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フィリピン 戦時性暴力被害者 ロラ・キナンさん、被害証言 [フィリピン元「慰安婦」]


フィリピン 戦時性暴力被害者 ロラ・キナンさん、被害証言8月3日 
三鷹・ロラ交流会での証言

わたしはセフェリナ・トウラです。皆はキナンと呼びます。ロラ・リタと同じ、パンパンガ州カンダバ市マパニケ村からやってきました。わたしが日本軍による攻撃と被害を受けたのは、1944年11月23日のことでした。当時わたしは15歳でした。わたしの体験は次のようなものです。
11月23日未明の爆撃が始まりますと、わたしは家族と一緒に、いち早く家近くの小川に逃げました。そして爆撃がやみますと、ようやくわたしたちは小川から家のあったところを目指しました。というのは、祖母と姉二人を残して逃げたからです。家のあった跡に戻ってみますと、わたしたちは非常な衝撃を受けました。祖母は爆撃の直撃をうけ、すでに単なる肉片に変わっていました。姉二人も直撃を受け、すでに人の形を残していませんでした。わたしと母は無事でしたが、そのような状況を前にして、わたしたち家族は大変なショックを受け、また嘆き悲しみました。
そうしているところに日本兵がやってきました。母とわたしは肉片に近い遺体となった祖母と姉の前にたたずみ嘆き悲しんでいました。わたしたちはその場を去りたくなかったのでしたが、日本兵はわたしたちを見つけると腕をつかみ、そのまま近くの小学校に無理やりに連行していきました。
小学校では集められた男たちが拷問を受けていました。殺された男たちは小学校に押し込められ、校舎とともに焼かれました。
そのあとわたしと母はそのまま「赤い家」に連れて行かれました。連れて行かれると、わたしと母は同じ部屋で複数の日本兵に同時にレイプされたのでした。わたしたちは叫び声をあげ、助けを求めましたが、日本兵はそのままかまわずレイプし続けました。母とわたしをレイプしたのは三人の日本兵です。
 フィリピン パンパンガ州「赤い家」

わたしは当時まだ15歳ということもあり、日本兵にレイプされると体中が血まみれになってしまいました。その姿に自身で驚き、母に助けを求めました。「母さん、こんなに血まみれになった」と。泣いて助けを求めますと、母はわたしの姿をみて非常に驚き、周りの日本兵に「わたしの娘はこんなふうになってしまった」と大声を上げて叫び続けました。
大変長い、そしてつらい一日でした。今でも鮮明に覚えています。忘れることができません。
翌朝、わたしと母は二人でその場を抜け出し脱出することができました。すぐに家には戻らず近くの森に逃げ込みました。家に帰れば再び日本兵に見つけられると思ったからです。そこで三日間とどまり、日本兵の追及を逃れ隠れていました。三日後ようやく母とわたしは、家のあった場所に戻りました。
祖母の遺体は肉片なっていましたが、姉二人の遺体は残っているだろうと思い、せめて遺体をきちんと埋葬しようとしたのです。しかし、遺体らしきものは残っていませんでした。その時わかったのですが、当時村には野犬が多くおり、姉や祖母の遺体は野犬に食べられてしまったのです。わたしたちはこのことに非常なショック受けたのでした。当時のわたしの気持ちを想像していただけるでしょうか。

わたしは当時のことを思い出すと、今でも大変苦しい気持ちになりますので、普段話しをすることはほとんどありません。しかし、今回は皆さんに本当のこと、事実を知っていただきたいと思い、何とかがんばって話しました。
わたしたちは戦争による被害のせいで、戦後も生きていくこと自体が非常に困難でした。15歳で家族と家を焼かれました。生きていくのが精一杯でした。十分な教育を受けることはできませんでした。満足に字もかけないような少女時代を過ごしました。しかし、わたしに証言は決してうそではありません。本当のことです。皆さんにぜひ知っていただきたい。そして被害をうけたマパニケの女たちがいた事実を記憶と記録にとどめて欲しいのです。わたしたちの正義を回復する闘いに、ぜひ皆さんの理解と支援をお願いしたいのです。そういう思いで証言させていただきました。


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