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マーク・トウェイン『アダムとイブの日記』(1893年)を読む [読んだ本の感想]

マーク・トウェイン『アダムとイブの日記』(1893年)を読む

 コロナ禍で出かけることが少なくなり、Web上での読者会もあって、おかげで本を読む時間が増えた。
 マーク・トウェイン(1835-1910)の『アダムとイブの日記』(1893年)を読む機会があった。

 『アダムとイブの日記』が書かれた19世紀末のアメリカは、農業社会から産業社会化し、富も蓄積し、欧州の影響から独立しつつあった。


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<マーク・トウェイン『アダムとイブの日記』大久保博 訳(河出文庫、2020年1月30日発行)>

1)「エデンの園」を追放されたあと、アダムとイブは何を考え、どのように暮らしたか?

 アダムとイヴが神によって「エデンの園」を追放された後に、『アダムとイブの日記』があったとマーク・トウェインが設定して、日記の叙述を始めている。平易な文章とユーモラスな描写がおもしろい。

 アダムとイブの暮らしには、ミシシッピ河やナイアガラの滝も出てくるし、アダムがバッファローの狩りに出かけたという叙述もあるから、このアダムとイブは、北米のアメリカ人(おそらく白人)であるらしい。マーク・トウェインにとって聖書の厳密な描写などどうでもいいらしくて、「エデンの園」を追放されたあと、アダムとイブがどのように暮らしたか? 自分の頭で何を考えたか?(=当時のアメリカ人ならどのように想定するか?)にもっぱら興味があるようなのだ。

2)「アダムの日記、イブの日記」の叙述から

 日記の叙述の一部を拾ってみる。

 アダム(の日記)によれば、
「・・・・・・イブがやってきた時、邪魔だと思った。いつでも後をつけてくるし、何でも手あたりしだいに名前をつけてしまう。追い出そうとすると、穴(目)から水(涙)を出し、大きな声をあげる。・・・・しかもしょちゅうペチャクチャやっている。・・・・・・・そんなイブが林檎をいくつか持ってきたので、食べた。・・・・・・・
・・・・・・・・

 何年かそんな暮らしをしているうちに、
「・・・・・彼女は連れとして立派な存在だと思うようになった。彼女がいなければきっと寂しい思いをし、気が滅入ってしまうだろう。・・・・・・・カインやアベル(息子たち)がやってきて、何年かを送った・・・・・。今になってみると、エデンの園の外にあっても彼女と一緒に住む方が、エデンの園のなかで彼女なしに住むよりはいい。・・・・」
と書くようになっている。

 イブ(の日記)によれば、
「・・・・アダムの後につきまとって知り合いになろうとして、おしゃべりをした。彼の様子を見てみると、わたしがそばにいるのを喜んでいるようだった。・・・・・わたしは物に名前をつける仕事を引き受けて、彼の手をわずらわせないようにした。彼はどうやら大いに感謝しているらしいのだ。
・・・・・・・・・・・・・・」

 日記の終りのほうで
 「・・・・ふりかえってみると、「園」はもうわたしには夢でしかない。それは美しかった。「園」は失われた。でもわたしは彼を見出した。そして満足している。・・・・・彼はわたしを精いっぱい愛してくれる。わたしもちからいっぱい彼を愛してる。自分でもその理由がわからない。・・・」
と書いている。

**************

 マーク・トウェインは、アダムとイブのやりとりのなかに、今でもありがちなそれぞれの勝手な思い込みも描き入れていて、つい笑ってしまうところもある。全体として平易でユーモラスな叙述が続く。

 そういった叙述のなかで、エデンの園を出た後のアダムとイブはどんな暮らしを送り、それぞれ何を考え、二人の関係がどのように変わったかを描き出している。自然な、順直な変化であること、二人にとっては成長である、しかもその成長は神がもたらしたのではなく二人が自分たちで得たものだと、描き出しているようなのだ。それはマーク・トウェインの考えである。

3)マーク・トウェインの実際的な考え方

 神が禁じていた木の実をアダムとイヴがとって食べた途端、目が開き互いに裸であることを知り、「恥ずかしい」という感情が沸き上がってきた。これまで持ち合わせていなかった「感情」だ。そこでイチジクの葉で身を隠す。

 ということは、神はアダムとイヴに自分でものを考えることを禁じていたことになる。自分で考えるとは、知恵がついたということだろう。しかし、「自分で考える、知恵がついた」ということは、造物主である神の意図に対する干渉であり、反逆となりかねないらしいのだ(訳者・大久保博が解説でそのように書いている)。

 自分の力でものを考えない、神の指示どおり生きるのが「エデンの園」の掟だとすれば、それは楽園とはいえない、人形か奴隷の社会ではないか、という考えも浮かんでくる。

 マーク・トウェインは、「エデンの園」からの追放を「転落」であると書いているものの、彼の描くアダムとイブは、楽園からの追放をもはや後悔してもいなければ、後戻りしたいとも思っていない。神の存在は、アダムとイヴにとって少しずつ「薄れ」つつあり、不要になりつつある様子が叙述される。

 表立って神や宗教を批判してはいないが、マーク・トウェインは、神や宗教からの「自立」を主張していると解釈することもできそうだ。彼の描き出すアダムもイブも「エデンの園」にはもはや興味がない。神の影響が薄まったところに、自分でものを考え自らの意思で行動するところに、人々の幸福が存在すると主張しているようなのだ。そこにヒューマニスティックな価値を見出しているようでもある。

 マーク・トウェインのこの考えは、宗教に対する「原理的で理論的な批判」ではないけれど、産業社会が発達しつつあった19世紀末当時のアメリカ社会のなかで生じた「実際的な考え方」、プラグマティックな考えでもある。
 ヨーロッパから自立し自身の道を歩みつつあった当時のアメリカ人の問題意識であり、ある種の自信のようなものもそこにあるようなのだ。


追記:『アダムとイブの日記』(大久保博 訳)は2020年1月30日に河出書房から河出文庫として、新たに発行された。(文責:児玉繁信)





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