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アラブ世界とトルコ [世界の動き]

 アラブ世界の政治的変化が続いている。
 
 2008年前の循環において、欧米より新自由主義による近代化が、アラブ世界を一部をとらえた。2008恐慌は、その近代化した社会を揺り動かした。また同時にこの地域におけるアメリカの影響力後退も明らかになりつつある。そのような新しい条件下において、アラブ世界の再編がすすんでいる。
 イスラム世界に対する無根拠な宣伝や批判が、欧米日で広がっている。イスラム社会を一色で塗りつぶして理解する傾向が、われわれのあいだにもある。

 そのようななかで、最近のトルコの動きについて、興味深い報告がありそれを聞く機会があったので、以下に紹介する。なお、聞いた者がまとめたか限りの紹介であるので、文責は紹介者にある。(文責:林 信治)

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「トルコの視点」 
佐原徹哉氏(明大教授)

パレスチナ「土地の日」連帯集会、2012年3月31日、文京区区民センター


トルコとアラブ世界、パレスチナ問題
 トルコ人はトルコ語を話す。アラブ人はアラビア語を話す。オスマン帝国時代にアラブを支配してはいたが、必ずしもアラブ人に対する民族的な抑圧状態が続いていたわけではない。
 20世紀に入るとヨーロッパによる植民地支配という「転換」があった。トルコ人からすると「アラブはイギリスにそそのかされてアラブの大義を裏切ったから植民地化された、トルコはムスタファによって何とか踏ん張って植民地化の危機を乗り越えた。トルコとアラブは違う」という認識が存在する。
 パレスチナ問題もトルコではこれまで「遠い問題」だった。しかし、最近このような見方が変化しつつあり、イスラエル批判が高まっている。戦後ずっと、トルコは親米政権であり、イスラエルと友好的であったが、この3年くらいトルコ政府はイスラエルのパレスチナ政策を厳しく批判するようになった。

トルコ政治史の変化 
 2000年頃から、トルコ経済がよくなってきた。1950年代から80年代までは途上国とされてきたし、親米政権による「近代化」が進めば進むほど、トルコの人びとの暮らしは苦しくなっていた。
 2000年以前は、インフレがひどかった。高額紙幣が半年後、無価値になっていた。2000年以後、トルコリラの下落が止まり、通貨は安定した。中間層が成長してきたし、経済が改善している。アンカラやイスタンブール郊外に巨大なショッピングモールが目立ち、結構多くの人々が買い物をしているのを見ても、中間層が増大しているようであり、社会生活全般で、人々の生活がよくなっているように感じる。
 従来の貿易は、アメリカ依存であった。しかし最近では貿易相手国のトップはロシアに替わった。中国との貿易も増え、アラブ圏、中央アジアとの関係も拡大している。親米政権、米国依存のトルコから、全方位善隣外交のトルコに変わりつつある。それはトルコの自立化でもある。
 2002年、政治も変わった。総選挙で、イスラム主義の政党・公正発展党が過半数を獲得し、以後、安定政権を維持している。外交政策は、アメリカ一辺倒から、米政策に必ずしも従わなくなった。この地域におけるアメリカ、欧州の影響力の低下と相応している。

対米関係、対イスラエル関係の変化 
 第二次イラク戦争の時に、トルコはイラクに軍を送らなかった。最終的には一部使わせることになったけれども、トルコ国内の米軍基地をイラク派兵に使わせない態度を当初とった。イランとの関係改善も図り、善隣外交政策をすすめた。シリアとの関係も改善を進め、ビザなし渡航、関税なし貿易で、シリアを通じてアラブとの交易が拡大した。トルコ政府は、レバノンに仲介を試みてもいる。ガザ問題での対応でも従来の態度を変えた、などなど、これまでの反アラブ的政策を転換してきた。
 
