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港健二郎監督、映画「ひだるか」を評す [映画・演劇の感想]

港健二郎監督、映画「ひだるか」を評す

1)「ひだるか」を評する前に
 「ひだるか」を評する前に下記の経過を記しておきたい。
 2006年8月、監督・脚本の港健二郎さんから、熊谷博子監督・記録映画「三池」についてわたしの書いた評(当ブログ掲載)にコメントをいただいた。そのコメントは指摘される限りでは正当なものだった。

 わたしは、記録映画「三池」について次のように書いた。
・・・・・・最初の部分は、教育映画のようでまるで、映像に命も動きもない。・・・・・・そうではあるが、三池炭鉱争議の当事者であった三井鉱山の労務担当者、新労の役員・労働者、三池炭鉱労働組合がそれぞれの立場から三池争議の歴史を「語りついで」、当時の写真や映像が織り込まれるところなどは、俄然映像が生きて動いているかのように活気を得て、それぞれの写真、証言がつながり、迫ってくる。間違いなくこれが映画の生命である。証言を並べて三池争議やCO中毒患者と家族の苦闘をドラマティックに描き出している点は、優れたところだ。・・・・・・
・・・・・・三池争議も描き、炭鉱の歴史も描き、それから熊谷監督自身の水で薄めたような「思い入れ?」のようなものも含まれていて、いいところも悪いところもすべて混じっている。・・・・・・
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 これに対し、港健二郎さんは、以下のコメントを寄せてくれた。
・・・・・・「三池」をあんなものだと思われたら困るというのが、正直な感想なのです。三池を語る時に欠かせない、三井独占の犯罪性が完全に隠蔽された作りになっているからです。一つだけ例を上げましょう。CO患者の怒りと大変さが描かれています。しかし、ああした事故が、何故、起こったのか?天災ではないのです。三井が、何故、刑事訴追されなかったのか?そうした話題が、法曹界で公然と語られる「企業犯罪」だったのです。そこが、ネグられているので、「不幸にも負けず頑張る女性たち」の物語に矮小化されています。・・・・・・
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 その時わたしは、港健二郎さんのコメントは指摘されている限りでは正しいと判断したし、そのように回答もした。もちろん批判をどのように映像で表現するかは、簡単ではない。

 このような経緯があって、映画「ひだるか」を楽しみにして、あるいは期待して観たのだ。

 しかし、「ひるだか」はわたしの期待を裏切る残念なものだった。以下にそのことを述べる。観た後に評を書いたが、あまりにも批判が多くなったことが気になって載せることをしなかった。
 ただ最近、港健二郎監督のレイバーネットでのメールから、次回作の計画があることを知って、それへの期待もあるので評は述べておいたほうがいいと考え直し、ここに載せることにした。言葉の足らないところもあると思うが、真意を受け取っていただきたい。


<チラシから>

2) 映画のあらすじ
 福岡中央放送が外資によって買収されリストラが確実だと設定され、これに対抗し労働組合が反対し、会社が第二組合を結成して労働者を分断する。現代において労働組合分断に当面する人たちを通じて、三池争議とは何であったかをあらためて見直そうとしている。
 福岡放送局で働くキャスターである主人公・陽子には、恋人である敏腕ディレクター・森嶋がいる。この恋人の力でリストラがあっても、彼女は会社に残れそうな立場にいるし、当初は残ろうとする。会社にはキャスターばかりではなく、現場で働く社員もいるし、下請け・孫請けの人たちも混じって働いている。働く人たちは、リストラに反対し労働組合に結集して反対しようとするが、会社側は、会社の残れることを餌に個人的に組合を切り崩して、会社の意図通りに外資買収・再建に賛成する第二組合を立ち上げてしまう。陽子も第二組合に誘われ加入するが、会社のやり方に反発を覚える。第一組合書記長への親近感は増していくようではあるけれども、しかし第一組合に参加しみんなで戦おうとするわけではない。この過程で陽子らは、三池闘争を振り返るドキュメンタリー番組を作ることになり、三池闘争を改めて見直す。
 陽子はこの外資による買収が、地元の人々に根ざした放送局でなくなることに反発を覚え、番組内でニュースキャスターの立場を利用して、勝手に予定を変えて福岡中央放送の外資による買収を批判的に報じる。陽子はあくまで個人的に振舞う。放送は中断され、陽子は赤いスポーツカーに乗って放送局から走り去るシーンで映画は終わる。

