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バチェラー八重子『若きウタリに』を読む [読んだ本の感想]

バチェラー八重子『若きウタリに』を読む

バチェラー八重子

 コートをしまいこもうとしたら、岩波現代文庫、バチェラー八重子『若きウタリに』が出てきた。確か昨冬、買い求めた。「セメント樽の中の手紙」みたい。
 バチェラー八重子『若きウタリに』は一九三一年刊行されたもの。二〇〇三年十二月岩波現代文庫で復刊。
 そのなかのいくつかの歌を拾ってみる。

有珠湾に まれに訪ひ来る 雁の群 足もぬらさで 去るぞ悲しき愛でらるる 子より憎まるる 子は育つ などてウタリの 子は育たぬぞ
適度なる 野心家であれ ウタリの子等 欲の無い者 間抜けて見ゆる
死人さへ 名は生きて在る ウタリの子に 誰がつけし名ぞ 亡の子とは
黒けれど 侮りますな あの烏 自由に高く 飛びめぐるなり
石のごと 無言の中に 力あれ ふまるるほどに 放て光を
亡びゆき 一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ
悪人が 父の残せる 家破壊し とく去りゆけと せまりたる日
砂原に 赤く咲きたる ハマナスの 花にも似たる ウタリが娘
オイナカムイ アイヌラックル よく聞かれよ ウタリの数は 少なくなれり
   ※「オイナカムイ アイヌラックル」:アイヌ信仰や神話にある天降つた神、人間の祖神として
     崇敬する神格、「神でありながら、吾々人間のやうだつた人 」

 『若きウタリに』ついて、一九三五年に中野重治が評を書き、本書にも載録されている。中野評「控え帳三」は、本書では『わが読書案内』(一九五五年)に収められたときのタイトル「『若きウタリ』について」とされている。

 八重子は、日本語で、そして短歌形式で書いた。彼女にとっては「異民族」の言語である日本語、「異民族」の文化形式である「短歌」で表現するしかなかった。強制されて、あるいは日本人側から言えば「恩恵」を受けて。当時はこのような形しか受け入れられなかった。中野によれば、異民族風のこの表現手段を突き破っているものが詩としてすぐれている、という。
 中野は留置所で、直前に読んだ八重子の歌を思いだし、「(八重子の中には)熱い鞭のようなものがあった」、あるいは彼女の声には、「抑えつけられたもの反逆の疼きが響いている」と評した。中野が当時の置かれていた状況から批判として立ち上がる彼の問題意識を、八重子の歌のなかに重ねて見出している。それが中野の評に緊張感をあたえ、適確なものにしている。『若きウタリに』のなかに「パルチザンの歌」の芽を、民族の「抵抗文学」の要素を見出した。

 編集者・村井紀は、この文庫の丁寧に解説を書いていて、多くを教えられるが、いくつか気になることもある。歌人・バチェラー八重子の「歌」が、中野に「パルチザンの歌」と定義されたことによって、その後「文学から消去」される一因になり、アイヌ歌人はすべからく「抵抗詩人」という言説の一端を形成したと、中野に対する非難めいたことを述べている。「消去した者」、「形成し排除した者」を批判するのが正当な批判であろうから、そもそも方向が間違っているだろう。不可思議なことを書くものだ。この点は奇妙かつ乱暴な論であり賛成できない。

追記
 八重子は、「幸運にして」、イギリス人宣教師バチェラー夫婦の養子になり、当時の高等教育を受けることができた。もちろん、日本人としての教育である。  また、バチェラー夫妻にともなって、イギリスを訪問したこともある。当時としては珍しい経験をした。英国の図書館で男女が一緒に調べものをする姿を目にし、彼女の「憧れ」を歌に詠んでいる。このような経験や教育を受ける機会を持ったアイヌの人は当時としてはきわめて「まれ」であったろう。
 しかし、それは別の面から言えば、体のいい「人買い」であった。バチェラー夫妻は八重子を引き取り、布教活動の手伝いをさせたのである。八重子の意思によるものではない。
 アイヌとして生まれた八重子は、アイヌ人として育てられはしなかった。その八重子がアイヌの人たちのことを思うのである。
 中野重治が指摘するとおり、短歌というきわめて日本的な文学形式をとって、八重子は表現している、当時の八重子には、日本語による短歌しか許されなかったといっていい。と同時に、八重子はすでに短歌という形でしか表現できなくなっていた。彼女の受けた教育と日本人的生活が、「もはやアイヌでない中間的な」八重子をつくりあげていた。そのことを八重子自身、よく知っていた。  写真にもある通り、日本髪を結っている。アイヌの女は断髪である。  
 このことに八重子は、何か贖罪であるかのような感情を持った。アイヌとして生まれながら自身がすでにアイヌでない悲しみ、アイヌの人たちからひとり離れて安定した生活を送ることへの批判、「罪」と感じるような感情、これらを終生持ち続けている。八重子の歌の底には、アイヌとして生まれながら、もはやアイヌとはいえない八重子の悲しみの心情が流れている。この「悲しみの心情」こそ、彼女のヒューマンな欲求、批判を生み出しているものだ。
 これらが彼女の歌を豊かな魅力あるものにしている。(文責:児玉 繁信) 


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wanwan

掛川源一郎さんという写真家が、
八重子さんの晩年を追いかけた「バチラー八重子の生涯」という
評伝があります。
ステキな本ですので、機会があればぜひ。
by wanwan (2011-04-12 13:19) 

tamashige

 写真家・掛川さんによる評伝「バチラー八重子の生涯」の紹介、ありがとうございます。
 入手し、読むようにいたします。
by tamashige (2011-04-22 12:11) 

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