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「日本を捨てた男たち」 を読む [読んだ本の感想]

「日本を捨てた男たち」 を読む
 
水谷竹秀著 集英社 2011年11月30日発行

 
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 著者は日刊「まにら新聞」記者。取材に当たりマニラの日本大使館や近くの「結婚手続き代行事務所」を何度か訪れている。水谷記者を直接には知らないが「まにら新聞」は知っている、また日本大使館近くの様子や「結婚手続き代行事務所」の日本人スタッフを何人か知っている、そんな私たちにとっては、叙述の風景がいくつか目に浮かび何かしら近しい思いすら浮かぶ。

 本書はフィリピンの「困窮邦人」のレポートであり、現実を直視したリアルな叙述に特徴がある。フィリピンのことを語ると、つい何かしら面白おかしく伝えがちだし、聞く者に受け入れやすいようにある種のサービス精神を発揮してしまい表面づらの紹介に終わってしまうことも多々あるけれど、本書はそんな「甘さ」「いいかげんさ」を突き抜けている。

 「日本を捨てた男たち」は、フィリピンでホームレスになっている困窮邦人数人に対するインタビューをもとにしている。海外の困窮邦人の半数はフィリピンにいるそうで、「居やすい」らしい。著者は、フィリピン人が困窮邦人に親切に接する事例に突き当たる。どうしてだろうかと問いかける。この「秘密」を探ろうと書きはじめた。

 もっともホームレスになっている邦人であれば、インタビューしても本当のことを言うはずもない。仮に当人が本当のことを語ったとしても、真実とは限らない。著者もそのことはよく自覚していて、裏を取ろうと日本の親族を訪ねてもいる。親族の様子のほうが衝撃的なことさえある。この二つを合わせてはじめて日本を捨てフィリピンに逃げた男たちの実情が厚みと重みを持って現れてくる。

 フィリピン人はあっけらかんとしていてよくしゃべりよく笑いよく泣きよく怒る。考えてみればそのほうがむしろ当たり前だ。フィリピン人は人を「見かけ」や社会的地位で差別したり態度を変えたりしない。
 もっとも、フィリピンではすべてが理想的なのではない。ノープロブレムといいながら問題だらけだし、何度も手違いや失敗があってなかなか思う通りすすまない。決していいことばかりではない、それどころか貧困層が膨大に存在し、社会は問題だらけである。(著者はフィリピン社会とフィリピン人に対して好意的であってあまり批判的ではない。)

 その中で人々は生きている。何しろ失業者だらけなので失業しても人間関係を失うことはない。フィリピンの「密度の濃い」家族や人間関係は、そうでなければ生きてゆけない事情から来ている。また教会やNPOとかいろんな団体、人々の連合体が多い。もちろん人間関係があったって、貧困が解決できるわけではない。フィリピン人、フィリピン社会は決して「理想の姿」ではない。ただここでは孤立しない、人間が簡単に壊れない、居場所がなくなることはない、貧困に対抗して行く連合体がある、そう言っているのである。強引に解釈すれば、対抗する人々の連合体がなければ、人々はイキイキと生きていけない、当面する現状を認識し批判し告発できないと言っているようなのである。

 中高年の男が、小金さえあればフィリピンではチヤホヤされるのは「滑稽なこと」でもある、もちろん小金がなくなれば捨てられる。それはどこでも同じだ。ただ、日本の家族や人間関係を捨てフィリピン女性に「はまる」に至るのは、それまで居場所のなかった、あるいは希薄だったからでもある。
 日本ではずうっと「粗末に」扱われてきた、そもそもチヤホヤされたことさえなかった、濃密な人間関係を持ったことがなかった。処世上の表面的な関係は持ってきたものの、どんな人とも関係を持って何とかしていこうという経験はなかった。むしろ「余計な関係」はムダとして削ってきた。
 「人間関係は必要がないので捨ててしまったら、自分自身を失った、そしたら居場所もなくなっていた」のである。

 著者は「自己責任」ではなかろうか?と何度も問い返す。困窮邦人と接していると必ず投げかけられる言葉なのであろう。登場するホームレスの中には、到底誰も相手にしないだろうと思われる人物も確かにいる。ネットでこの本の評判をざっと見たが、「自己責任だ、甘えるな!」と困窮邦人個人と著者の同情的な態度を非難する論調ばかりだった。明らかに著者はそんな声を意識している。
 