3) 映画の問題点
 この映画は問題点が多く、わたしは決してよくないと思っている。そのことを下記に書くが、それは監督、脚本家をおとしめようとして書くのではない。次回作に期待し、よりよくしていただきたいという気持ちから書いたつもりだ。言葉の足らないところはご容赦願いたい。

3)-1 会社と労働者の対立の描写は正当か
 福岡中央放送はドイツ資本によって乗っ取られ、リストラが始まる。それまで陽子らの生活や仕事、職場は平穏であった。しかし「外」から問題がもたらされる、それとともに政府による放送法改悪、規制緩和にも原因があると設定される。
 この構図は果たして正当だろうか?
 平和に暮らしていた社会に、突如「外」から破壊がもたらされる。敵は外資と日本政府で、地元に密着した放送が破壊されるという構図が設定される。こういう描き方は、現代日本の様相を正しく捉えることになるのか?ということ。会社幹部を何かしら通り抜けて、外資と日本政府が問題だ、と描かれているように見える。労資の対立が深刻なものとして提示されていない。少々気にかかる。

3)-2 労働組合の分裂、その描写は本当か
 それからよくわからないのは労働組合の分裂。
 労働組合が分裂させられたというのに、会社内や職場での厳しい非和解的な対立、人間関係の破壊はまるで起きていないかのようだ。人間関係は破壊され、追い詰められる人も出てくる。人格が破壊される人も出てくる。しかし、全く不思議なことに職場の雰囲気は「平和的」だ。これは果たして本当か?現実を描写していないのではないか。
 実際に、三池争議ではこのようではまったくなかった。陽子の父が逃げるように大阪へ出てきたのも、組合分裂とその中での人間的信頼の破壊、人間そのものの破壊があったからだ。(映画は、父の苦悩を具体的に描かない。抽象的に言葉で説明するだけだ。こういうところもよくない。具体的な映像でもって、人間的感情を描き出すべきだ。言葉の説明で済ましてしまうのでは、映画にする必要がない。)
 脚本家は組合分裂がどのようなものであるか、本当のところわかっていないのではないだろうか。知識としての「組合分裂」は知っているかもしれないが、肝心のところはわかっていないのではないか、このように疑わざるを得ない。

 労働組合の若い書記長の形象と彼の役割について。
 陽子が森嶋から別れるに当たり、陽子が心を動かした人物である。彼が、対置すべき人物像の一つであることは間違いないだろう。
 書記長の言葉で興味を引いたのは「会社主導によって第二組合がつくられ、組合が分裂したことが三池争議敗北の原因だ」と断言したことだ。間違ってはいない。確かにその通りだろう。あまり時と場所を無視して言うのはよくないが、福岡中央放送労組にとっても分裂が敗北の原因になる可能性は大きいのだから、組合分裂に対抗してどのような活動をしていくのか、観る者はドラマの展開に期待する。書記長たちが自分たちのとるべき行動として、何を提示し奮闘するか期待して観る。どのように三池の伝統を引き継ごうとするだろうか。
 しかしこの人物も含めて、みんな組合分裂を非難はするが、どのように対抗しようとするのか、その追究はない。三池争議のときに炭労はどのような方針のもとに活動したか、組合分裂に際してどのように対処したか、こんなときに労働組合にはどのような活動が必要なのか、こういう場面は描かれない。労働組合で組合員が論議し、一緒に行動する場面もあまりない。「三池のときはこうだった、だからこうしよう」などという場面もない。「第一組合が正当だ、自分たちは正しい主張をした」とだけ言っているだけのように見える。
 わたしは、書記長たちの判断と行動、奮闘のシーンだけをたくさん入れろと言っているのではない。しかし、「三池争議の伝統を引き継ごう」といいながら、言葉だけに終わっているのは、やはりおかしいと思うのだ。

3)-3 陽子や労働組合の主張
 それから、陽子も労働組合も、「地元視聴者のための福岡中央放送でなくなる」という理由で買収・リストラ反対の声をあげている。果たしてその理由で会社攻撃に対抗できるか?

