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「安野 中国人受難之碑」建立10周年 [現代日本の世相]

 「安野 中国人受難之碑」建立10周年

 少し遅くなりましたが、10月17日、中国人受難の碑建立10終焉集会、10月28日、安野の「受難之碑」前での追悼会のことを報告します。




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<10月17日、講演する内田雅敏弁護士>

 10月17日(土)「安野 中国人受難之碑」建立10周年の集まりが、広島弁護士会館であった。

 あらためて和解成立までの歴史をたどり返してみると、いかに多くの人の努力が注がれまた協力があって、実現したかがわかる。日本政府・外務省が中国人の強制連行を認めない立場をとり、解決の障害になってきた。この障害を突き崩すため被害者・遺族と連絡をとり、裁判に訴え地裁で敗訴し控訴、高裁で逆転勝訴、その末である最高裁判決での敗訴にまで至ったものの、その「付言」を手がかりに「和解による解決」にたどり着いたその過程は、まるでドラマのようなのだ。日本の市民運動が中国の被害者・遺族とともに勝ちとったものだ。

 「受難の碑」は、こういった人々の努力と被害者・遺族との和解が詰まった「結晶」として、まさに安野の地に立っているとしか言いようがない、そのように思う。

 今年はコロナ禍で中国から遺族は参加できなかったそうだが、碑建立から10周年であり、これまでの闘いを今一度思い起こし、被害者・遺族との和解、追悼事業を継承していくことを、参加者はみな考えたのではないかろうか。

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<10月18日、中国人受難之碑前での追悼の会>

 10月18日(日)には、安芸太田町、中国電力安野発電所にある「中国人受難之碑」前で「祈念の集い」があり参加した。太田川を30㎞ほどさかのぼった中流域に位置する。

 当日は、晴れておりここちよい風が流れていた。「受難之碑」は少し高いところにあって、太田川沿いの坪野の集落を見渡せる。山あいの集落の神社の森には祭りの旗がなびき、日曜だからか野菜市も立つ。山はまだ紅葉していない。碑の背後には、落水式発電の太い導管が山肌に沿って屹立していて、導管のなかを水が踊り落ちタービンを廻す音が聞こえる。中国人労働者が掘った導水トンネルは今もなお使われており、この瞬間もなお生きて発電し続けている。

 碑の前での祈念のつどいなかで述べられた「継承する会」の足立弁護士や安芸太田町長ら皆さんの追悼の言葉は、かすかな風や水の音と、二胡のゆるやかな音色のなかに包まれて流れてくるのである。「受難之碑」も追悼もこの地に受け入れられ溶け込んでいるかのようだ。

 続いて近くの善福寺で法要があり、藤井住職は追悼や日中友好を通じて人々のつながりを深めていければ、と語られた。安野に強制連行された中国人360人のうち29人が日本で亡くなったが、善福寺ではそのうちの5人の遺骨を預かり弔ってきた、という。西松安野和解事業として2017年天津で行われた追悼に住職も参加され、遺骨は今では天津の記念館に安置されていることも話もされた。

 地元に住む当時中学生だった栗栖さんは、中国人たちが毎日、家の前を歩いて工事現場まで通う姿を目にしたという。44年夏、連れて来られた当初は「イー、アル、サン・・・」元気よくと掛け声をかけて通ったが、11月にもなると声から元気は消えた、十分に食べていなかったのだ、衣服は夏服の「着のみ着のまま」で、工事トンネル内にあふれる水で濡れ、さぞ寒かったろう、と証言された。

 アジア太平洋戦争末期に日本政府の国策によって多くの中国人が強制連行され過酷な労働に従事させられ、多くの人が亡くなった、こういう歴史の事実を忘れることなく継承し、被害者を追悼していくことを通して、日本の人々のあいだで、また中国の人とのあいだで、心のつながりを深めていく活動を続けていければ、と思った。安野の発電所がいまもなお生きて発電し続けているようにだ。

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<受難之碑の裏側にある安野落水式発電所の導管>







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