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加藤 廣 「信長の棺」を評す [読んだ本の感想]

 加藤 廣 「信長の棺」を評す

 評判が高いそうなので読んでみることにした。面白いところもいくつかあるが、やはりこれまでの歴史物の限界を破ってはおらず、それほど優れた作品ではない。失望が残った。

 まず先に、いくつかの優れた点をあげてみよう。
 その第一は、叙述力が巧みなので、読者はつい引きこまれて読みすすめてしまうことである。この点には工夫があって、『信長公記』作者たる太田牛一を主人公とし、牛一の心情を通じて描写するスタイルをとっていることが成功をもたらしており、読者は牛一と共に、同時代人となって「本能寺の変」の真犯人を突きとめる追体験をするのである。作者の意図は、生きた人間のやり取り、闘いを通じて歴史を描き出そうとすることであり、この点ではうまく書かれている。秀吉像の描写などよく描かれており感心した。
 第二は、最近、歴史の事実調べが急速に進んでいるようで、この歴史研究の最新資料と評価をベースにして構成しなおしているところがこの作品の成果の一つであろう。
 それは「本能寺の変」の真犯人が誰かと問うものであり、作者は秀吉が大きく関与したという結論に基づき歴史評価を描き直そうとしている。この点も興味深い。ただし描き出された歴史評価は、欠点や無理も多く、これまでの評価を抜け出ているとは言えず、欠点をそのままくりかえしている。作品の大きな欠点、つまらなさにもつながっている。

 作品の欠点の第一は、「本能寺の変」の真犯人にのみ作者の興味が向いていることである。「本能寺の変」の真犯人をあきらかにすれば歴史評価が変わるとでも思っているのだろうか。犯人が誰であろうと歴史評価のすべてがそのままそっくりひっくり変わるものではないことを、作者が理解していない。即ち、歴史物の持つべき根本的な要素がなんであるかの認識が決定的に欠けている。

 具体的に例をあげよう。
 加藤廣の叙述には、信長が果たした歴史的役割についての評価が明確化されていない。秀吉とて信長の変革の延長上に自身の支配体制を作りあげたが、その基本的な評価がなされていない。信長は楽市楽座などにより商品経済の勃興とその社会的要求をとらえ、それに見合う社会関係の創出し、そして利用し、それまでの役に立たなくなった古い社会関係の破壊を実行した。この基本的な歴史の流れについて何等触れていない。
 加藤廣は秀吉の力の源泉を生野銀山と特定し説明しているが、それはあまりにも部分的で一面的である。秀吉は、戦闘は動員できる兵力・火力によって決まると心得ており、そのための兵站、土木工事を専門的に行う「機械化師団」を備えたより専業的専門的な近代的軍団を、誰よりも先駆けて形成した。「穴掘り」技術のための投資や経営的組織の確立を同時にすすめた。食料弾薬の調達から土木工事資材の調達、諜報活動まで全面的に行う資本主義的、「経営的」組織を形成しはじめていた点で遥かに優れた軍団を形成していた。秀吉が古参の部下を待たなかったことは、石高で示される地主としての地位をそもそも政治的出発から持っていなかった。それゆえ堺の商人らとも関係を持ち、彼らをも儲けさせ、自身の支持基盤とした。政治的代表者をもたない商業資本は信長や秀吉と密接な関係を結び、支持者にもなった。
 応仁の乱から関ケ原までの時期に、日本の農業生産は約二倍となり、余剰生産物は市場を求めて商品経済のより一層の拡大を要求し、資本も集中、集積した。この経済的拡大に呼応した新しい社会層、社会関係の要求を汲み取り、また利用し、信長や秀吉は支配力を獲得した。新しい社会変化を読み取っていたのである。かれらは新しい支配層として登場してきたのであり、彼らもまた農民を弾圧したのも歴史的事実である。

 商品経済、資本主義経済の勃興とこれを利用する新しい組織、社会関係の確立にこそ、信長や秀吉の時代に対する先進的な意味と功績があったのであり、力の源泉であったのだ。これをまずきちんと評価し描かなくてはならない。
 しかし、われわれが発見するのは「歴史は謀略で動く」という間違った観念にとらわれている作者・加藤廣である。このような歴史観にとらわれている限り、いかなる歴史的資料の新発見があろうと正しい歴史評価にはたどりつくことは到底できない。いかに大胆な仮説を提示しても、意義は大きく殺がれる。龍頭蛇尾に終わる。これは根本的な欠点である。