 映画は、首切り・リストラに反対しはするが、首切りが深刻な人権侵害であり生活破壊だから、これに反対するように周りに訴えることはあまりしない。
 なんと主張するか?
 福岡中央放送は地元の視聴者のために放送を提供してきた、地元の視聴者の利益を守る、買収は「地元ユーザー、お客様の利益のため」ならない、したがって買収・リストラ反対する、というふうに主張する。それは陽子も労働組合も同じだ。会社による自分たちの権利侵害を暴露し、告発し、労働者と労働組合を支援するように訴えない。「リストラは地元の視聴者の利益とならない」と遠慮がちに主張する。

 現代日本の会社においては、「ユーザー、お客様の利益のため」なる理由を楯にし、あるいは振りかざして、資本家や経営者は社員教育を行い、労働者の団結を破壊し、非正規雇用を拡大し、リストラや人員整理が行われている現実が、われわれの眼の前にひろがっている。この現実を脚本家のみならず、誰もが認識しなければならない。
 しかし、脚本家は「ユーザー、お客様の利益のため」なる理由で対抗すべきと考えているようである。これは正しいか?すでに理屈において負けていないか?なぜ、自分たちの生活擁護をまえに要求・主張しないのか?正しくない。仮に「地元視聴者の利益のために放送を再編成しリストラする」と言われたら、陽子や労働組合の書記長はどうするのだろうか?全く対抗できないではないのだろうか?

 自分たちの利益を主張する「だけ」ではまわりの支持が得られない、という「利口な」判断をしたつもりなのだろう。しかしそれは単に、自信を持って自身の権利を主張できないことを示してはいないか。こんなことでは、あるいはまわりまわって、労働者のストライキ権を否定することになってしまうだろう。「ストライキすれば地元の視聴者に迷惑がかかる」と、常に資本側、政府側から非難されるが、自分からこれに屈服することではないか。
 三池争議を闘いぬいた炭労や三池労働者は果たしてこのように考えたか?こんなやり方をしたか?明らかに違うだろう。このような考えでは「三池争議の伝統を引き継いだ」とは決して言えない。
 三池争議を評価しその闘った伝統から離れることを、映画自身が表明していることになるのではないか。もしそうであれば、このような判断は、すなわち映画「ひだるか」が主張するこのような判断は、間違いでしかなくなる。

3)-4 陽子は「新しい女性のタイプ」か?、脚本の破綻
 確かに陽子は、自分で考え、個人で行動する。大学時代の恋人と別れ、福岡に就職するのを見ても、自分で決めている。そのような形象として設定されている。
 陽子は大学卒業後、望んでいた東京の放送局へ就職ができず、九州の福岡中央放送に入社する。このとき叔父である父・謙作の弟がこの会社にいて、頼んで入社した。コネ入社である。陽子は特に何とも感じていないようである。三池争議で正義を主張する労働者の声に注目する陽子が、なぜ鈍感にもコネ入社したことに罪悪感を感じないのか、不思議だ。謙作とずいぶん違う性格のようだ。済んだことは済んだこと、あるいは利用できる者は利用してしまえ、という考えの持ち主として設定されている、と観る者は判断せざるを得ない。
 終わりに近い場面で、キャスター・陽子は天気予報の放送中の時間を利用して勝手に、「福岡中央放送が外資に乗っ取られ、地元の視聴者の利益が損なわれる」ことを訴える。ここでも労働者の首切り、人員整理への告発はしない。訴えの中心ではない。
 この行為自体は、子供じみたものであり、放送の私物化と批判されて処分されても抗しきれないものだ。会社主導でつくられた第二組合に入っている陽子は、労働組合に結集し、方針を皆で討議し、行動することをしない。あくまで個人として行動する。しかもこの場合は「特権的」なキャスターの地位を利用して、視聴者に勝手に訴える。

