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フィリピンから、ロラを迎えての12・8集会 [フィリピン元「慰安婦」]

12月8日  戦争の加害と向き合う
武蔵野公会堂 19:00~21:40


フィリピンから、
リラ・ピリピーナ:ナルシサ・クラベリアさん                 
リラ・ピリピーナ コーディネイター:リッチー・エクストラマドゥーラさん

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  <会場の様子>

 1) 竹見智恵子さんの話

 フィリピンの戦時性暴力被害者たちの記録映像を撮っております。竹見です。
 フィリピンは、文字通り、太平洋戦争に巻き込まれました。12月8日、日本軍はパールハーバーだけを襲ったのではありません。マレーシアなどと同じく、フィリピンも同時に侵略を受けました。攻撃を受けたのはルソン島のクラーク基地です。当時のフィリピンは自治領と認められた米国の植民地でありました。日本政府はフィリピンに宣戦布告もなしに戦争をはじめたのです。この戦争でフィリピン市民110万人が犠牲になりました。

 戦争中、フィリピンの人たちは抵抗軍を組織します。フクバラハップなど抗日軍が存在しました。日本軍によるフィリピン支配、軍政が敷かれます。「英米支配からアジア解放」という言葉とは裏腹に、軍政はフィリピン人に対して苛烈であり、最重要課題を戦略物資の調達においていました。日本軍による支配は、フィリピン人の多くから支持されていませんでした。

 フィリピン女性に対する集団レイプは、住民の大虐殺と一緒に起きた場合が多いのです。慰安所でレイプされたケースもありますが、住民虐殺と一緒のレイプも多数見られます。ゲリラ討伐の名のもとに住民を抹殺し、財産を奪い、女たちをレイプしていくのです。あるいは、フィリピン女性を軍の駐屯地に監禁し、昼間は料理・掃除・洗濯をさせ、夜はレイプする、こういった例も大変多いのです。特別な事例ではありません。むしろ日本軍行った一般的な事例、支配パターンなのです。

 被害者たちは、自分たちの受けた被害であって自身は少しも悪くはないのに、「被害者が悪い」という世間の目、認識にさらされ、自分の受けた被害をずうっと隠して暮らしてきました。名のり出るまで時間がかかりました。90年代になって呼びかけと支える運動があって、やっと名のりでることができました。そんなに以前のことではありません。そのあとも何度も被害者同士で話し合い励まし合って、現在の被害者団体を組織することができたのです。このようなことはフィリピンに限らず、どこでもそういう傾向があります。

 私たちは、被害女性の体験、被害事実を知った後、被害そのものを日本の人たち、フィリピンや世界の人たち伝えることが大切だと考えました。被害者の一人、レメディアスさん、悲しいことにこの方はすでに亡くなってしまいましたが、このレメディアスさんが自身の体験を絵に描きました。私たちはそれを絵本にしました。またその絵を紙芝居にして、これを使ったワークショップ活動を始めました。もうすでに何年も行っています。ワークショップは、依頼があれば出張し行っております。

 レメディアスさんの書いた絵をたどって、先日現地を訪ねました。レイテ島ブラウエン市、エスペランサ村です。レメディアスさんは、日本軍によるエスペランサ村の掃討作戦で捕 まったあと、当時日本軍の司令部が置かれていたブラウエン中央小学校に連行され、しばらく樹に縛られていました。レメディアスさんが収容された小学校も、捕えられた時日本軍に縛りつけられた樹も残っていました。その後、さらに近くの飛行場の野戦病院に移されます。そこで1年以上にわたって監禁され、昼間は家政婦、夜は穴蔵のようなところに連れ込まれ、兵士たちからレイプされるという日々を過ごしました。(以上は絵本に絵かがれている通りです)
 ブラウエン中央小学校の校庭にあるしゃれたコッテジには、プリシラ・バルトニコさん(絵本には出て来ない)が監禁され、おそらく「司令官専用」として囲われていたものと思われます。ふたりともすでに亡くなられましたが、小学校の校庭のコテッジは今も現存し、プリシラさんが捕われていた部屋にはベッドがそのまま置かれていて、いまもなお保健室として使われていて衝撃を受けました。

