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韓国映画「ムサン日記ー白い犬」を観る [映画・演劇の感想]

 6月5日、渋谷で映画「ムサン日記〜白い犬」を観た。
 なかなかいい映画だった。
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<映画のパンフレットから>

 1)描き出してる風景がいい
 冒頭のシーンがいい。主人公・スンチョルは、開発地区と呼ばれている地域に住んでいる。ソウルのどこからしい。掘り返された巨大な穴とだだっ広い廃墟が広がる。そのそばに残った貧民地区に、主人公のすむ安アパートがある。巨大な穴の淵にある一本の道をのぼり、スンチョルはアパートへ帰っていく。スンチョルの仕事はポスター貼り。猥雑なところで、暮らしている。
 現代韓国の姿を見た気がした。

 映画が映し出す風景は、これまで「韓流ドラマ」では見たことのないものだ。「韓流ドラマ」は、近代的な会社で、事務所で、ソファーのあるマンションでアメリカ帰りの人物たちの、しゃれた会話が繰り広げられる。欧米風の洗練されたファッションとその暮らしぶりが描かれる。ほとんど「生活の匂い」がしない。

 それに比べて、「ムサン日記」の描く風景はどうだ。
 暮らしている場所は、猥雑で、未完成な街、壊しながら建設している。住んでいる者の都合で開発が進むのではない、それどころか住民はまったく無視されている。存在さえも無視されている。彼らは新たに建設される街の主人公ではない。

 この描写だけで、ある水準を「突き抜けた」立派な映画だと評価できる。監督が見てるもの、見えている世界であり、「韓流ドラマ」の見過ごす世界である。監督の視点は、極めて貴重だ。
 映画はこうでなければならない、このような風景をこそ映し出さなければならない。

 風俗ポスターを貼り生活費を得るスンチョル、脱北者である。ポスター貼りの仕事は雇い主に支配され、指示されるがまま従わなければならない、でなければ「明日から来なくていい」と言われる、「ポスター貼り」にも他の「業者」との間に「縄張り争い」があり、「ライバル」の眼を避けて貼らなければならない。見つかると殴られ、蹴られる。スンチョルはなぜか抵抗しない。
 心を許せる相手は、ひろってきた「白い犬」だけ。
 生きていくことはなかなか難しい。
 
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<風俗ポスター貼りの仕事>

 脱北者・スンチョルは、仕事にありつけない。パク刑事が職を紹介する。しかし、住民登録番号に記された番号の一部、125……で、脱北者とすぐにわかる。誰も雇いたがらない。現在、2万人以上の脱北者が韓国で暮らしているというが、その姿は韓国社会の「表」に現れてこない。

 スンチョルの脱北者仲間たちが、互いの仕事のことを話す場面がある、話題は、時給のこと。時給4000ウォン、5000ウォン、確かに安い。彼らが就いているのは時間給の仕事、アルバイトの類の不安定な低賃金労働。なかなか金がたまらない、しかし、金がなくては「人間的な生活」を送ることはできない。脱北しても、金を得なければ、普通の韓国市民になることはできない。

 2)韓国・格差社会を告発する

 映画は何度もスンチョルの歩く姿を映し出す、多くは彼の背中を映す。アパートに歩いて帰る時も、街中を歩きまわる時も、ポスターを貼る時も。観客はスンチョルの背中に、彼の「悲しみ」を観てとる。韓国社会に入り込むことも溶け込むこともできず、誰からも保護されない、法も守ってはくれない、半無法状態のなかで孤立し、ただ生きているスンチョルの姿である。孤立した「脱北者」のものである、また格差社会韓国の孤立した若者のものでもある。スンチョルは、現代資本主義社会が生み出した格差社会の底辺にいる孤立した若者の一人でもあり、彼らの抱える「悲しみ」もおなじく抱えている、その「現実」をこの映画は、いきなりつかみ出して見せる。

 「韓流ドラマ」が描きださない現代韓国の姿である。
 むろん、映画は、新自由主義のもたらした格差社会・韓国を、セリフで説明したり批判したりはしない。そのような設定もセリフもない。ある脱北者の暮らしを描き、脱北者の置かれている実状を映し出すだけだ。しかし、映画は、韓国・格差社会がスンチョルをどのように扱うかを描くことで、現代韓国社会を鮮やかに批判し告発している。これこそ「映像の力」だ。