 このあとたぶん、陽子は処分され、解雇され職を失うだろう。
 このような、自身で考えひとりだけで行動する陽子なる形象は、果たして新しい人物か?
 確かに陽子の気分は一時的にはスッキリしたかもしれない。しかし、それだけではないか。何の解決にもならない。
 陽子の行動に意味はあるのだろうか? 労働者として意味はあるのだろうか? 「決してない」と言わなければならない。三池闘争での父・謙作の反省さえも少しも考慮されていない。「三池闘争の伝統を引き継ぐ」観点からすれば、あえて「ない」といわなければならない。
 他の労働者が「新しい人間・陽子」に習って行動するとすれば、何をすることになるか。仕事を途中でほうりだして、上司に文句を言って、もちろん「ただの文句」ではなく「正しい主張」をして、啖呵をきって退職することである。これは何の解決になるのだろうか。
 歴史的にもあるいは現在でも、陽子のように行動してきた者はたくさんいる。しかし何の解決にもならない。人員整理は行われる。働く者の生活は破壊される。これは何度も繰り返された敗北である。
 陽子にとっては気分がスカッとするかもしれない。あるいは管理職であるディレクター・森嶋に別れを告げ、新しい生活に踏み出す意志を示したことに、かろうじて意味があるかもしれない。しかしそれだけだ。こののち、陽子が同じような事態に当面したら、彼女は威勢のいい啖呵をきって、出ていくのだろう。陽子は「群れる」のは嫌いだ。とすれば、確かに陽子はこの先、それ以外には振舞うことはないし、それ以外にできない。

 こういうタイプの人物なら、別に新しくなどない。わたしのまわりにもたくさんいる。警備会社で働いていたが派遣先の病院で人間扱いされないため、「バカにするな」と啖呵をきってやめた年配の友人がいる。彼は非人間的な扱いを前にして、抗議し、会社を辞めた。もちろん次の日から職を失った。陽子との違いは、彼が50代半ばで、スポーツカーを持っていないことだ。陽子のようにスポーツカーで颯爽と去ることはできない。更に違いがある。彼はこれを敗北だと知っている。こんなではなく何とか他の二人でも三人でもいっしょになって抗議できなかったことを悔やみ、労働組合があったらなあ、と考えている。あるいは反省している。
 陽子は果たして新しい、あるべき人間像であるか。現代の新しい女性のタイプか。わたしからすれば、陽子はこの知り合いよりも古い人物、魅力に欠ける人物であると断言するほかはない。

 映画のチラシにはこう書いてある。「この映画は、現代社会の矛盾を糾弾するのではなく、ひとりひとりの魂を目覚めさせることで、大きな力を、大きなムーブメントを引き起こそう、未来に繋げようというまったく新しいタイプの「女性映画」である。」
 これはとんでもない間違いだ。仮に陽子が目覚めたとして、大きなムーブメントにはならない。会社に抗議しての個人的、あるいは集団退職である。過去何度も繰り返されている敗北だ。抗議の退社で、会社は一時的に機能しない事態におちいるかもしれない、しかし会社は望むとおり人員整理ができたことになるではないか。陽子の行為は、なんら新しくもないし、新しい人間像でもない。未来に繋がりはしない。そのことを言葉でごまかしてはいけない。

 三池争議を調べ放送で紹介した陽子であるが、彼女のこの行動は陽子が三池の闘いをまったく学んでいないことを証明してしまった。これが三池争議を総括した上で出てくる結論であり行動であると主張するのであれば、とんでもない間違いだ。
 この間違いを陽子は自覚していない。自覚していなければ反省もなく、この先同じ間違いを繰り返すであろう。陽子はなんと鈍感な人物だろう。過去闘った人と現在戦い苦しんでいる人の痛みがわからない鈍感な人間だろう。

 この点は、最も不可解な、不思議なところである。
 監督や脚本家は意図的にこのような人物を設定したのだろうか。当初、反面教師的に描きだすための設定ではないか、と考えた。しかし、違っていた。陽子の考えは脚本家の考えであった。陽子が赤いスポーツカーで颯爽と走り去るシーンで映画は終わる。これが映画の描き出す結論なのだ。鈍感なのは陽子ばかりではない。残念ながら、監督・脚本家がそもそも間違っているし、間違いに気づかない鈍感の持ち主と判断せざるをえないのだ。

