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若松孝二 監督 映画『キャタピラー』を観る [映画・演劇の感想]

若松孝二 監督 映画『キャタピラー』を観る

1)この映画のよさ 
 
 この映画のよさは発想が「奇抜」であって、その効果が映画全体をリードしているところにある。
 
 若松監督の描き出すショッキングな映像、ショッキングな設定、外観に鼻面を引きずり回され、圧倒されて感心してしまう人も多いのかも知れない。明らかに若松はそれを狙っている、というところもある。

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 手も足ももがれ、耳も声も失った日本軍兵士、確かに戦争で実際に、ありうるだろうし、存在したであろう。その兵士が「食欲と性欲の塊」となった姿は、観客にとっていかにも強烈だ。しかも戦時の日本では「軍神」と称えられる。「軍神」と称えるのは、戦前の日本の社会関係であり、したがって、「奇妙」、「奇天烈」なのは、かつて戦中戦前に存在した日本の社会関係そのもののに他ならない。
 この奇天烈さ、気味の悪さを、そのまま取り上げた若松監督の発想が実におもしろいし、映画にインパクトを与えている。
 (もちろん、手足をもがれ耳も声も失っても、必ずしも性欲と食欲の塊になるとは限らない。悲惨な姿、グロテスクな被害の姿に、あえて加えて性欲と食欲の塊に設定し、奇天烈さを強調しているようにも思えるところに若干の不自然さはある。)

 兵士は手足を失っても生きなければならないのであり、それは決してきれい事ではない。生きておれば当然食欲もあろう、性欲もあろう。映画は、悲惨な戦争のもたらす現実の一面を、隠したり無視したり美化することなく、鮮やかに観客の目の前に突き出して見せたのである。それに加えて手足を失った夫・久蔵に軍服を着せ、勲章をつけ、リヤカーに乗せて、国防婦人会の割烹着を着た妻が引いて歩かせて見せたのである。
 ほんとうに「強烈」な光景ではないか。戦争被害の悲惨さばかりではなく、手足をもがれ耳も声も失った者を表面上「軍神」に祭り上げてしまうことに誰もが従ってしまう姿。このようなことがまかり通る「現実」が戦争中、確かに存在した。

 戦争のもたらした悲惨な現実を糊塗し目をそらし、特攻隊員をことさら賛美する現代日本に存在する風潮、「美しい日本」と描き出す風潮に対し、そうではない戦争の姿をえぐり出して見せたところは、この映画の優れたところだ。現代日本の風潮に対する若松監督の生きた批判でもあるだろう。この映画の輝いているところだ

 いまひとつ感心したのは、軍神の妻・シゲ子の描写である。この時代の日本の女の姿が描かれている。
 この妻は、以前の夫をとりたてては愛してはいなかった。家に嫁入りし、夫の従属物として扱われてきた。回想シーンで夫・久蔵がシゲ子を殴りながら、「うまずめ」と罵倒するシーンがある。妻は夫のある種の財産として奴隷的に扱われていたということであり、妻の側も、戦前の日本の農村ではそれ以外に生きる道がなく、従うしかなかったのは、映画が描写するとおりであろう。
 この時代の日本の女の地位、扱われ方に対する批判が、描写から立ち上がってくる。これもこの映画の主張であろう。

 夫・久蔵が手足をもがれ帰ってきた時に、まず妻・シゲ子はその姿に驚いて逃げ出した。しかし逃げるところはなかった。夫の面倒を見ながら生きる以外に道はない。
 他方、周りは夫を軍神と誉めそやす。夫が手足を失った、こんな風になってしまった、とシゲ子は当初はとまどい泣く、夫の身を憐れんでいる。しかし決して心が通い合っているわけではない。ということは、五体満足の男ではない、自分をこの先も養ってくれる夫ではない、ことを泣くのである。他に生きる道があったなら、逃げ出したであろう。
 そのうち手足を失った姿にもすぐ慣れてしまう。周りが夫を軍神と建前上誉めそやすのなら、それを利用して生きてやれ! とさえ思うのである。
 
 戦前の日本で、夫に縛られ、家に縛られ、軍国主義と戦争遂行に唯々諾々と従ってきた多くの日本の女の姿を、寺島しのぶはよく演じている。従順でありながら、ある意味ではずうずうしく骨太で逞しい姿をよく表現している。

2)破綻の原因

 この映画の奇天烈な思いつきは、こういう戦争の描き方もあるとあらためて思い至らせてくれるのだけれど、映画全体がその場での「思いつき」に引っ張られて、全体を物語として展開することができていない、まだまだ未完成の印象をぬぐいきれない。
 一言で言えば、脚本は完成していない。未完成のまま撮影に入りその場の思いつきで、若松監督がコロコロ変えてしまったことが手に取るようにわかる。

