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靖国神社へ行ってみました(5)--「靖国の大衆化」-- [靖国、愛国心、教育、天皇制]

靖国神社へ行ってみました(5)
-----「靖国の大衆化」----
戦没軍用犬碑

遊就館の展示がきれいにスマートになっていることを、前回書きました。
現代の若い世代に靖国神社もアピールしているのだと思いましたが、そのスマートさは何だろうと、ずっと何か引っかかっていました。

遊就館のスマートさは、街宣車で日の丸の入り軍服もどきを着た右翼青年、戦中世代の老兵士のイメージとも明らかにちがいます。主張は同じでも「ファッション」がちがいます。
展示には戦死の「悲惨さ」は、描かれていません。むしろ隠されています。

対比して、広島の原爆資料館にある「死」の悲惨さ、むごたらしさを思い浮かべました。
ずいぶん前に見ましたが、資料館には、放射線障害による紫の斑点だらけとなった男の身体、黒焦げになり木偶のボウにしか見えない死体、川に浮かんだ腹の膨れた死体群、焼けた皮膚をぼろきれのようにまとった人々、などの姿があったことを思い出しました。

戦死した兵たち、特攻隊で死んだ兵士たちの死も、「悲惨さ、むごたらしさ」においては変わりなかったはずです。渡辺清の『砕かれた神』には、武蔵艦上で米軍機の攻撃により、腹が破れ内臓が飛び出た同僚兵士が泣きながら必死で腹の中に内臓を掻き入れている姿が描写されています。

遊就館展示の意図は何でしょうか?
死の悲惨さ、むごたらしさをあえて描かない意図は何でしょうか?

靖国では、国に捧げた死は「神聖なもの」、「崇高なもの」でなければなりません。そのとき、いつのまにか「国」も神聖なものに転化します。国は、「家族をまもるため」、「郷土をまもるため」、「暮らしをまもるため」として内容を与えられます。しかし実際にはその「国」の後ろに、当時の天皇や日本政府、軍部首脳が隠れています。

死の悲惨さ、むごたらしさを描くことは、死をもたらした者への批判が立ち上がってきます。誰がこのようなむごたらしい死をもたらしたのか?繰り返さないためにはどうしたらいいのか?
当時の天皇や日本政府、軍部首脳への批判が、やはり次に出てくるでしょう。大量殺戮の米軍に対しても批判は立ちのぼってきます。

この認識の流れ・道筋こそ、遊就館展示の意図だと思います。あるいは原爆資料館との違いだと思うのです。


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