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フィリピン戦時性暴力被害者ロラ・リタさんの被害証言 8月5日広島 [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピン戦時性暴力被害者ロラ・リタさんの被害証言 8月5日 広島

皆さんこんにちは。
わたしはイザベリータ・ビヌヤと申します。フィリピンはパンパンガ州カンダバ市マパニケ村からやって来ました。今年73歳になります。
わたしは第二次世界大戦中に旧日本軍によって性奴隷にされた被害者たちの団体、「マラヤロラズ」の代表をしています。「マラヤ」とはタガログ語で「自由」、「ロラ」は「おばあさん」を意味します。
このたびはわたしたちを日本へ招聘くださった団体の皆さん、ありがとうございました。このような機会をもち皆さんにお話できることをうれしく思います。
わたしたちが日本にやってきたのは、ぜひ皆さんに第二次世界大戦中に日本軍によって受けたわたしたちの被害についてお話するためです。

1944年11月23日未明のことでした。日本軍は私たちのマパニケ村を激しく爆撃してきました。爆撃は午前5時から6時ごろまで続きました。日本軍はマパニケ村の隣にあるブラカン州サニルデフォンソからわれわれの村を砲撃したのでした。
爆撃が始まり突然四方で爆弾が破裂する音でわたし目覚めました。日本軍による爆撃でした。わたしは思わず家の床下に逃げ込みました。できればこの爆撃から逃れようと必死でした。爆撃は無差別で、人であれ動物であれ、多くの者を一瞬にして殺してしまいました。
午前6時ごろ爆撃がおさまりますと、そこで日本兵の大声を聞きました。多くの日本兵が村にトラックなどで直接乗り込んできました。兵は600名であったことが後でわかりました。まず日本兵は村にやって来るなり、村の家々を取り囲んでしまい、「ダラケ、ダラケ、ゲリラ」と叫びました。ダラケとは男のことです。男たちを外に出させました。どうやら日本兵は男たちをゲリラとみなし捜しているようでした。

男たちを狩りあつめますとそのまま手を縄で縛り、村の中心部にあった小学校へ連れて行きました。男たちをそれぞれ樹に縛りつけると訊問と拷問をはじめました。そして男たちが拷問を受けている間、日本兵は家々を探し回り家財を奪い、わたしたち女に小学校の別の一角に運ばせました。集められた家財、財産は山と積まれる状態になっていました。それから日本兵は村の家々に火を放ち焼きはじめました。
日本兵はやはり女と子供を狩りあつめ、小学校の校門の前に立たせました。村の男たちがどのような拷問を受けているか目撃させるようにしました。日本兵は目の前でわたしたちの父、夫、兄を痛めつけ苦しめました。

ある者は口に火のついたタバコをなげいれられ苦しめられました。ある者は銃剣で腹を裂かれ、内臓を取り出されていました。ある男の人は自分の性器を切り取られ刻まれ口に押し込められ、無理やりに食べさせられました。わたしたちの仲間であるロラ・アタンさんのお父さんもみなの見ている前で性器を切り取られ口にくわえさせられた一人です。ある者は銃剣で刺し殺されました。それから日本兵は男たちをマシンガンで撃って皆殺しにしました。そのようにして殺された男たちの遺体をまとめて小学校校舎に押し込みますと、校舎に火を放ち、校舎ごと焼き払いました。
これらはすべてわたしたちの目の前で行われました。わたしたちは絶望にくれ、みんな泣いていました。これはまるでわたしたちが悪いことをしたので罰を与えるかと言わんばかりの行為でした。わたしたちはどうしていいかわからず、ただ日本兵の指示に従いました。

村の家々や校舎を焼き払ったと、日本兵は残された女や子供たちに、家財を運ぶように命じました。村から離れたブラカン州デルフォンソにあるバナイプラ(「赤い家」)という地主の屋敷に運ぶように命じました。バナイプラはこの地方の地主の屋敷で当時日本軍は駐屯地として使用していました。
日本兵はわたしたちを屋敷に連行する間、かなり長い距離を歩かせました。このあたりは水田とクリークが広がる地域です。日本兵に監視されておりもちろん逃げることはできません。わたしたちが小川や沼地に足をとられ倒れますと、彼らはわたしたちを蹴り上げ、平手打ちしたり銃座で殴ったりして、無理やりに歩かせました。
わたしたちはそのまま連行されて「赤い家」に連れて行かれました。すでに夕暮れ近くになっていたと思います。日本兵はわたしたちに家財を屋敷の前に置くように命じました。このとき荷物を運ばせるために捕まえてきた村外のフィリピン人男たちとわたしたちを分け、男たちを帰しました。わたしたちもやっと帰れると思いましたが、そうではありませんでした。日本兵は女たちを屋敷や家の中に連れ込み、それからわたしたちの身の上に耐え難い屈辱を加え始めたのです。
わたしは三人の日本兵に手足をつかまれ無理やりに「赤い家」の二階に連れて行かれました。二階にはいくつか部屋がありますが、そのうちの一部屋に連れて行かれると、すでにそこには4人の少女が押し込められていました。そこへわたしも押し込められました。部屋の前には2名の日本兵が立って監視していました。

