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続いて「脱経済成長論」を論ず 山口響さんの論文 [2008-9世界経済恐慌]

続いて「脱経済成長論」を論ず 
 山口響さんの論文

1)経済危機の中の世界社会フォーラム
 山口響さんの論文、『「脱経済成長」が提起された――経済危機の中の世界社会フォーラム』(『季刊ピープルズ・プラン』46号(2009年5月発行)
http://www.peoples-plan.org/jp/ppmagazine/pp46/pp46_yamaguchi.pdf)は、世界社会フォーラム(以下:WSF)の報告である。その内容はきわめて重要で、また検討しなければならない多くの現代世界の認識・とらえ方・批判、そしてプラン案が含まれている。遅ればせながら、興味深く読ませていただいた。南米・欧州・中北米を中心とする5808もの団体が集った論議は、彼らがどのように現代世界をとらえ、どのように運動を進めようとしているのかをあらためて認識するとともに、議論の熱気が伝わってくる気もした。「世界は、人々は動いている」と感じた。その点では論文から多くのことを教わった。
 ただ、あまりに読んで気になる点がいくつかあるので、以下に述べさせていただきたい。
 
2)気になる点、その一
 その第一は、2009年1月の第8回世界社会フォーラム(以下:WSF)に参加した山口響さんが、「このフォーラムが「脱経済成長」を提起した」と書いていることだ。
 山口響さんのWSFレポートを見ての判断であるけれど、WSFでは「脱経済成長論」にどの団体も個人も言及していないように見受けられる。なのに、山口さんにかかると「WSFは脱経済成長を提起した」ことになるらしい。
 どのように判断したらいいのだろうか。少々、強引ではないか。あるいは我田引水的ではないか。
 もちろん、たとえ強引でも我田引水的でも、その根拠さえ明確であれば、どの団体・個人が言及さえしなかったにしろ、フォーラムが提起した課題を自分なりに解釈・読みかえることは可能であることは承認するし、しなければならないと思う。しかし、その論拠を示すことなく、自分なりに解釈・読みかえることは、決してしてはならない。これはあたりまえのことだと思う。しかしわたしには、山口響さんは、この「あたりまえ」を破っているように見える。

3)気になる点、その二
 「WSFでの論議、危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?」
 「危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?」こそ、WSFで論議されたテーマだという。
 
 わたしの個人的意見を先に述べておくと、上記の対立が必ずしも非和解的な対立だとは思わない。仮に、現代の危機が資本主義そのものの危機だとしても(わたしはそのようにとらえているが)、野蛮な現代資本主義である新自由主義への規制、すなわち金融取引への課税、金融システムの改革、食料やエネルギーへの投機の禁止、租税回避地の解体など政策の実施やそのプラン・要求・運動には、賛成する。規制であって廃絶ではないが、もちろん賛成する。実際には、上記の政策を実施しようとすることは、資本主義廃絶の過程でもあると思われるからだ。でなければ現実性が生じない。もちろん、資本にとっては、山口響さんが指摘されているように「排出量取引など環境を主軸にした規制のメカニズムも、そのメカニズムの上での新しい資本間の競争、新しい投機が生まれる機会」であり、資本主義存続の追求となるだろう。その可能性は常につきまとう。仮にそのような政策を実現したからといって、廃絶と継続の綱引き、闘争が終わるわけではないし、最終的に解決するわけではない。上記の対立が、局面が進み、和解的な上記の違いが非和解的な対立へと転化することもあるかもしれない。事態は矛盾した複雑な過程をたどるとしか言えない。しかし、だからといってわたしたちが頭の中であらかじめ、そのプロセスを決めてしまったり拒否することはできない。
 要するに、「危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?したがって、解決のプランは社会民主主義か?、社会主義か?」と二律背反的に理念的に頭の中でとらえることであれば、そしてその対立を超越するかのような装いで「脱経済成長論」が唱えられるのなら、反対する。柔軟にとらえるべきだと思う。
 
