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マパニケの虐殺碑のこと [フィリピン元「慰安婦」]

 マパニケの虐殺碑のこと 

 3月6日、2011フィリピン・ピースサイクルは、フィリピン、パンパンガ州マパニケを訪れ、被害者団体マラヤロラズと交流しました。

 マパニケの虐殺碑のこと

DSC_2903 マパニケの碑.JPG
<HOLY ANGEL UNIVERSITYが建てた虐殺された人たちの碑、マパニケ小学校に立つ>

 1944年11月23日、旧日本軍がフィリピン、パンパンガ州カンダバ市マパニケ村の住民をマパニケ小学校に集め、男たちを虐殺し、火にかけました。女たちは日本軍が駐屯地していた地主の家「バハイナプラ(=赤い家)」に集められ、レイプされました。

 虐殺された男たちの遺骨は、のちにまとめて集められ、マパニケ小学校の一角に埋葬されました。現在、その上にHOLY ANGEL UNIVERSITYの寄付による慰霊碑が建てられています。
 現在もなお、慰霊碑の下にマパニケの男たちの骨があります。

 マパニケ村の被害者たちを近年、学生を含む多くの日本人が訪れ、被害の事実・実態を学んでいます。つい先日、関西学院大学の武田丈教授とそのグループの人たちが訪れました。最近、マパニケを訪れる人たち、グループが増えました。

 被害者団体マラヤロラズのリタ代表によれば、慰霊碑をきれいに立派に保つことによって若い世代に伝えることもできる、ここで何があったか伝えたいという趣旨だそうです。HOLY ANGEL UNIVERSITYは、「寄付で慰霊碑の三方に壁を作りたい、壁は座る場所もつけて、できれば屋根も設置したい」という意向があるそうです。

 「1944年当時の小学校校舎は現在の位置ではなく、籾を広げて干している校庭のあたりにありました。校舎といってもニッパヤシで葺いた簡単なものでした。慰霊碑のあるこのあたりや、現在、小学校の近くにある家々も、当時はまったく何もなく、ただ田が広がっていました。
 実は、11月23日の虐殺での生き残りが一人だけいました。日本軍は男たちの腕を縛って小学校に集め、マシンガンで撃ち殺しました。そのあと日本軍は死体にを集め火をかけました。しかし、その男の人は生き残っていて、死んだふりをしながら、燃え盛る火のなかを這って、田んぼ伝いに逃げたらしいのです。それで助かった人が一人だけいました。身体に大きなやけどを負っていました。ただ、3年くらいして亡くなりました。結核で亡くなったはずです。30歳くらいでした。
 最近、マパニケを訪問してくれる人が多くなりましたが、みな、この慰霊碑を訪れてくれます。昨日3月5日、マパニケを訪れた日本人グループも、この慰霊碑を訪れました。ろうそくの跡がたくさん残っているでしょう。」と、リタさんは語りました。

 バハイナプラ

DSC_3009 ○修理されたバハイナプラ.JPG
<修理されたバハイナプラ(=赤い家)>

 バハイナプラが修理されたと聞き、どのようであったか、リタさんに確認しました。
 「去年の4月に持ち主である地主の孫が帰ってきて、外側にペンキを塗り屋根を修理しました、中は修理していません。前と同じではありません、外にペンキを塗り、雨漏りをしていたので屋根を葺きなおしました」とのことでした。

 2008年3月1日でしたか、当時の安倍首相が、慰安婦について、「強制性を証明する証拠はない」(3月26日に撤回し謝罪した)と発言した時に、ちょうどピースサイクルでマパニケに来ておりました。その時に、

 ベンガラの 色は褪せても バハイナプラ ロラの苦しみ 消ゆる時なし

 と詠みました。

 そのバハイナプラ(=赤い家)にペンキを塗って修理したと聞いて、驚いたのです。
 
 マパニケからの帰り、バハイナプラに寄りました。確かに土台の壁、鉄製の金具にペンキが塗ってあり、濃いエビチャ色でありました。建具の柱には何も塗ってありませんでした。思っていたほどけばけばしい色ではありませんでした。(文責:児玉)

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