 3)ヒロイン

 誰からも受け入れられず、孤立した生活を送るスンチョルは、何かしら人とつながりを求めたいのだろう、教会に通う。そこで聖歌隊で歌うヒロインにあこがれる。

 ヒロインは父親の経営する小さなカラオケ屋で働いていた。そこはスンチョルのすむ開発地区に近く、客は酔客やホステスなどが多い。スンチョルはこのカラオケ屋で働くことになる。ヒロインがスンチョルに、「2本の缶ビールを、3つのコップに注ぎ、ビール代を稼ぐ」ように教える。なるほど、彼女はこうやって稼いでいる。いいシーンだ。聖歌隊で歌うヒロインは、聖女ではない、彼女も生活を抱えている。彼女は、カラオケ屋の稼ぎで暮らしていることを恥じていて、教会の友人には決して言わないように、スンチョルに言いつける。
 こういうことは誰もが抱えていることだ、生きていくことはなかなかきれいごとですまない。こんな描写にも、監督の確かな「眼」をみてとることができる。信頼できる。

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<2缶のビールを3杯のコップに!>

 4)脱北者仲間・ギョンチョル
 脱北者仲間・ギョンチョルは、スンチョルの唯一の友人であり、スンチョルは彼の部屋に住まわせてもらっている。ギンチョルは、「脱北者」仲間の親族への送金を斡旋することで金を稼いでいる。なかなか目端の利く男だ。
 反共団体の講師に招かれ講演し、講演料をかせぐ。ギョンチョルにとっては、「反共教育」は金かせぎの場である。その現実を、映画はそのまま映し出す。
 ギンチョルもスンチョルも、韓国に来て、何とか金を稼がなくては生きていけない点で、同じ境遇にあるし、同じ種類の人間であって、それほど大きな違いはない。
 ただ、スンチョルは、ギョンチョルのように要領よく生きることができない。

 なぜ要領よく生きていけないのか、孤立してきたのか。
 スンチョルは、教会の仲間に、脱北前に隣人と食糧の奪いあいで争い、誤って殺してしまったことを告白する。ヒロインと教会の仲間は、驚きながらも、スンチョルの孤独な心を知り、そして受け入れることにする。受け入れる仲間を得て、スンチョルは孤立した生活から抜け出すようなのである。
 
 5)白い犬
 映画の最後のシーンをどのようにとらえるか?
 ギョンチョルの「隠し金」を手に入れたスンチョルは、ギョンチョルに渡すため待ち合わせ場所の「バス停」に向かうが、ギョンチョルの姿を認めるや、スンチョルはバスの椅子に沈み込んで姿を隠し、そのまま通りすぎてしまう。

 ギョンチョルの「隠し金」を「横領」してしまうことにした。ギョンチョルが何度も何度もスンチョルに言っていた通り、「要領よく生きていく」ことにしたのである。
 その金で、スンチョルはおかっぱ頭の髪を切り、いつもウィンドウで眺めるだけだったスーツを買い、「変身」する。その「変身」を、ヒロインは歓迎してくれる。
 要領よく生きることで、スンチョルは何か失った、そして、韓国社会になじんでいった。カラオケ屋でスーツを着て、すなわちとても脱北者には見えない格好をして、働く。

 そんな時、カラオケ屋の外につないでいた白い犬・ぺクが、スンチョルがビールを買いに行っていた隙に、道路に飛び出し車に轢かれて死ぬ。死骸を見つけ、たたずむスンチョル。長い時間たたずむが、最後にペクを放置し、その場を離れる。脱北したあと、唯一心を通わせた「白い犬」と別れるのである。

 これは何を表現しているか?
 スンチョルは確かに変わった。「白い犬」に象徴される何かと、訣別した、あるいは捨てた。そして韓国社会になじんで生きることになった。目端が利くギンチョルとあまり変わらない変身を経る。そのことの是非、良し悪しは、観客の判断にゆだねられて、映画は終わる。

 といっただけでは何か漏れたような気がする。
 現代韓国社会で生きるとは、このようなことなのだと、監督は映画の最後において示す。映画を通じてこれまで主人公・スンチョルに自身の感情を重ねて観てきた観客に、スンチョルの現実的変化を示してみせ、「受け入れるかい」と問うているのである。 監督は、最後においてなお「批判的」視点をもぐり込ませているのである。 (文責:児玉 繁信)
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