 このように見ていくと映画はいくつかのシーンで破綻を見せていることが明らかになる。
 陽子はしおりらの劇「ひびきの石」を観て、感銘を受けたとされる。陽子の受けた感銘とはどのような内容のものだったのか?意味不明となってしまう。
 もっとも「ひびきの石」は、劇中で紹介される場面だけ観ても安易であり、過去のあるいは現代の人々に受け入れられる内容ではないと思われる。非常に安易に映画中の劇としてつくられていたが、だとしても劇中に「ヤメテヤル」という人物はいなかった。陽子は「感銘を受けた」、「良かった」などといいながら、彼女のとった行動から推し量ると、物事を根本において捉えてる力のない人物、かなり軽薄な人物であることを観る者は必ず読み取るだろう。
 これは破綻である。監督・脚本家はこの破綻に気づいていないのだろうか?

 陽子の父・謙作は、弟の学費を確保するため、泣いて第一組合から離れ、大牟田から逃げた。そして死ぬまで自身の裏切りを悔やみ、誰にも話さなかった。陽子は謙作の秘密をインタビューの際に偶然知ってしまう。感動的な場面である。陽子は謙作を思い涙する。
 しかし、流した涙は「無理解」の上に成立した涙だったことが判明する。陽子は謙作の行動を克服するわけではなく、放り出して逃げた。謙作と違うのは、陽子は悔やんでいない、反省さえしていないことだ。陽子の取った行動は謙作の本当の苦しみを心底理解していないことを証明する。感動も何もあったものではない。台無しだ。監督・脚本家が、陽子の個人的「解決」をアッパレなものと本心から思い、このように描いているのだ。

 ここまで考えるに至って、わたしは本当に失望した気持ちになった。
 監督・脚本家は、三池争議の意味を理解していない、というより取り違えているのではないのだろうか。この映画は根本のところで間違っているのではないか。せっかくこのような映画をつくる機会を得ながら、なんというもったいないことをしているのだろうか。映画の終わりに上映実行委員会が紹介され、映画製作・上映運動を支援する多くの市民団体、労働団体の名前がでてくる。これらの団体の期待と援助のもとに準備されたのだろう。その期待を裏切っていることになるのではないだろうか。わたしはそのように思う。

3)-5 その他、表現上の問題
 上記までが言いたかったことのほとんどだ。以下に述べるのは、付け足しであって比較的小さな個別的なこと。

 映画の題名になった「ひだるか」は、大牟田地方の方言だそうで、「ひもじくてけだるい」という意味だそうだ。その意味を、映画では役者がせりふで説明する。「ひだるか」に相応する感情を映像で表現するのではなく、せりふで説明する。こういうのはよくない。映画にした意味がない。
 全体として、せりふは説明の言葉の棒読みが非常に多い。人物はしっかりと造形されておらず、生きて動き変化・発展する人物として造形されていない。特に陽子を演じた俳優のせりふ棒読みが気になった。表情が乏しく、感情の変化を演じることが十分にできていない。
 しおりの形象にしてもどうして劇団をやっているのか、人物の内的な心情の描写はなされない。祖父が大牟田出身と説明される。出身でその人の考え決まるのではもちろんないのだから、しおりはしおりの考えをもち、行動するに至った根拠を描き出さなければならない。
 陽子も父・謙作が大牟田出身であり炭鉱で働いていたとされる。三池争議は親族に三池関係者がいる者だけに限られた問題ではないはずなのに、脚本家は親族のつながりで説明している。実に安易だ。登場人物と三池争議との関係を、それぞれの現代に生きる人物のタイプの考え・性格・行動から、描き出すことができていないといわざるを得ない。
 言葉で説明してしまうのなら、映画にする必要はないのではないか。こういう設定でしか、人物を設定できないのは、脚本が良く練られていないこと、未完成であることを証明していることになる。

4) おわりに
 評として誤解のないようにできるだけ正直に書いたつもりだ。そのためずいぶん長くなってしまった。ただ、言葉は厳しくなってしまった。監督・脚本家の気持ちを萎えさせることになったのではないか、と心配する。決してそのつもりはない。次回作で監督にいい映画を撮ってもらいたいと期待もしている。(文責:児玉 繁信)


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コメント 4

港健二郎

ありがとうございます!!