 なぜ男たちは日本社会に居場所がないのか?
 日本では仕事を失うと、あるいは収入を失うと、人として扱われない現実が存在する、人間関係も同時に失う。現代日本社会では学校教育も、家族も地域社会も、よい学校大学を卒業し安定した職、収入・地位に就くことを目的としたシステムとして自発的に変化し、それ以外の機能はムリムダムラとしてそぎ落としてきた。そのことは他方で、仕事を失った時の手立ては準備されず、逆に失業者を排除する社会関係ができ上がることになった。別の言い方をすれば、対抗する人々の既存の連合体は力を失い消えていき、新しい連合体は形成されてこなかった。

 著者は、「日本を捨てた困窮邦人」は若年世代の「引きこもり」と同質の現象でもあると指摘する。生きにくい、息苦しさを感じている点では同じというのだ。適確な指摘だろう。最近は「外こもり」というのもあるらしい。日本でバイトして、その金で3カ月とか半年とかをタイで暮らす若者が存在するという。これも同質の現象だ。確かに世代が違う、女に入れあげるのも違う、しかし日本社会で生きる場所がないと感じるのは同じだ。自殺者が3万人を超える現状もおそらく同根の問題であろう。無縁社会は日本人すべての世代に(もちろん底辺の人々により強く)それぞれ確実に影響を及ぼしている。

 叙述はあくまでホームレス個々人の実情の描写であるのだけれど、同時に背後に広がる現代日本社会の特質、「厳しい現実の姿」を浮かび上がらせている。「男たちが日本で居場所をなくした」のは、実は現代日本社会の最近の変質にあるのではないかという論点を浮かび上がらせ、問題提起している。こういうところに本書の特徴が表れている。真面目な説得力のあるドキュメントとなっている。

 「日本を捨てた男たち」の叙述は、効率化を極め到達した日本社会の希薄な人間関係、人々の連合体の「貧困さ」を炙りだすに至っている。それゆえあるべき社会としてもっと人々のつながりのある、対抗的な連合体を幾層にも作り上げた社会へと変わる必要があることを提示しているようにも見える。(文責:児玉繁信)

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ホシ

先日のフィリピン出張の際にホテルにあったマニラ新聞でこの本の存在を知りました。

そこで検索を掛けたらこちらのブログが一番心打たれる内容だったのでコメントさせて戴きます。

まあ、コメントと言うおりは愚痴になると思いますがご容赦を。

フィリピンに限らず韓国や中国などへ嫌悪感丸出しの完全日本基準のコメントにはもう何も感じません。

どんなにいい加減で嘘つきで金目的でも、「密度の濃い人間関係」という表現には惹かれます。

平和ボケの意見と言われそうですが、いい加減、嘘つき、金目当ては、それだけ人間臭いことだと思います。


今の自分は、土地成金の家で育った、教養の無い、買物依存症の馬鹿女を妻に持ち、自らは体調を崩し、金も勇気も無く、この馬鹿女と今の仕事と生活にすがってでは生きて行けない弱さが、さらに自分を苦しめます。

別にフィリピンに渡って、人情に期待を寄せ、困窮生活を送りたいわけではありませ。

むしろ今考えているのは、この密度の薄い人間関係しか存在しない日本で、逆に誰も知らない町で、6畳一間のアパートに住んで、食べていけるだけのお給料が貰える仕事をして、病に倒れればそれが運命と思い、卑し医者(私は医者と医学を卑しい存在だと思っています)の助けなど借りずに、じっと布団の中で痛みに耐えてその日が来るのを待つ、そんな生き方が今の自分には一番楽なのかもしれません。

人恋しくて、寂しがり屋で、人と話すのが好きで、、、でも、今の自分の体調と、この日本という国と、そして何よりこの馬鹿妻と共に生きるなら、一人ぼっちの静かな生活を送るほうが楽かもしれないと感じてしまいます。

あと一歩踏み出す勇気が欲しいです。強さが欲しいです。



また近々フィリピン出張があります。
ホテルの窓を通しただけの「密度の濃い人間関係」をちょっとだけ見てくるぐらいしか出来ませんが。。。。
by ホシ (2012-05-06 00:25) 

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