 日本政府はいまだ公式に被害の事実を認め、謝罪をしておりません。賠償をしておりません。いまだ被害者の正義は回復しておりません。このような被害の実態、被害者の声を伝えることは、大変重要なことだと考えております。
 今回、記録映像を残そうとしましたのは、みなさんに広く被害の実情を知っていただきたいからです。記録映像はいまだ完成しておりません。完成は、来年の予定です。今日はその「予告編」を上映させていただきます。よろしくお願いします。

 2) 予告編 上映

 3) 被害者:ナルシサ・クラベリアさんの証言

 私の経験したことを話します。
 日本軍が突然、私たちの村にやってきました。私の父は村長をしていました。村に空き家がありました。日本軍兵士は、父に「この家族はどこへ行ったのか」と何度も聞きました。父は「どこに行ったかわからない、田んぼか魚とりに行っているのでしょう」と答えました。そのあと、日本軍は父を連れて、1時間ばかりその家族を捜しました。しかし、結局どこにいるかわかりませんでした。日本軍兵士はゲリラの一家と判断したようでした。そして、父がゲリラ一家をかばい、ウソを言っていると判断したのです。

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   <ナルシサ・クラベリアさん>

 それから急に日本兵は父に、「家族は何人いるか」と尋ねました。父親は「8人いる」と答えました。日本兵は「その場に並べ」と命令しました。ひとりの姉がマニラに行って不在でした。そのためその場には7人しか並びませんでした。それで日本兵が急に怒りだしました。「おまえは嘘ばかり言う」と言って怒りだしました。

 そのあと、日本兵は父親に対して拷問を加え始めました。父親を縛って柱に縛りつけました。ナイフを取り出して父親の皮膚をはがし始めました。ナイフで切り刻みました。恐ろしい光景でした。私は当時13,4歳でしたが、その様子を一部始終ずっと見ていました。兄弟姉妹と一緒に観ていました。
 母親が叫び声をあげました。すると母親を日本兵がレイプし始めました。須田という名前であったことが分かりました。母親を助けようとしたのでしょう、小さい弟と妹が棒で日本兵を叩こうとしました。すると日本兵は「邪魔立てするな、小癪な」というふうに立ち上がって、その妹、弟を殺しました。そのあと、日本兵はわたしたち3姉妹に襲いかかってきました。そしてレイプされました。私はその時、腕を骨折しました。そのあとが今も残っています。

 そのあと、私たち3姉妹は、日本兵に捕まり、1キロか2キロ離れた日本軍の駐屯地に連れて行かれました。連れて行かれる途中で、父親の叫び声を聞きました。苦しむ父の最後の叫び声でした。また私たちの家が燃えているのが見えました。日本兵が火をつけたのです。父も小さい弟も妹も、母も殺され焼かれたのでしょう。

 それから、私たち3姉妹は駐屯地に連れて行かれました。姉二人はすぐさま駐屯地内に入れられましたが、日本兵は私を駐屯地前の民家に連れて行きました。骨折した腕を治療するためだと思います。民家の人はシップをしてくれました。しばらく私はその民家で治療をして過ごしました。

 その後、寺崎という日本兵が来て、水浴びをしろ、と命令しました。身体を洗っていませんでしたので臭かったのでしょう。水浴びして持参した服を着ると、寺崎が最初に私を民家でレイプしました。

 そのあと駐屯地に連れて行かれました。一人の姉を見つけました。あざだらけでした。やけどの跡も見えました。言うことを聞かないので叩かれたり、拷問されたりしたのでしょう。後でそのことを姉から聞きました。しかしその時は姉に声をかけられませんでした。フィリピン人たちだけで話すことは厳しく禁じられていました。あざややけどだらけの悲惨な姿を観てびっくりしましたが、詳しいことを聞くことができませんでした。非常に恐ろしかったことを覚えています。
 駐屯地に監禁された私たちフィリピンの女は、昼間は掃除や料理をさせられました。夜は、多くの日本兵にレイプされました。このレイプが嫌でなりませんでした。

