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反核運動のリーダーたちが、KPDバタアンのリーダーとして [フィリピンの政治経済状況]

バタアン労働組合連合のエミリーから、反核バタアン運動がバタアン原発を停止させたあと、さらに発展して環境問題に取り組んでいる、さらには様々な社会的課題にも取り組むようになったという報告が寄せられています。

 フィリピンの人びとの運動は、フィリピン政府や軍による政治的暗殺や、厳しい弾圧で長い間圧殺されてきました。軍による労働組合リーダー、人権活動家、ジャーナリスト、弁護士など多数の人々が暗殺されてきました。他方、1990年代はじめにフィリピン共産党が分裂し対立し、その結果で左翼運動全体が分裂・分断してしまい、一方で左翼運動に対する人々の信頼は失われ、他方で人々の自主的な運動、政治的活動がなかなか発展することができませんでした。この影響はいまだに残存しています。

 そのようななか、眼の前の課題に対し、徐々に団結し活動することができるようになりつつあるバタアン地方の一例が、報告されています。
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 反核運動のリーダーたちが、KPDバタアンのリーダーとして戻ってきました

 2009年、反核バタアン運動のリーダーたちが戻ってきました。もともとは、統一したバタアン原発反対運動を基礎として活動しはじめ、今では、地方全体のすべての環境問題にかかわる運動連携のリーダーとして登場してきています。反原発運動から、石炭火力発電所反対運動として発展してきています。さらにはこの先起こるであろう様々な問題に対しても同じように運動は組織されるでしょう。

 環境問題での運動を基礎にしながら、リーダーたち(その多くは中流階級です、例えば聖職者、弁護士、先生、基本的なセクター ― 労働者、農民、女性その他)が、わが国の政治的経済的状況に対して政治的に目覚め、行動しはじめています。バタアンにおける政治的組織の復活が必要であることも理解されはじめており、KPDバタアンがその担い手、受け皿になっています。
 振り返るなら、2000年前半に、KPDバタアンは設立されました。バタアン労働組合連合であるアンバ・バーラもこれに属していましたし、農民漁民や女性、都市貧民の組織も構成団体でした。しかし、アロヨ政権の時代には、政治団体に対する厳しい弾圧やリーダーへの政治的殺害などが行われました。ここバタアンでも女性運動のリーダーであるキャシー・アルカンタラさんが暗殺されました。その結果、バタアンKPDは徐々にその活動する場を奪われ、組織も弱くなっていきました。

 今日では、ダンテ・イラヤ弁護士が、バタアンKPDの議長として名乗り、私たちの政治団体のために彼の自由時間を費やしてくれています。幸いにも2人の聖職者が、 反核バタアン運動に参加し代表的なメンバーとして名を連ね、反原発運動だけでなくこの地方の環境問題のために、最高の貢献をしてくれています。
 しかし、議会に提出されている中絶法案(Reproductive Health法案)について、聖職者・教会と私たちの考えは、まったく同じではありません。この問題のもたらす混乱を恐れ、会議でまだ取り上げられていません。女性団体カイサカ・バタアンは、この議案に賛成していますが、KPDバタアンではまだ論議していません。

 KPDバタアンは10名の代表を、11月25,26,27日の第3回カイサカ総会と、11月28,29,30日のKPD総会に、送ります。
 来年始めまでには、KPDバタアンのバタアン地方変革プログラム(Provincial Chapter of KPD)ができあがるだろうと期待しています。少しずつ運動はひろがっています。デリク・カベさんを覚えていますでしょうか、環境のための連帯行動のメンバーとして働いています。以前は教員組合全国オルガナイザーをしていました。彼女は今KPDバタアンのメンバーとして一緒に働いています。私もうれしいことにその一員として活動しています。

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