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ノモンハン桜はどこへ行った(2) 「ノモンハン戦争」 [ノモンハン旅行]


ノモンハン戦場跡にて 不発弾

ノモンハン桜はどこへ行った(2)
「ノモンハン事件」と「ハルハ河戦争」

 ノモンハンはホロンバイル平原の南端、中国とモンゴルの国境に近い集落である。ノモンハン村は戦後になってできた。現在は300人ほどが住む。戦前は集落などなく遊牧民の夏の遊営地のひとつであり、夏のあいだゲルがいくつかあっただけであった。地図にも載っていなかった。
 日本では「ノモンハン事件」と呼ぶが、ソ連・モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ぶ。正式に戦線布告していないから、事件あるいは事変なのである。「支邦科事変」とおなじである。「戦争にあらず、事変と称す」。  関東軍・満州国はハルハ河を国境と主張し、ソ連・モンゴル側は、ハルハ河東方10kmから20kmを国境と主張した。しかも、関東軍がハルハ河を国境と主張しはじめたのは、昭和10年くらいからである。

 関東軍は、自身の主張する国境線であるハルハ河を、モンゴル騎兵軍が馬に水を飲ませるために越えたことをもって越境があったとし、攻撃をはじめたのである。脅威があったわけではない。関東軍が仕掛けたのだ。しかも、日本の国境ではない、属国・満州国の国境なのだ。

 そもそも平坦な草原である。国境線が10km、20km動いたからといって、経済的にも社会的にもほとんど意味をなさない。遊牧民は馬や羊とともに国境を越えて自由に行き来していたのである。参戦した兵士のほとんどがモグラしか住まない土地だと言い、戦友は何のために戦い犠牲になったのかと述懐している。

 この戦争の原因は、日本軍の陰謀的な戦略によっている。これを体現したのが関東軍の参謀である。モンゴルからチタを占領しバイカル湖南端のイルクーツクにいたり、シベリア東半分を切り取ろうという8号作戦を構想した。この構想にとって国境線の主張の違いは格好の口実である。
 「ノモンハン戦争」はその手始めであった。日本軍による国境線変更の主張は、この作戦のための言いがかりとなった。辻政信や服部卓四郎らの妄想がこれを作りあげた。しかし決して辻らの個人の突発的な作戦ではない。戦前の日本の侵略的体質のなかでは、より冒険主義的な戦略を提示すればするほど、そのことによって陸軍内で、さらには日本政府内で有力な地位を占めることができたのである。それまで、また事件後も同じ行動様式で日本陸軍内の地位と主導権を獲得してきた経過がある。石原莞爾しかり、武藤章しかり、関東軍全体がしかりである。歴史全体を総括してみれば、このような冒険主義的高級軍人が次から次へと生まれてくるのは、戦前の日本の侵略的体質がつくりだした結果といえるであろう。

 8号作戦の構想はこのように日本陸軍内の主導権を得るという内向きの性格を多く持っていた。関東軍の高級軍人はこれを実行する現実的な戦略も軍備もたなかったし、参謀は彼我の軍事力を測る力も作戦能力も持たなかった。唯一持っていたのは、大言壮語し人に責任を押しつける能力でる。ジューコフが言うとおり、高級軍人はまったく無能であった。
 「ノモンハン戦争」は日本軍が遭遇した始めての近代戦であった。ノモンハンでの敗北は、日本陸軍が装備においても戦略・戦術においても前近代的軍隊であることを白日のもとに曝した。
 しかし日本軍上層部はそれを隠し続けた、教訓を汲みとることもしなかった。


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