 従来の親米政策、親イスラエル関係を変更したため、この10年間特に目立って対イスラエル関係は悪くなり、イスラエルはトルコの変化に苛立っている。
 イスラエルとの関係悪化は、2008年末はっきりしてきた。トルコ国営放送のドラマでイスラム教徒に対する迫害を描いたパレスチナ篇で、イスラエル兵がガザや西岸で行っていることをそのまま描いたところ、イスラエルがトルコ政府に正式に抗議した。しかし、トルコ政府は応じない。イスラエル外務副大臣が、駐イスラエルのトルコ大使を自分のオフィスに呼びつけ、その際、イスラエル外務副大臣が上から下に控えるトルコ大使に向かって抗議した。本来、二国関係は対等であり、トルコ大使は「対等な形式」で遇されなければならない。そのためトルコ政府が抗議した。

 ガザへの人道支援船問題が起きた。当初、イギリスの人道支援団体が2009年の暮れにトルコからトラックを手配して陸路から入れようとした。トルコのNGO組織も熱心に支援したが、イスラエルが邪魔をした。それで船でエジプトを中継したが、今度はエジプト政府が妨害する。それ以降、人道支援活動をトルコのモスリム系難民支援団体「人権と自由基金」が中心に担うようになり、2010年5月、海路で船団を組織した。ガザに入る前に公海上で、いきなりイスラエル空軍が何の予告もなく襲撃し、船団に下りてきて7名を虐殺し、27人を負傷させた。イスラエルは、例によって、「領海内に入った、警告目的で船に降り立ったら攻撃されたので正当防衛のため反撃した」とデタラメを並べて強弁している。
 トルコとイスラエル関係は悪化した。米・イスラエル・トルコの共同軍事演習は中止されたし、トルコ政府は、イスラエル軍機によるトルコ領内飛行を禁じた。

 
アラブ世界でトルコの権威が増す
 この政治的プロセスで、トルコ首相エルドリアンが、アラブ世界のなかで権威を増し、「英雄化」していく。アラブ世界はトルコに好感を持ち、友好関係が深まっていった。2011年のアラブ「民主化」過程でも、エルドリアン首相の発言が重視されていく。
 
 エルドリアンは公正発展党のリーダーであり、党はもともとイスラム主義者の政党である。現トルコ政権の対イスラエル政策は、かなり強行であり、ある意味「性根」が座っているように見える。国民も支持している。
 トルコ政治史が根本的に変わったと評価している。

政権党 公正発展党とは? 
 もともと、ムスタファ・ケマルによる共和人民党の一党独裁が長い期間、続いた。共和人民党は1950年に選挙で敗れ民主党が勝利した。1970年になると公正党が、80年代は祖国党が政権を担った。こうして1990年代の末まで、中道右派政権が政治を動かしてきたが、そのいずれの政権も、露骨にアメリカびいきであった。選挙で政権が変わっても親米政権のままであり、何も変わらなかった。経済政策、外交政策ともにアメリカに依存、もしくは隷従していた。
 
 2002年の選挙で、祖国党が敗れ、公正発展党が政権をとった。共和人民党、民主党もともに少数派に転落した。トルコでは10%以上得票なければ、議席を得ることができない。民主党、祖国党とも10%以上得票できなかった。次の選挙ではまたもとに戻ると思われていたが、2011年選挙でもともに数%しか取れなかった。共和人民党、民主党、祖国党などこれまでの政権党はほとんど政治的影響力を失い、2012年には祖国党は民主党に吸収された。親米政党が国会で議席を完全に失ったのである。

 公正発展党はイスラム主義ではあるが、かなり「穏健」な党であり、西欧的な経済発展や、近代的な原理、民主主義を取り入れており、いわゆる「イスラム原理主義」政党ではない。
 公正発展党は、2002年以降、「ムスリムでも経済を発展させることはできるし、外交も進めることはできる」実績を作り上げてきた。そのようなメッセージが国民のなかに広く肯定的に受け入れられてきたし、アラブ世界にも受け入れられてきた。