 さて前置きが長くなってしまったが、気になる点その二は、山口響さんのこの議論への接近の仕方である。
 山口響さんは、「危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?したがって、解決のプランは社会民主主義か?、社会主義か?」と議論を俯瞰し描き出した後で、このように述べる。

 「だから、私たちの側も、たんに新自由主義を終わらせればよいとか、あるいは、各国政府による景気刺激策の規模の大きさを見て「社会主義の復活」を単純に観測する傾向に与するわけにはいかない。やはり、資本主義という経済のありかたそのものを問題にしなくてはならないだろう。」
 
 「「社会主義の復活」を単純に観測する傾向に与するわけにはいかない」ことの論拠として、山口響さんは経済危機、恐慌下での国有化、すなわちAIGの国有化や金融資本の債務を国家が肩代わりすることを、あげている。しかしこれは、単純な勘違い、誤りであろう。恐慌下で破綻した資本を国家が救ったとしてもそれは決して社会主義ではない。国家による資本の救済であって社会主義ではない。かつて日本資本主義を最も「社会主義的だ」と描写した論述や報道がなされたことがある。個々の資本の資本蓄積が国際競争する上では相対的に小さかったので、国家を利用し対抗したのであって、そのようなものは社会主義でもなければ社会主義的でもない。単純な誤りである。まさか、このような誤りに影響され、言い訳する必要などなかろうと思うのだが。資本主義のもとでの国有化を論拠として、山口響さんが「「社会主義の復活」を単純に観測する傾向に与するわけにはいかない」と書いているのは、まったく理屈にあわないと思うのだが。

 上記の意味不明な論拠とともに、山口響さんが「危機の原因は何か、新自由主義か?資本主義か?したがって、解決のプランは社会民主主義か?、社会主義か?」の議論を超越したかのような、あるいは避けるかのような論述をするところが、小さなことではあるが、第二に気になる点である。そのような描出は、現代世界で不断に生まれつつある人々の批判、人民運動のリアリティから、遠ざかることになりはしないか?
 後で判明するが、どうもこれは「脱経済成長論」を主張するための「前ふり」のようだ。

4)気になる点、その三
 「資本主義と過剰生産」
 ここの叙述がわたしは最も重要だと考えている。どうしてかというと、「脱経済成長論」の根拠らしき事が書かれている唯一の箇所だからである。
 山口響さんは「現在の資本主義の特徴とは、…金融経済が支配していること…金融化は一九七〇年代ぐらいから始まった…そもそもこの実物経済自体が一九七〇年代の時点で過剰生産に陥っていた、という事実である。つまり、この過剰生産への指向、別の言い方をすれば経済成長指向を改めないかぎり、…」と書いている。

 「経済成長指向とは、過剰生産への指向」だというのだ。そしてこれを改めようという。これが、わずかに触れられた「脱経済成長論の論拠」なのだ。
 
 「過剰生産」とは何か?「過剰」とは何か?「消費に対する生産の過剰」である。消費と生産の乖離は、資本主義のもとでは不可避的に宿命的に周期的に起きる。限定された消費の水準にまで生産が、強制的に暴力的に引き戻されるのが恐慌局面。恐慌は消費と生産の乖離という形をとって現われる。もっとも恐慌の原因が、過少消費にあるわけではない。
 そもそも「過剰生産」は「資本主義の宿痾」ではないか。山口響さんが指摘する1973-4年の世界的な過剰生産恐慌(石油ショックと言われた)は戦後初の大恐慌ではあったものの決して初めてではなく、過剰生産恐慌は資本主義が発生して以降、何度も繰り返されてきた。もし、「過剰生産」を「脱経済成長論の論拠」というなら、わたしの理解によると「過剰生産、すなわち資本主義を廃絶しない限り」、「脱経済成長論」を主張することはできないことになってしまうのだが。結局、山口さんの論述を敷衍すると、こういうふうにとらえることになってしまう。
 