 奇をてらい人の目を引きつけることに若松監督の関心が集中していて、その場の思いつきに支配されている、そのためトータルとして人間を描くことができていない。若松監督は、ショッキングな場面や設定で観客の目を驚かせる誘惑にとりつかれており、それが映画だと思い込んでいる。根本のところで勘違いをしている。
 これが映画を破綻させている第一の原因であろう。

 「思いつき」のおもしろさと、「思いつき」によって破壊された無残な姿が併存している。

3)未完成の脚本

 脚本が未完成であることは、監督が、人間を理解していない、外面的にしか見ていないところに起因している。

 手足を失い食欲と性欲の塊となった夫・久蔵は、軍神と称えられた新聞と勲章を眺め、満足げな表情をうかべる。この時の久蔵には、人間性は存在しない。

 ところがこの久蔵が、中途から中国戦線で犯したであろう中国娘に対する強姦と殺戮の記憶にさいなまれるようになる。どうも、シゲ子に殴られてからだったと思う。
 しかし、この変化はいかにもおかしい。軍神は、中国娘の強姦と殺戮の記憶を怖れるのだが、そのことは殺戮と強姦を非人間的な行為と認識して、恐れているわけではない。すなわち何かしら人間的なものを自分のうちにとりもどして恐れているのではない。ただシゲ子にひっぱたかれることから動物的恐怖から恐れているにすぎない。あるいは、「バチがあたるのでは」と恐れているにすぎない。

 これは批判でもなければ反省でもない。そこには「人間的なもの」は存在しない。
 したがって、映画は、「中国娘に対する強姦と殺戮」に対して、「罰が当たる」と脅してはいるものの、正面から批判をしているわけではない。「久蔵に人間性は存在しない」と同様に、このような映画の「描き方」にも、やはり本当の人間性は存在しない。

 それから、シゲ子なる人物もよく描かれているのだけれど、理解不能なところがある。
 シゲ子は手足を失った軍神をかいがいしく世話する貞節な妻としてしか生きることができない。外面的にはそのように振舞う。しかし、軍神たる夫はその実、性欲と食欲の塊であった。
 そのうちシゲ子は、世間が称える軍神の「価値」を利用し生きることも覚える。村の行事や出征の場に、軍服を着せ勲章をつけさせた軍神をリヤカーに乗せ引いて歩く。それは村のなかで自分の存在意義、位置を、誇示し確認することであった。しかし、世間が称える建前としての軍神は、実のところ働けないから世話をし養わなければならない。外面と内面が極度に乖離した生活がつづく。このような描写はなかなかいい。

 しかし理解不能なのは、一貫して不思議なのは、夫と妻が決して心を通わせることが最初から最後までないことだ。シゲ子が自分の食事まで与えてまで世話しても、手足をもがれた夫をシゲ子が憐れみの感情で眺めても、夫はシゲ子と心を通わせるには至らなかった。

 そのため、「食って寝て食って寝ての夫でいい」、その関係のなかで生きて行こうとシゲ子が考え、夫を抱きしめるときも、シゲ子の側からの一方的な憐れみであって、心は通わない。夫の心は開かないし、そもそも監督は夫の内面を描こうとしない。これも実際におかしなところだ。

 「軍神と称えられた新聞と勲章を眺め、満足げな表情をうかべる」判断力のある久蔵が、なぜシゲ子に対してはその判断力が働かないのか、心を開かないのか、その内面はどのようなのか、監督は描かない。
 まるでそんなことには興味がないかのようでさえある。おかしなことだ。

 だから シゲ子にとって、夫・久蔵は心を通わせる相手として存在しておらず、義務として養わなければならない対象として、最初から最後までせいぜい憐れみの対象として存在するだけである。
 そうであるとすると、夫に対して見せるシゲ子の態度、もらった卵を軍神の口に押しつける場面なども、尽くしても理解されない、人としてのつながりがちっとも実現されない妻の「悲しみ」は表現されているものの、重みが小さいのだ。

 こういうところは脚本の欠点であろうか。この監督は、人間の内面的な感情の移り変わりやつながりを描きだしていない。生きた姿で描き出すことができない。外面的な奇異な設定にとらわれて、というより外面的な表現にこそ興味が向いていて、その設定のなかで生きていく人間の姿を描き出すことが、決定的に苦手なのだ。これが映画の欠点、欠陥であろうし、監督自身の欠点だろう。