 従来のパレスチナ連帯は、これまで「反帝民族解放路線」か、または「イスラム主義、アラブ民族主義」の主張のいずれかであった。イスラムの民族主義とは、例えばアヤトラ・ホメイニの考え「アラブの土地が異教徒に支配されおり、ムスリムの手に取り戻さなければならない」というものである。
 公正発展党も、ほぼ同様に考えていると思われるが、この主張を「人権」という言葉で主張する。「モスリムであるため、人権侵害を受けている。この人権侵害を回復しなければならない」。欧米世界で受け入れられる論理で主張するところに特徴がある。そして、欧米の人権外交は「ムスリムの人権侵害を無視していて、ダブルスタンダートである」と批判する。
 2010年のガザ人道物資支援に対しても、公正発展党は、PLOやハマスの闘争には触れないで、抑圧されているムスリムへの人道支援を支持すると、同様のロジックで対応した。

 「スカーフ」問題 
 「スカーフ」問題が象徴している。トルコ政府・公正発展党は、「誰しも公の場でスカーフをかぶる権利を持っている」とする。すなわち、「かぶりたい者には、かぶる権利があるし、かぶりたくなければかぶらなくてよい」というもの。従来トルコでは、「公の場では法律でスカーフをかぶってはいけない」と決められていた。
 最近、フランス国内でフランス警察官が、スカーフを冠ったムスリム女性から、無理やり引きはがした事件が起き、フランスのサルコジはこれを擁護した。
 どちらが「民主主義的か」は比べるまでもなかろう。

 トルコ女性のスカーフ着用は、実際のところ減っている。一時、社会問題となったが、政府が「スカーフを着用する権利を認める」としたら、政治争点化しなくなり、鎮静化してしまった。暑いし臭いので、常に着用するものではない。
 イスラムへの弾圧や人権侵害に対する抗議、イスラムの自決権・人権の要求が、「スカーフ問題」として表れているのである。

2008恐慌、欧州経済危機とトルコ経済について
 トルコは、かつて2000年に恐慌を経験し、IMFの管理国家になった。ただし、2008年の世界恐慌、欧州危機の影響はほとんど受けなかった。
 むしろ逆に、欧州経済危機の時に欧州資本の一部がトルコに避難してきている。トルコ経済は、2009年は縮小したものの、2010,2011年は経済成長した。世界で2番目の成長であった。そのような意味では2008恐慌の影響が最も少なかった地域であり、経済であった。現在のところ、活発な資本の流入が、トルコ経済をけん引し、拡大基調にある。ただし、資本余剰もみえはじめ、最近は不動産投資が目立っている。バブル的な段階かもしれない。いずれにせよ、トルコ資本は蓄積も小さいので、当然のことトルコ経済がホットマネーに依存しているのは事実である。

「アラブの春」について
 欧米日のメディアは、独裁と反独裁、善と悪に、塗り固めて報道している。そこには欧米日政府の利害が表現されているのであって、惑わされてはならない。実状はそれほど単純ではないし、一様に表現できるものでもない。ただ、シリア・アサド政権打倒へすすむ可能性は否定できない。
 反独裁、民主化と言った時、トルコでは「軍、親米派、世俗主義」への批判となる。トルコ親米派は、とても腐敗した人たちで、公正発展党が、親米派に対する批判の根拠にしているのは事実である。ただし、公正発展党が腐敗していないという意味ではない。

現代におけるアラブ連帯、パレスチナ連帯 
 アラブ連帯、パレスチナ連帯の内容は、今日の政治的社会的関係のなかで変わってきている、そのなかで今後どのようにしていくかを考えなくてはならない。
 公正発展党の政策をすべて支持はできないが、この党の対応、トルコ政府の対応は、理性的であって、国民やアラブ世界からも好感をもって支持されており、今後、見守っていく必要がある。


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