 そんな生活をずっと続けていましたところ、女性の一人が駐屯地から逃げ出しました。すると日本兵はより厳しく監視するようになりました。
 その頃日本軍は、食糧を現地調達していました。現地のフィリピン人を襲い、食糧や財産を奪うのです。以前は日本兵だけが徴発に出かけていましたが、逃げた後は、私たち女たちもつれて徴発に行きました。その時のことは忘れられません。私は裸足で歩かされました。川を何度も渡りました。遅れたりすると馬用の鞭でたたかれました。足裏の皮がむけました。それでも歩き続けなければなりませんでした。そのため駐屯地に帰ったあとしばらく、私は歩けませんでした。
 私の姉・エメトリアと話す機会がありました。姉の話を聞きました。あなたはすぐに駐屯地に来なくてまだよかった。姉たちは連れてこられてすぐにレイプされました、何度も何度も。従わないとたたかれましたし、煮えたぎるイモをおしつけられやけどさせられました。そのように話しました。そのうち姉エメトリアはだんだんと精神がおかしくなって行きました。

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 以上のような被害をあたしは受けました。
 私はここにいらっしゃる日本のみなさんに訴えたいと思います。もし、皆さんの家族が私と同じ経験をしたらどのように受け取られるでしょうか。
 私ナルシサは幸運にも生き残りました。家族は殺されてしまいました。私だけが生き残った意味をよく考えます。私たちと私たちの受けた被害をみなさんに伝えるように、そしてこんな女たちが今後決して生まれないように、神様が望んでおられるのだと思います。ですから私は、証言を続けています。

 私たちは、第一に、日本政府がこの事実を認めること  第二に、謝罪すること  第三に、賠償することを求めています。
 被害者団体リラ・ピリピーナは174名いました。しかし64名がこの世を去っています。生きている限りこの闘いはやめません。みなさんの支援をお願いします。

 4)リラ・ピリピーナのコーディネイターであるリッチーさんの話
 みなさんこんばんは。
 はじめに、ここに集まりのみなさんに感謝いたします。私たちが訴えるこのような機会を持っていただいた、みなさんにお礼を述べたいと思います。三鷹のみなさん、実行委員会のみなさん、ありがとうございます。
 特に三鷹のみなさん、三鷹市議会で、日本政府に「慰安婦」問題の解決を求める意見書を採択していただきました。そのことに感謝し、評価しております。

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   <リッチー・エクストラマドゥーラさん>


 私たちリラ・ピリピーナという組織は、性奴隷被害を受けた被害者、支援者による組織です。過去の戦争被害の告発だけでなく、そればかりか、現代、発生している戦争による性暴力被害を告発してきましたし、告発し続けております。

 この18年間のわたしたちの闘いについて少し触れますと、はじめに日本の裁判所に賠償請求訴訟を提起しました。しかしこれは最高裁で棄却され、すでに敗訴させられました。まったく不当です。アメリカの連邦裁判所にも提起しましたが棄却されています。すでに司法による解決を求めることはできないことははっきりしています。
 国連の各委員会では私たちの被害を訴えてきております。各委員会では日本政府の責任を認めるべきであるという勧告をいくつも出しています。しかし日本政府はそれに一切答えておりません。
 フィリピンにおいてもロビー活動をしています。フィリピン国会に決議案を提出しています。また最近では、フィリピン最高裁に同じ被害者団体であるマラヤロラズが、フィリピン政府に対し「慰安婦」問題の解決のために日本政府に働きかけるように裁判を起こしました。しかしこれも2010年7月に棄却されました。

 最近私たちはアキノ大統領が訪日する機会(APEC)をとらえ、連続した抗議行動やキャンペーンを行いました。最高裁前に出向きましてマラヤロラズの提起した裁判支援に行きました。組織が違っても同じ被害者を救済するために、行動に行きました。
 先月11月8日、被害に対して謝罪と補償を求めるようフィリピン政府に求めるよう決議案を提出しました。その内容は、日本政府は、第一に、被害の事実を認め公式に謝罪すること、第二に、被害の事実を教科書に載せ広く知らしめること、第三に、賠償すること。この3項目を要求しています。
 私たちの要求をフィリピン政府が支持することを求める決議案です。今皆さんに見せているのが、決議案です。フィリピン政府が日本政府に働きかけるように要求しています。

