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小川洋子「博士の愛した数式」 を評す [読んだ本の感想]

小川洋子「博士の愛した数式」 を評す

 本書は、「認知症」問題を扱っているのだろうか?まずそのように思ったのだ。
 認知症は高齢化社会の現代日本にとって、緊喫の問題である。人道的・人間的に扱わなければならない。しかし、われわれの社会は本当に人道的・人間的に扱えるのか、という問いである。
 多くの高齢者が「周りの者に迷惑をかけないで死にたい」と「思っている」し、そのように発言している。現代日本は不安を抱えて老後を迎えなければならない社会なのだ。わたしたちの社会は認知症を、どのように受け入れていかなくてはならないのか。わたしたちの社会は、一人の人間として扱っていけるか、どのような社会であるべきか、である。介護は?その費用は?

 資本主義社会においては、主要な社会活動は資本の自己増殖サイクルのうえに成立している。資本を自己増殖させない社会活動(すなわち、率直に言って資本家を儲けさせない社会活動)は、そのままでは継続したりひろがったりすることは容易ではない。人道的・人間的に対処するとはまったく別の論理が、存在する。「人間としての尊厳」は、資本の自己増殖運動の論理の枠外にあり、ある場合はこれと相容れず、尊重されない事態が出来する。

 人間の尊厳の根拠を何にもとめたか?  さて作者・小川洋子は、どのように接近したか。まず「乱暴かつ安易に」も、「形象の設定」から「尊厳ある人間として扱え」と主張したのである。

 この小説の第一の特徴は、登場した博士の形象の特殊さ、突飛さにある。「数学という特別な才能」を持つ「博士」が設定される。博士の数学の才能は半端ではなく一流である。「奇をてらった」なのではないか?まずこう疑った。この点に限って言えば、そうではなかった。作者は「博士」なる人物を注意深くつくりあげているし、そのことに作者の主な努力は注がれている。

 読者は「博士」にある愛情を注ぐ。主人公「私」やルートと共に、あるいは導かれて。「博士」なる人物は、威厳のある人物、畏怖さえさせる才能を持つ人物。そのことで作者は、「認知症」におちいった人に対しても、「人間としての尊厳」を尊重し、人道的・人間的に接するように主張しているようである。このような設定にしなければ、「人間としての尊厳」は語れないものなのか?まずそのような疑問と軽い反発を覚える。

 「博士」の才能は、主人公の「私」だけが発見する。これまで家政婦協会から送り込まれた人たちは発見できなかったにもかかわれらず、主人公「私」は九人目にして初めて発見する。読者は当然、自身の感情を「私」のそれに重ねる。

 作品のほとんど終りのほうでは、設定は徐々に変化していく。博士の才能も衰えていく。博士の八〇分記憶能力が徐々に衰えて短くなり、博士の才能は徐々に破壊されていく。その様も小説では描写されている。しかし、「私」と「ルート」の博士に対する心情は少しも変化せず、一〇歳のルートが二二歳になり「博士」が亡くなるまで続く。「私」と「ルート」にとって、博士の人間としての尊厳は永遠に尊重されたままで終わる。博士と彼の「数学の才能」は消えても「博士の愛した数式」は「私」と「ルート」に残る、読者にも残る。博士と互いに交わした心情とともに残る。博士の才能は破壊され、博士自身も破壊していったにもかかわらず、「私」と「ルート」には、博士を尊敬し尊重した心情はこれからもずっと残る。これは著者・小川の描きたかったことなのだろう。
 私は作者のこの心情におおむね同意する。
 でも、疑問は残る。作者のこの心情は、このような特別な設定にしなければ語り得ないものなのか?と。

 博士は確かに興味深い人物である。作者の構想も苦心も工夫もこの一点にかかっている。すなわち博士をどのようにして魅力的な人物に描き出すか、である。
 これは成功しているだろうか?
 いくらか、成功している。なぜならば、「博士」の描写は小説のおもしろさを構成しているし、読者は興味深く読み進めることができる。確かに興味深い人物ではある。どんな人物で、どんな生活をしているのだろうか、われわれの興味はそそられる。描かれている数字や数学をはさんだエピソードは巧みに描かれている。作者がもっとも苦労したところであろう。
 ただ、わたしは数について作者が工夫を重ねた説明は、工夫の割には生きていないと思う。あらかじめオチが準備された完結した小話になってしまい、生きて発展するところがない。これは作者の才能の質、そして欠陥とも関係するのだと思うが、作者の作り出した形象やエピソードは、固定的で生きて変化していくところ、発展していくところがない。数学の小話もそれ自体は完結していて、説明されると面白いのだが、一瞬であって、広がりがない。現実生活との関係、発展がない。こういうふうな観念的なところ、理念から叙述をつくり出してしまって、それで済ませてしまうところは、この作家の良くないところだ。何か勘違いをしている。あるいは、この作家の才能の質を表現している。よくない、貧しい「質」である。

