SSブログ

民藝公演「はちどりはうたっている」 [映画・演劇の感想]

民藝公演「はちどりはうたっている

<パンフレットから>

 1) 民藝公演「はちどりはうたっている
 民藝公演「はちどりはうたっている」を観た。
 作品は明確に、戦争を起こしている米政府と米国支配層への批判を試みている。戦争のもたらす悲惨さを多くの人びとが知りながらも、なかなか戦争がなくならない原因を作者は、製品を生産し販売し利益を上げないと世の中がまわっていかない現代資本主義社会そのものにあると描き出した。軍需産業は常に顧客を求め、超大国の政府と一体になり、戦争を推し進めている。軍需産業ばかりではない、作品に登場する日本商社も、通常の資本活動のなかで民需も軍需も隔てなく、経済活動として加担している姿を描き出している。今日の世界の姿を抉り出そうとその試みはよく理解できる。
 脚本は松田伸子、演出は渾大防一枝。
 現代世界の問題点をまっすぐに率直に描き出そうと構想し作り上げた点で、きわめて意欲的な作品である。こんな作品にわれわれはめぐり合う機会はほとんどない、こんな作品を作り出した脚本家、上演した演出家、劇団に敬意を表すべきであろう。
 
 2) 物語
 物語は、カリフォルニア州サンノゼ支店に駐在する若いエリート商社マン・藤本晴彦のアパートを婚約者の陽子が訪ねていくところから始まる。そこに藤本の信頼する東洋の詩人ルー・シンや、商社の現地雇用パートで沖縄出身の可奈グリーン、藤本の先輩社員・日高、支店長・浦賀が次々に立ち現れて、それらの人物が、自身の立場から考えを主張しあい、その言い合いを通じて戦争を引き起こす現代世界の姿とその批判を描き出している。テンポよく登場人物に喋らせ、しかも描く人物をくっきり造形し提示しているこの脚本家の力量に感心する。
 作品の批判は、われわれ日本人にとっては「外」から持ち込まれた戦争加担に応じるか、拒否するかという問題として提示される。晴彦は、自社の営業活動に疑問を持ち、米国で反対行動を行おうとする詩人ルー・シンを心情的に支持する。当初わけがわからず混乱していた陽子は、言い合いの過程で自分の頭で考えて晴彦への信頼をあらためて深めていく。この陽子は一般的な典型的な日本人像として設定されている。沖縄出身の可奈は、沖縄戦と現在まで続く基地支配を告発する日本人として登場し、先輩社員・日高、支店長・浦賀は、会社の営業にとってそれぞれの米政府と軍需産業を是認する理屈を展開する。
 設定も巧みで、物語はテンポよくすすみ、観る者を引き込んでいく。
 
3) 作品の欠点
 ただこの作品は次のような問題点も持っている。戦争の原因は、悪の総権化・米政府と軍需産業にあり、これが自分たちを脅かしていると描き出され、したがって、晴彦と陽子の批判は、これに加担するかどうかと設定される。自分の問題というよりは、何かしら詩人ルー・シンや可奈グリーンの問題として描き出されているところがある。果たしてこれでいいのかと違和感が残る。
 戦争批判は日本人一般の生活の批判からは出てきてはいない。外部からの、中国系マレーシア人ルー・シン、沖縄人・可奈グリーンの批判という面をかぶって表示される。
 これは正当か?
 アフガンやイラクへの戦争は米政府が起こし、日本政府が従ったものであり、だから、日本人の生活の中には戦争を起こす要因はなく、外から持ち込まれるとのとらえ方が前提なっているように見える。したがって、戦争反対の欲求は、現代日本社会の批判としては立ち上がってきていない。そのため、批判はあたかも空中をさまよっているかのようになっている。批判の基盤が明確でないのだ。あたかも「はちどり」のように空中をさまよっている。確かにこのような認識は、多くの日本の人々がもつものだろう。問題は、脚本家はその認識に対して無批判であることだ。これが問題点の第一

