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ノモンハン桜はどこへ行った(3) ノモンハン戦争 [ノモンハン旅行]


ハルハ河とコマツ台地

ノモンハン桜はどこへ行った(3)
ノモンハン戦争

ノモンハン戦争は、日本軍の敗北だった。とともに日本陸軍はこの敗北を隠した。ノモンハン戦争は日本陸軍が遭遇した初めての大がかりな近代戦であった。
ほとんど遮蔽物のない広大なモンゴル平原においては、戦闘は投入する火力の勝負で決まる。強力な火砲と戦車、航空機戦力、そしてそれら戦力の連携的な集中的な動員、すなわち兵站と輸送力がこの勝敗を分ける。対抗する日本陸軍の戦術は、夜襲と白兵戦のみである。

当初、日本軍は制空権を支配していた。しかし、ソ連空軍が次々に増強されるのに対し、日本陸軍の航空機は消耗するばかりで補給されず、やがて制空権もソ連側に移った。
関東軍は虎の子の戦車師団を投入した。安岡戦車隊ある。戦車そのものの性能は、戦車砲の性能、甲板の防御性能においてソ連軍戦車に格段に劣っていた。戦闘で戦車隊の半分近くが損耗する事態になり、虎の子の戦車師団が全滅する事態を恐れて、逆に戦車隊を引き上げさせた。戦車隊は広大な草原での陣地戦において不可欠の戦力である。これを引き上げさせたのである。

ノモンハン戦争において、日本軍はソ連・モンゴル軍の圧倒的な火力の前に壊滅的な敗北を喫した。主力である第23師団は75%にも及ぶ損耗をこうむった。75%とは戦闘に参加しなかった人員をも含めての損耗率であり、実際の戦闘に参加した師団員だけからすれば90%にも及ぶ壊滅的被害を受けた。通常30%の損耗を受けると部隊としては機能しないと言われているから、いかに壊滅的敗北であったかが明白であろう。
この結果、ソ連・モンゴル側の主張する国境線が画定し、このあと関東軍はソ連・モンゴルに戦闘をしかけることはなかった。日本兵はノモンハン戦争で18000人以上戦死したが何のために死んだかまったくわからない。

日本陸軍はノモンハンの敗北の教訓を汲み取らなかった。まず、敗北自体を隠した。ノモンハンでの敗北は軍事機密とされ、ノモンハンについて語ることは禁じられた。生き残った兵たちは内地に帰ることはなく、さらに激戦地に送られた。敗北の原因は装備や戦略の前近代性にあることが明白であるにもかかわらず、公的に認められることはなかったし、対応策はとられなかった。もっとも装備の前近代性の克服は、最終的には経済力、生産力に依存しているから、簡単に克服できるものではない。作戦の非近代性はまったく省みられなかったし、批判さえされなかった。「作戦はすばらしかったが、兵が弱かった」というのである。それどころか、参謀である辻政信はこの後もガダルカナルやインパール作戦を立て、同じ敗北と犠牲を繰り返した。日本陸軍の参謀は敗戦の責任を負う必要はないのである。
ノモンハンでの敗北の教訓はなんら省みられることなく、第二次世界大戦、米国との戦争に突入する。


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