 他の例もあげてみよう。
 太田牛一が信長を慕っている理由の設定である。牛一は信長の文書掛りであったから各地の武将から戦闘記録が送られて来ていたが、当時の日本には各地各様の暦があり、そのすべてが不正確でかつ一致しておらず、実際に用をなさなかった。信長は宣教師たちから当時のグレゴリオ暦が優れていることを知り、朝廷などの旧勢力の反対をも押しのけて強引に導入した。この信長の先進性に心服したとされている。そのように設定しながらも、牛一(および作者)は信長の先進性の深い意味を理解していないし、時代の変化を見とおしているわけではない。牛一が信長を慕う理由がやはり明確に提示されていないし、安易にすませている。作者・加藤廣がなぜこのようなことに興味を示さないのか、不思議でならない。
 私が読む限り、太田著『信長公記』は歴史評価をなすにはほとんど不充分な歴史書であり、多くの箇所で俗物的な彼の評価があふれており、それらをえり分けながら読みすすめなければ読めるものではない。だから主人公にすえた作者の設定には少々無理があるかもしれない。まあ、でも作者・加藤廣には克服可能な立場にある。

 それ以上に不可解なのは、秀吉の野望の根拠である。加藤廣は確かに秀吉像を見事によく描いている。喜怒哀楽が激しく、人を引きつける「魅惑的な」人物の様が生きた姿でよく描かれている。この点は当小説の優れたところではないかと思う。
 しかし、秀吉が信長を倒そうという考えが芽生えるに至った根拠として、朝廷を尊重する秀吉が、信長を批判し離反していったと設定している。
 しかもそれを根拠づけるために、秀吉はもともと丹波に追われた藤原道隆(藤原道長に追われた道長の兄)の子孫であるとの俗説を採用して説明している。このようなものを秀吉なる人物の説明、描写として取り上げるこのセンスは、ひどく間違ったものである。これだけで歴史を描き出す資格を失うようなものだ。アホらしくて読み続けることができなくなる。
 権力獲得後、出自に負い目のある秀吉は、自身が高貴な血筋の出自であるといううわさを意図的に流した。秀吉の得意な「諜報」戦である。ただ、当時の誰もが笑って信用しなかった。そんなうわさを加藤廣は取り上げる。

 「本能寺の変」の真犯人をつきとめる上で、秀吉と牛一の根本的な対立、それを歴史を動かした要因として表現することが可能であったはずだが、そしてそこに歴史物の本当のおもしろさがあるのだと筆者は思っているが、加藤廣はそのようにはしなかった。加藤廣の設定は、歴史を矮小化し歴史のダイナミズム把握を勝手に放棄してしまっている。これは根本的な、どうしようもない欠点である。

 信長が朝廷を軽んじたことを作者は、秀吉と一緒になって、太田牛一と一緒になって、清如上人と一緒になってこれを非難している。これなども本当にばかばかしい。信長は確かに朝廷を軽んじた。しかし軽んじたのは信長ばかりではない。秀吉も家康、あるいは、ほとんどの大名が軽んじた。軽んじただけではなく、自身の勢力拡大に利用した。そのような簡単な歴史的事実を見逃してしまうほど、加藤廣の目は曇っている。歴史を自分勝手な「モラル」で裁断するほど、ばかばかしいことはない。

 丹波者がもともと諜報や穴掘りが得意なのではない。諜報や穴掘りの社会的・軍事的意義を認め、そのための活動に資本を投資し、近代的効率的組織を形成し、古い役に立たない組織・制度を取っ払い新しく創造したからこそ、彼らが力を発揮したのである。丹波者という先祖のつながり(?)がそれをなしたのではない。

 結論は下記の通り。叙述力で読者をわくわくさせるものの、これまでの歴史物の限界を破ってはおらず、むしろひどいもの。(文責:児玉 繁信) 
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追記
 「秀吉の枷」が売れている。同じ話を秀吉の側から描いたもの。売れたものだから、ひとつのトリックで二つの小説を書いてしまう。「柳の下の二匹目のドジョウ」を狙った。
 しかし、結果は売れてしまった。「世の中なんて、甘いもの」と加藤廣が思ったか、思わなかったか。俗っぽい理解で「歴史」を再現する加藤なら、二匹目、三匹目のドジョウを狙うのであろう。


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