 いくつかの不満も残る。
 数学に特別の才能を持った人物を設定すれば、「尊厳ある人間」として描き出すのは、やや容易である、あるいは読者を「畏怖」させる。小川はあきらかにこの効果を狙っている。これは「安易なやり方」ではないのか?さて、そもそも「人間としての尊厳」は、果たして何から発生するのだろうか?このように問われたとき、この小説は力がないことを暴露してしまう。

 そのことは作者も無意識に感じていて、「博士」に人間的魅力を与えようとした描写を追加している。作者はどうやろうとしたか?
 博士も「ルート」も、阪神タイガースと江夏豊のファンであり、ファンとしての心の交流を通じて、かつまた博士の「ルートを含む子供への愛情」を示す事件を通じて、博士の人間的魅力を表現しようとした。
 これは成功しているか?  あまり成功していない。作者の力のなさを象徴的にあぶりだしている。博士の人間的魅力を表現しようとして持ち出すのが、阪神タイガースと江夏豊のファンだというエピソード。この作家は、人間的交流がどのようなものか、知らないのか?人として本当に交流した経験がないではないのか?世の中に野球ファンが多いことに乗じて、読者ってのは「こんなものだろう」と見定めて、叙述を観念的にひねり出しすませている。作者の観念のなかでのこさえ物で済ませている。この作家のダメなところだ。現実の観察が決定的に足りない。あるいは、作家としての才能に乏しい。

 小説の欠点は下記のところにも現われていると思う。

 まず、認知症、あるいは当小説のような事故や病気による脳の破壊、若年性認知症の問題は果たして小説に描かれているような「スマート」なものだろうか、という疑問である。もっとどん詰まりの、あるいは悲惨な家族の負担、困難をもたらすのが実情であろう。
 人は苦しむ、なぜこうかと苦しむ、自分だけが苦しまなければならないのかと苦しむ。しかし、同時に人は苦しめば苦しむほど、知性的になるのだ(花田清輝)。自身苦しみを、時代の苦しみとしてとらえ、この批判と克服を構想するのだ。そうして人類は「類的性質」を発揮するのだ。というふ風に、作者はとらえるべきであった。    「同時代の苦しみ」にことさら踏み込んでいないように見える。  その現われと言っていいかも知れないのだが、小説が記憶が消える博士=認知症患者に接する「私」から描かれている点である。確かに接する「私」の心情は描かれている。しかし、もっと興味深く、かつまた描くべきなのは博士の心情の描写ではなかろうか?
 博士の心情は、「私」や「ルート」との交流のなかで断片的に知ることはできる。しかし、本当のところこの博士本人は、どのような苦しみを持っていたのだろうか?そして何を思い日々行動し生活し、どのような喜びを持つのだろうか?この根本的な問題はまだ十分には描ききれていないと思う。 まあでも、これらはより小さな不満であって、作者を非難するまでには及ばない。

 「ルート」なる子供を登場させ、博士との関係、交流を描いているが、この「ルート」は、作者の観念的な「つくりもの」であろう。観察と描写が何よりも必要なところで、これをやらずごまかすため子供にした。「中性的な」男の子供にした。こんな子供はいない。女の作家・小川には「男の子供」に対する幻想がある。宮部みゆきなどもよくやる手だ。こういう逃げをやってはならない。
 子供向けの童話を描きたいという人がよくあるが、これは何か勘違いしていると思う。大人向けに描けない者が、子供向けに描けるはずはない。子供向けなら誤魔化してもいいと考えているからそんなことがいえるのだ。これと似ている。「ルート」は作者の分身である。自分の考えたこと、感じたことを、つくりものの男の子の気持として語らせてすましている。ここでも観察不足を露呈している。

 次にあげることなども作者の生きた描写が少ないことの一例である。「私」の一〇歳の息子に博士が名前をつけてくれる。「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルート」。これが博士の言葉として紹介される。また完全数28の説明もそうだ。どれも説明された時点で話がすでに完結している。  それぞれ形象が設定され、命が吹き込まれ、生きて動き出し描写が生きて発展するところがない。これも観察や描写から描くというより、先に理念から叙述するこの作者の傾向が影響しているのだろうと思う。最近の若手芸人の芸のように、5秒に一回笑わせるため、頭にオチをもってくるようなものだ。小説家としては致命的な欠点である。
 しかも先述のように作者の理念によって作られた人物やエピソードが、作者の閉じた認識によって作られており、現実から乖離してしまうのだ。それだから、描かれた世界がチャチなものにしかならないのだ。

 作者は博士と「私」、「ルート」間の人間的交流、心情を描き出したかったのだろう。それを作者は阪神タイガースと江夏豊を通じて描こうとする。これは本物か。あまり本物ではない。えらいこと水で薄まっている。
 この作者は、本当の人間的交流を持ったことがないのではないのか?阪神タイガースと江夏豊も作者の観念によるこさえ物ではないか?こんな描写を重ねるところは、作家としての根本的な欠陥である。

 上記の通りいろいろあるが、結論は次の通り。私は作者の描き出したかった心情におおむね同意する。しかし描き出されている世界が小さくチャチなことに不満を持つ。(文責:児玉 繁信) 


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