 資本主義そのものが「過剰生産」を不断に生み出す。そんなことは明らかだろうと思う。
 それを、「過剰生産への指向、すなわち経済成長指向」と書き換えるところに山口響さんの独自性がある。しかも、格別の論拠もなしに、言い換えるところに、山口響さんの独自性がある。

 そもそも「脱経済成長、経済成長への指向を改める」などとわざわざ言葉の言い換えをする必要などないではないか。山口響さんが論拠に述べた通り、「過剰生産、すなわち資本主義を廃絶しなければいけない」と言えばいいではないか。なのに、あえて「脱経済成長」と言い換えている。しかもこの言い換えは、よりあいまいに、より不明確になっている。
 なぜわざわざこのような言い換えをする必要があるのか、不明である。説明はなされない。
 むしろ逆に、説明なしに言い換えてますところに、「脱経済成長論」の特徴があるようにさえ思えるのだ。
 さて、ここに何か意図でもあるのだろうか、などと考えてしまう。

5)気になる点、その四
 ついでに気になる点、その四を先に述べておこう。
 山口響さんは「経済成長への指向を改めよう」と呼びかけている。
 これはいったい何をすることなのか?どういう政策のプラン、行動のプランとして描くのか?まったくわからない。というより、まったく書かれていないだから、わかりようがない。十分に検討しないで決めつけてしまうのはあまりよくないけれど、「プランの欠如、呼びかけのみ」というのが、「脱経済成長論」の一つの特徴のように見えてしまう。

 どのようなプラン、プログラムを通じて脱経済成長を実現するのだろうか?書かれていない。
 目標を掲げる者は、目標に至る過程を規定しなければならない。しかし、書かれていない。
 「脱経済成長論」の主張は必ずしも山口響さんだけではないようだ。でもわたしの見る限り、誰も「脱経済成長」を実現するためには何が必要なのか、述べていない、述べようとしていないように見受けられる。(ひょっとしたら、わたしが見逃しているのかもしれない。もしそうならば、ぜひお教え願いたい。)
 これは、とてもおかしなことだ。「脱経済成長論」を主張しているのは、山口響さんだけではなく、集団的な見解のようにも読めるが、わたしが見る限り誰もそのプラン、プログラムに触れていない。できればその論拠を書いたもの、「脱経済成長」を実現するプランを書かれたものを教えてもらいたいと思う。まさか誰もが見過ごしていて、誰もが気がつかないはずはないと思うのだが。この点が、不思議でしょうがない。
 この点は、気になる最も大きな点である。

6)言いたかったこと
 山口響さんの報告を読んで、特に途上国の人たちの置かれている現状と彼らの認識、運動の方向の一端がわかった。気にかかる点としてこのように書いたのは、山口響さんの報告されていること、書かれていることを尊重しないわけではない。むしろ、逆である。尊重しているからであり、その持つ意味を読み取ろうと丁寧に読んだ結果出てきた疑問、気になる点である。なるべく、わたしの疑問を率直に書くようにしたので、乱暴な言葉もいくつかあろうとは思うが、悪意はない。(文責:治郎吉)





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つるたまさひで

「国家体制かローカルな変革か」
治郎吉さんの問題提起の中心的な部分は
脱経済成長という問題の立て方が
「その対立(資本主義か社会主義かというような)を超越するかのような装いで「脱経済成長論」が唱え」ているように見えるということでしょうか?

国家体制をあいまいにしている点を批判されているのでしょうか?
そのあたりを明確にして頂ければ、論争がよりわかりやすくなるかと思います。

どうも、そのあたりがあまり頭のよくないぼくには読み取りにくいのですが、
ぼく個人の感想を書くと、さまざまなのものが国という単位での社会体制の変革よりも小さな地域、ローカルな地域で基本的なモノや金がなるべく循環していくような社会をめざすことにリアリティを感じています。

そのあたりの意見の違いなのでしょううか。
by つるたまさひで (2013-09-13 00:29) 

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