 敗戦を聞いて、夫が自殺するのもおかしい。軍神として生きてきたなら、そんな人間なら、敗戦を聞いて自殺などしない。自殺するには、それなりの「判断力」が必要だ。しかし、ここまで判断力なしの人間と設定してきたではないか。矛盾している、破綻しているではないか。
 軍神として生きるにはこの先不安になるだろうが、自殺してしまう理由にはならない。ましてや性欲と食欲の塊であれば自殺する理由がない。軍神として振舞ってきたことを誤りだと反省したわけではなかろう、ましてや強姦と殺戮を反省したわけでもあるまい。(もっとも、強姦と殺戮を反省したのなら、もっと人間的表情をシゲ子に対して見せたろう。夫は何も見せなかった。)

 どう考えても、自殺はありえない、分裂した不可解な行動である。夫・軍神の心のうち、その変化は、まったく描写されていない。というより描き出せないというのが、より適切だろう。ここでも脚本は破綻している。せっかく久蔵役の俳優が這いずり回って「熱演」しているのだが、熱演の意味がない。

 そんなところは他にもある。
 敗戦を聞いてシゲ子は、うれしそうな表情を見せバンザーイを叫ぶ。戦争遂行によって何かしら抑えつけられていた状態から解放されるようなのだが、これがまたありえない。シゲ子には手足を失った夫の世話をすることでしか生きる道がない。愛情はないけれど、懸命に戦中を生活してきたのだし、夫の姿にもその世話にも慣れてしまった。そのことにシゲ子自身もたぶん驚いたであろうが。しかし、家と軍神を守っていく以外に生きていく道はないであろう農村の女は、敗戦になったからといって、この先の生活の手立てを獲得していないのだから、不安にこそなりはしても、直ちに解放感を得るなどありえない。したがってこのような設定はあり得ないのである。シゲ子の内面的な心情とその変化の描写が欠落している、というより破綻しているから、このようなありえない設定が突然出てくる。

 このような場面をわざわざ追加しなくとも、観客は戦争の悲惨な現実とそれに対する批判を認識するであろうし、苦難に耐えて生き抜いてきた農村の女の姿、その時代の日本人の姿を認識するだろう。従順でありながら、ある意味ではずうずうしく骨太で逞しいシゲ子の姿のなかに、民衆的要素が生き残っており、この先どのように目覚め、力を得るか、と想像するのではなかろうか。
 したがって、「敗戦バンザーイ」は余計な描写というべきであろう。

 あるいは、篠原クマさん演じる男なども、余計だと思う。むしろ登場させるのなら、「非国民、無駄飯食い、役立たず」と国家から、さらにはむしろ周りの民衆から、非難され、いじめられ排除された姿を映し出すべきだろう。監督は、この男を決して戦争に荷担しなかった「象徴」として登場させているようであるが、現実をしらない観念的な描写であって、決して批判になっていない。戦後、全共闘世代の一部が考えついた浅薄な考えであろう。

 こんなところも、脚本のおかしなところである。出てくる人間が、生きていないのである。「思いつき」で、その時々勝手に人物の性格を変更している。人間は何の根拠もなく行動したり、変わるものではない。人間そのものをよく知っていないことが露呈している。

 その他に映画の問題点のうち細かいところを指摘すればいくらでもある。

4) 魅力的な駄作

 勤労奉仕に来ている早稲田大学学生の若々しい肉体をみてシゲ子が欲情し、その夜夫にまたがる場面なども、シゲ子の内面のあるリアルな描写へと進もうとしている場面ではあるのかと思った。しかし、それだけであって、その先が続かなかった。ショッキングな場面で観客を驚かせたら、若松監督の目的は達したので、そのあとの展開はないのだ。

 生きておれば、性欲もあろう。ことさら隠したり、道徳を盾に「建前」で描くべきではない。逆に言うと、若松監督自身が「古いモラル」に囚われているから、それをセンセーショナルに、あるいは「週刊紙的に」描き出しておしまいにするのである。こんなふうに処理してしまうところは本当につまらない。

 食糧をそっと置いていてくれる義弟とシゲ子との関係が、心の通じ会わない夫との関係に対比して描かれるのかと思いきや、この場面も物語は展開しなかった。

 こんなところなどは魅力的な場面であって、もっと展開できるだろうに、と思われる。こういう描写こそ重要なのであると思うのだが、残念ながら若松監督には、描く意思はない、したがって描く力がない。戦中を生きた日本人たち、人々のあいだでの気持ちのつながり、関係がほとんど描かれないというのが、この映画の特徴となってしまってる。残念なところだ。

 結論的に言うと、発想・設定は面白いが、生きた人間が描かれていない。
 よくいえば、脚本はまだまだ未完成である、したがっていくらでもよくなる、悪く言えば、破綻している。脚本を直せば、見事な映画になる。

 監督の意図に親しみをこめて言うならば、当作品は魅力的な駄作である。(文責:児玉 繁信)

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