのではだめだ」という「厳しい判決」を、彼女の作品はすでに獲得している。
 やたら豊かな才能を持っていたのに、ただ浪費してきた、あの筆力、あの腕力はムダ使いされている。そして今ではほとんど「並みの推理小説家」になってしまった。世間の求める、推理小説市場の求める推理小説の書き手に仲間入りしてしまった。

 探偵や警察を通じて真実が明らかになるかのように描く、毒も何もあったものではない。警察におもねるように書く。その分だけ、「名もなき毒」などと大げさな名前をつけるまでになった。

 名は大きくなったのかもしれないが、強烈な毒は消えてしまった宮部みゆき、いずれ名も消えてしまうことを恐れなければならない。

 当初、「推理小説に社会性を導入した」と感心し評価したが、今では撤回しなければならなくなった。もっとも「火車」に対する私の評価は変更するつもりはない、変質したのは、宮部みゆきである。

 量産されるのは「社会性を排除していった」宮部みゆきである。「社会性」などと固化した言葉でいうよりは、生きた人物の描写が消えて行ったというほうがより適切だろう。
 彼女はまだ若くてこれからも作品を書くだろうが、でもこのままであればどんなものが出てくるか、容易に想像できる。小説家・宮部みゆきはいるが、しかし衝撃を持って登場したあの宮部みゆきはすでに消えた。

 4)モデルがいなければ書けない作家に転向すべし
 
 宮部みゆきはモデルがいなくても書ける作家である、居なくても腕力で書いてしまう。現実生活を観察しないでも書いてしまう力がある。
 他方、世の中にはモデルがいなければ書けない作家もいる。二つのタイプがある。
 話は飛ぶが、『1846年のロシア文学概観』でべリンスキーが、トゥルゲーネフはモデルがいなければ書けない作家であるが、ゲルツェンはモデルがいなくても書ける作家であると評した。トゥルゲーネフは「猟人日記」を、ゲルツェン「誰の罪か?」を、この年発表した。
 この便宜的な分類を持ち出すのは、どちらかが優れている、と言いたいのではない。
 ただ宮部みゆきは、実在のモデルを観察して書くように、スタイルを変えなければならない。モデルがいなければ書けない作家に転向しなければ、先はない。

 さて、「名もなき毒」。この小説は、10年くらい前単行本で出た、最近文庫になったので読んだ。
 だから私のこのような評価は10年遅れている。すまないけれど、最近の作品をきちんと読んでいない。この10年前の作品に対する評価が現在もなお有効かどうかわからない。でも残念ながら、たぶん有効だと思っている。 (文責:児玉 繁信)
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