広島・平和公園で

わたしは日本兵に対し、泣き叫びながら「どうか家に帰して欲しい」、家は焼かれていましたので「親戚のうちに返して欲しい」と泣き叫びました。部屋の隅では他の少女たちも泣いていました。しかし日本兵はわたしたちの願いを聞き入れてくれませんでした。
しばらくするとわたしを連行した三人の日本兵、さらに二人の日本兵が加わって、5人になりました。彼らはまずわたしたちの目の前で食事を始めました。それが終わるとタバコをすい始めました。吸い終わると軍服を脱ぎ始めました。

そのときはすでに日も暮れており、部屋にはランプが一つありました。そのランプを消したのが合図でした。いきなり日本兵はわたしたちに襲いかかりました。兵士たちはそれぞれ少女を連れて部屋の隅に散り散りなり場所を確保すると、各自少女に対してレイプを始めました。
わたしたちは大きな声を上げ、足をばたつかせて抵抗しましたが、彼らは聞きいれてくれませんでした。わたしはそのとき14歳でしたので性交渉の経験はありませんでした。レイプされたとき大変恐ろしく手足をばたつかせて思いっきり抵抗しました。わたしをつかまえた日本兵は、抵抗すると腹部を思いっきり蹴りました。足や太ももをひどく殴りました。わたしはたまらず彼らの暴力に屈して、一枚ずつ衣服をはがされ、彼らによってレイプされました。わたしは人間としての尊厳を著しく傷つけられました。守ろうとしたものが暴力によって奪われました。その一晩、日本兵たちによってレイプが続けられました。彼らはわたしたちを人間ではなく動物のように扱いました。
他の女性たちも同様でした。泣き叫ぶ声が聞こえました。これは屈辱的な出来事でしたが、わたしたちはこのようにしてその夜をすごしたのです。

彼らは食べ物も水一滴も与えてくれませんでした。朝から何も口にしていませんでしたから空腹を感じていました。もっとも飢え渇きよりも、そのときはこのまま殺して欲しいと思っていました。わたしの屈辱は、空腹と渇きとともに鮮明な記憶として残っています。
翌朝、日本兵によってわたしたちは釈放されました。日本兵は「帰れ」と手のしぐさで示しました。しかし、わたしはどこへ帰ったらよかったのでしょうか。この時、わたしは絶望しほとんど放心した状態でした。

すでにその時、わたしたちの村、マパニケは焼きつくされ、人っ子一人いない灰だけが残る村になっていたのです。わたしは極限状態にありました。強烈な飢えと渇きが襲ってきました。また日本兵に乱暴された身体を突き抜けるような強い痛みがありました。
わたしは「赤い家」から少しでも離れようとしました。結局自分の家の跡を目指して歩いたのですが、非常に苦労しました。何度も立ち止まり座り込み、泣いていました。
どこへ帰ったらいいのか、家はもう焼き払われていましたので、目的もなくさまよい歩いていました。食べ物はありませんでした。収穫も日本兵が奪っていましたから、これから何を食べていこうか考えさせられました。

わたしは結局、村の近くにあった森の中に避難することにしました。日本兵に再度見つかることを恐れたのです。そこで五日間、日本兵を避けるようにじっとしていました。近くの小川で渇きを癒しました。食べ物はほとんど食べていません。
その間、わたしは知り合いに出会いました。彼によるとわたしの父と兄は、日本兵によってサンミゲルというブラカン州の隣町ですが、日本軍の駐屯地に連行されたということを知りました。
わたしはその駐屯地に行き、父と兄に再会しました。生きていたのです。しかし激しい拷問を受けていました。

父は体中を殴られ、また縄で強く縛られた傷で身動きできませんでした。それ以上に、顔に服をかぶせて少しずつ水をたらす拷問、水攻めと言うのでしょうか、これを受けていましたので、肺に水がたまり非常に苦しそうでした。父は釈放されましたが、その後、肺に水がたまる病気になり回復しませんでした。父はしばらく生きていましたが、戦後すぐに肺に水がたまったまま苦しみ続けて、亡くなりました。
兄もまた身体を殴りつけられ、神経が麻痺していましたし、肩が陥没していました。顔をひどく殴られ、歯はほとんどが折れてなくなっていました。肩の筋肉が障害を受け不自由な身体になりました。

わたしの経験したこの受難を、わたしは決して忘れることはありません。日本兵はわたしたちマパニケ村の男たちを傷めつくし殺しつくしました。そして女たちを辱めました。この痛みは口であらわしつくすことができません。今も胸が痛みます。
わたしはこの受難を被害に対する正義を回復するために名乗りでました。何も言わず、証言などせずに死んでいった父や兄、マパニケのすべての男たちや女たちの無念を思ったからです。日本政府に対する怒りは弱まるものではありません。現在もなお、日本政府に対する怒りを抱いて生きています。


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