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映画「最後の庭の息子たち」を観る [映画・演劇の感想]

映画「最後の庭の息子たち」
ホルへ・サンヒネス監督、ボリビア・ウカマウ集団、2003製作

現代ボリビア社会の都会の青年が直面している現実を描いた2003年の作品。7月23日上映会があり観た。

 「グローバリズムの浸透で、いままでのものとは形を変えた矛盾に取り囲まれながら、青年たちは何をなすべきかを掴めぬままに、ある者はあせり、またある者は事なかれ主義に陥っている。かけがえのない、この土地に住む青年たちに、私たちは、この映画を通して、メッセージを送りたかった」ホルヘ・サンヒネス監督。(チラシから)
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 ボリビアの都市(ラパスか?)に住むフェルナンドは友人の3人をさそい、汚職議員宅から金を盗む。彼らはみな無職の青年たち。運よく成功するが逃げるところがなく、先住民出身のロベルトを頼る。ロベルトを含む5人の青年は、ロベルトの故郷を目指して山道を延々と歩く。貧民ほど都市の外延の高い急な斜面に貼りつくように家々を連ねる。映画は5人が山道を歩く場面を延々と描写する。フェルナンドは義賊気取りで盗んだ金を先住民に分けるつもりであったが、強盗を働いた仲間の二人は自分たちの取り分を要求し対立する。先住民集落では盗んだ金を受け取るかどうか、村人全員が長い時間をかけて議論し、結局受け取らないと決定する。青年たちは金を持って街へ帰り、ちょっとしたスキに、いわばフェルナンドらと同類のコソ泥に盗まれてしまう。フェルナンドが家に帰ると家族は誰もいない。留守にしていた間に銀行が家を差し押さえ、家族は追い出されてしまった。妹と再開するフェルナンド。それまで職探ししていた妹が、今は売春で家族を支えていることを告白し、兄の説く主張が観念的で何の役にも立たないと非難して、画面が終わる。

 ボリビアは白人エリート層、メスティゾ、先住民とはっきりと分離した階級社会。少数の白人エリート層が国家機構を通じてアメリカ政府や多国籍企業と関係をもち、支配する。映画では、汚職議員として描き出されている。民族が階層、階級わけと重なる。1960年代から90年代にかけての反共軍事政権は、1991年のソ連解体以降、解消されたが、開発独裁による債務は膨大な額に達し、軍事政権から「民主化」されたものの、グローバリゼイションという名の現代的資本主義化が進み、債務による支配に取り替わった。ボリビアは膨大な債務に苦しみ、実質、北の巨人アメリカによって支配されている。多国籍企業は利益を生み出す限りでしか産業を成立させない自由主義原則を強要し、基幹産業であったこれまでの鉱山経営を破壊し、社会的影響力を持っていた労働組合を解体した。社会全体に失業が蔓延し、他方医療や福祉、教育、公共サービスなどは削られた。従来の労働組合や民主団体は解体され、人々は対抗する政治的力を失ってしまった。その結果、人々は分断され、悲惨な生活は放置されたままになり、青年はあせるが何をなすべきかつかめない。
 「民主化」されたボリビア、グローバリゼイションと市場原理が貫徹するボリビア社会は、何ら未来を約束することができない。

 この映画は、グローバリズムが現代ボリビア社会に何を生み出しているかを描いている。現代的問題をそのまま取り扱っているところが映画として優れた点だ。日本などの先進国側では、グローバリゼイションが新しい未来社会像であると日々宣伝されるが、決してそうでないことの鮮烈な反論を、厳しくかつある面ではユーモラスな描写で提示する。

 フェルデナンドの祖父は元軍人で、勲章は誇りであるが、家計が苦しいことを考え勲章を金に換えようと決意したらしい。しかしわずか30ペソと言われ、これまでに全人生を否定された気持ちになり、老人は公園で大粒の涙を流して泣くのだ。
 都市は失業者に溢れており、映画は4人とは別の、強盗して金を稼ぐ青年たちの姿も重ねて描く。彼らはつかまってしまう。彼らも「同類なのだ」と作者は主張する。何をなすべきかつかめない青年たちのいくつかの姿を並べて観客に提示する。

 4人の青年がたたどりついた先住民の集落はまったく異質な社会だった。フェルデナンドたちが持ってきた金を受け取るかどうかを、共同体全員が議論する。汚れた金でも共同体を豊かにするため使おうという者がいる。盗んだ金は受け取れぬという者がいる。果てしなき議論の末、二度盗まれた金を受け取らないことを共同体は決定する。
 金を受け取らないと決定したことに驚くとともに、共同体の直接民主主義のやり方にフェルナンドは感心する、そしてそれをロベルトに語る。

 先住民の生活は電気も水道もない、資本主義的に文明化された社会から切り離されて存在している。共同体の直接民主主義は平等に貧しい関係の上に存立している。映画は、現代に対する一つの批判として先住民社会、その社会関係、あるいはアソソエイションを提示する。
 他方、金の分配をめぐって対立したように、わずか4人のフェルデナンドの仲間うちさえ共同した行動をとることができず、直接民主主義のかけらさえ持っていないことが対比的に、あるいは批判的に描写される。
 共同体の直接民主主義は平等に貧しい関係の上に存立しているが、ボリビア社会のなかに根づいているわけではない。「先住民主義」と呼んだところで、それだけでひろがるわけではない。ボリビア社会のどのような関係のなかに、どのように根づいていくのだろうか、と疑問的に提示しているだけだ。ウカマウは解決を示してはいないし、簡単に示すことができるものでもない。

 フェルナンドは現代ラテンアメリカのネフリュードフ(『処女地』)であるかのように描かれている。ウカマウ集団のフェルナンドら青年に対する眼は優しい。

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 話はずいぶんとちがうのだが、戦後日本の民主主義が現在、徐々にかつ確実に削り取られつつある。この映画をみて、われわれの戦後民主主義に直接民主主義の要素が著しく欠けてきたこと、日本人ひとりひとりが自身とまわりの人々との関係のなかで民主主義を自分たちの行動のスタイルとして身につけることが著しく欠けていたこと、それが原因の一つであると痛感している。
 映画とは内容はずいぶんちがうとしても、現代日本において、対抗していく人々の関係をどのようにつくっていったらいいのだろうか、はやりの言葉で言えば、批判的アソシエイションをどのように形成していったらいいのだろうか、今日の右傾化のなかであらためて思うのだ。(文責:児玉 繁信)


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