 劇の終わり近くで、軍需会社による航空機の欠陥隠蔽に加担するサンノゼ支店のやり方は、「勝手な営業活動」として日本本社が咎め、支店長・浦賀支店長や先輩社員・日高の「独走」は止められて、晴彦の個人的奮闘は報いられる。この設定は安易だと思う。脚本の欠点である。本社は戦争反対、軍需産業への加担批判から支店長らを止めるのではない。たまたま航空機の欠陥が明らかになったので、それを隠してまで商売を進めることの損得を勘定して止めたのだ。  あくまで偶然なのだ。脚本家が頭のなかで作り出した偶然である。脚本家にこんなことをする権利はない。航空機に欠陥がない場合は、本社はどうしたのだろうか?本社による「正常な経済活動」が果たして歯止めになるのか?これらはあいまいにして劇は終わる。
 もちろん、批判していく人々の関係はどのような形をとるか、そのプランは簡単には出てこないことをわたしとて知っているつもりだ。あえて言うならば、晴彦のような個人的告発は押しつぶされるだろうし、何度も繰り返されるだろう、それを重ねるなかでどのような人々の関係が批判として成立していくか、探求することは、脚本家の仕事の一つでもあろうと思うのだ。必ずしも解決を追加する義務は脚本家にあるわけではない。にもかかわらず、「本社の介入」による無理なハッピーエンドにまとめあげたことで作品は、一挙に「軽く」、「悪く」なってしまった。これが問題の第二

 劇中で、「戦後六〇年間、平和が保たれた理由をなぜか」問いただす。それになんと答えたか?  即座に「日本に経済成長させて、軍備を買い続けさせるため」と詩人ルー・シンに答えさせ、陽子に同意させた。これは正しくないと思う。多くの不十分点があったとしても、一九四五年の敗戦、天皇制ファシズム打倒以後、世界と日本の人々の戦争反対、平和を希求する奮闘が平和を保ってきた第一の要因であろう。しかし脚本家は上記のような説明をあて、人々の闘いの歴史に触れないから、評価していないように見える。このような歴史認識は正しいものではない。歴史は陰謀で動くものではない。
 最後の場面で、支店長・浦賀の脅しにもかかわらず、反戦パレードへの参加を表明する陽子を描く。だから、全く評価していないわけではないだろうが、「個人の叛乱」に重点はあるようだ。人々が、平和を築き格闘してきたことを思い至らない者がどうしてパレードへの参加を思い至り、訴えることができるか。「日本に経済成長させて、軍備を買い続けさせてきたこと」が平和の要因と納得した陽子なら、「さらに経済発展させて軍備を買い続けよう」と思うのではないのか?  こんなところは、形象の造形における破綻、脚本家の恣意により勝手にこさえている矛盾が現れている。そしてこのことは、脚本家の悲観的な、浅薄な世界観を表しているようにさえ思う。
 晴彦は個人的に告発した。確かに告発はありうる。告発する人物を設定することに問題はない。こういう人物は貴重であることも確かだ。しかし、実際には、告発した人物は押しつぶされ排除されるだろう。あるいはこのような人物は何度も現れるとしても、その都度押しつぶされ消されるだろう。それが現実というものだ。しかし、脚本家は「個人的な叛乱」に意義を見出している。それが功を奏し効果があるように設定した。これは現実を反映していないと思う。個人的に解決できるかのような幻想を、脚本家は描いた。厳しく言えば、現実の社会がどのようであるか、しっかりとした観察が足りないのであろうと思う。批判はどのようなところに、どのように成立するか、考慮が足りないことの結果だと思う。これが問題の第三

4) 全体として
 さて、厳しすぎるくらい問題点を指摘したが、しかしこの作品が実に刺戟的で意欲的なものであることには違いない。わたしたちの置かれている現代日本と世界の現実、そのなかで戦争を告発し反対していくわれわれの問題点、困難さや悩みを描き出し、考えさせるからだ。劇中に登場する人物と共に、わたしたちは自身の生活のなかで議論を重ね行動していかなくてはならないことを確かに教えてくれているところなどは、やはり貴重だと思うのだ。(文責:児玉 繁信) 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。