 私たちは、アキノ大統領が訪日する前に、何度も抗議行動を行いました。マニラの大統領府前のメンディオーラ橋に集まって要請行動を行いました。ロラたちは高齢にもかかわらず参加しました。
 この行動が実りまして、アキノ大統領は訪日の前に声明を発しました。それはフィリピン政府が、被害者に補償を行うという内容でした。1952年にサンフランシスコ条約でフィリピン政府は日本政府に国家賠償請求権を放棄する、他方日本政府はフィリピン政府に対し賠償を行うとされています。アキノ大統領は、当時のフィリピン政府の決定を誤りであると認め、この「政府の誤りの責任」をアキノ政権が引き継ぎ、被害者に対して保障するというものです。しかしすでに今年度予算案は決定しているので、補正予算を組んで対応すると声明しています。この声明は、「画期的」なものですが、この先どのように実行されていくか、いまだ不透明です。被害者を中心とするフィリピン市民が、アキノ政権に対してより強く要求し続け実行させなければなりません。
 さらに、アキノ大統領は、ヌエル・ロペスという駐日大使を任じ、日本政府の謝罪を要求すると声明しています。

 これらのことは一つの前進です。他の国の被害者の闘いにも何らかの影響を及ぼすのではないでしょうか。 私たちはこれからフィリピンに戻り、これを声明だけに終わらせないで、実現するようにさせて行きたいと考えております。

 あと、リラ・ピリピーナが力を入れているのは歴史的な記録や資料を集め形に残すことです。2003年にはマニラのボニファシオ公園に「慰安婦」記念碑がたてられました。私たちは被害地に記念碑をつくっていきたいと考えております。国の研究所が認定すれば、国の費用で記念碑が立つ制度になっています。しかし研究所は費用がかかるという理由でなかなか調査が進みません。被害地そのものは、実際には日本の国会図書館でも、国連に出かければすぐに証明されます。しかし進んで調べようとはしません
 そういうこともあって、リラ・ピリピーナは、自分たちで組織のなかに歴史資料センターをつくりました。

 また、ロラたちが高齢で、みなさんの前で証言するのは今後ますます困難になっていきます。そのための映像や資料をつくろうとしています。
 これまで、国際的には「慰安婦」の支援する決議や国連の勧告が出ているものの、日本国内ではその動きが見えていませんでした。しかし、最近36の市町村で意見書が採択されています。これは日本での新しい動きです。そのような動きは多くの人々の努力や活動で実現しているのだと思います。その意義は大きいと思います。
 支援していただいていますが、これまで以上の、2倍3倍の支援をいただき、なんとか解決しなくてはなりません。わたしたちの正義が実現するようにしたいと思いますし、するべきだと考えております。仲間の一人ヴァージニアさんが言うには、私たちが声をあげてもそれに応えられなければ、非常にさみしい気持ちになります、でも将来の正義の回復のために実現しましょう。
 その正義は決してフィリピンの私たちの正義だけではありません、日本のみなさんの正義でもあると思うのです。人権の回復は世界の人々の希望です。

 5)司会: 山田久仁子さん
 ナルシサさん、リッチーさん、お話しありがとうございました。
 リッチーさんが言われましたが、「慰安婦」問題の解決は、フィリピンやその他国々の被害者の課題ではありません。ロラの話を聞いてよかった、云々ということではなく、私たち日本人の問題であること、日本人である私たちが日本政府に働きかけ日本政府を変えさせなくてはなりません。フィリピンの被害者の問題であるとともに、私たち日本人と日本社会の問題だと思うのです。私たちが日本政府の態度を変えさせるかどうかにかかっています。
 今後も記録映像が完成したら、上映運動を取り組みます。今後ともよろしくお願いします。

 5)アリソンさんの歌
 6)草柳さんのDV問題の紹介(省略)
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