本当に、この映画を作って良かったと思っています。

このように、切り結んでくださって感動しております。

要諦はラストでしょうね。

随分、批判を戴いています。

100回近く書き直したシナリオの何番目かをお読み
戴ければ、また、違った感想を戴けるかと思います。

主人公は、すべて精算し、第一組合に復帰します。
闘う女性に変貌します。
それこそ、「新しかった」でしょう。

でも、今の困難な状況を反映した「人間像」になっていた
でしょうか???

今の混迷した時代の中で悩み多く生きる働く女性たちに、
ともに考える人間像になっていたでしょうか???

「労働組合至上主義的」な一人よがりの映画になって
いまかったでしょうか???

三池争議を最も先鋭的に闘った人の率直な感想を交え
ながら議論していきたいですね。

まあ、じっくり、返答させて頂きます。

「三池争議」をは何であったのか?
その現代的意義とは?

自分のライフワークにしている問題なので、じっくり討論
したいと思います。

今、民放労働者の置かれた現実が何なのか?

そして、いかに、主演女優と議論しながら作っていったか?

などなど、論点は多彩にわたります。

あっ。そう。
ずいぶん、誤解して映画を鑑賞されています。
議論の前提として、DVDをお送りします。

下記まで、住所をお送り下さい。
完成台本とともにお送りします。

minato@hidaruka.com

脚本・監督は私ですから、責任を持って、議論ができる
と思います。

でも、本当に嬉しいです。
こんなにも、作品の本質にかかわる批評をして頂いたの
ですから。

深い友情と連帯の感謝を込めて・・・・

港 健二郎 拝
by 港健二郎 (2007-02-24 00:07) 

港健二郎

上記、コメントに応じて、カサナグさんから住所を知らせて
下さったのでDVDをお送りしてあります。
ただ、3月1日からフイリピンに行かれるので、帰国してから
DVDを再度、見られた上で、「誤解」ではないと確信された
段階で、私の反論を書き込ませて戴くことにしております。

この経過を、カサナグさんにコメントしておいて下さいとメールで
お願いしておいたのですが、出発前の慌しさのせいか、実行
していただけなかったので、あえて、コメントさせて頂きました。

ご連絡を首を長くしてお待ちしております。
by 港健二郎 (2007-03-03 17:24) 

tamashige

「ひだるか」の評につき、早速、監督からコメントを寄せていただきありがとうございました。
3月1日から14日までフィリピンを訪問していまして、また帰国後体調を崩しておりまして、コメントが遅れたことをお詫びいたします。 すみませんでした。
  きびしい言葉がたくさん入っていたにもかかわらず、真摯に受け取っていただき、大変ありがたく思っております。 なお、わたしの立場を言えば、観客の一人であり、観て批評するだけです。監督のように映画をつくる力も条件も、持っておりません。その点では、港さんに一方的に期待し、またお願いもする立場です。そのことを充分に踏まえた上で、発言したいと思っております。港さんがコメントの最後に、 「深い友情と連帯の感謝をこめて・・・」と書いていただいたことに、本当に感謝いたします。

 さて、わたしは「主人公を第一組合に加入させればよかった」とは必ずしも思っておりませんし、そのように書いたつもりはありません。たとえ、第一組合に加入するとしても、あるいはしないとしても、、現代を生きる人物がどのように考え行動するのかを、生きた姿で描くべきであり、そのことを通じて現代人と現代日本社会の本質的課題を描出することが重要だと思っております。
 わたしの不満は、映画に登場する人物が多くの部分生きていないことです。人物の造形が便宜的で、外面的であるという点です。
 たとえ作者といえども、人物の姿をその内面的発展を無視して設定したり、あるいは勝手に変えてしまうことはしてはなりません。映画が映画としての力を失うと思います。
 引き続き、コメントさせていただきたいと思います。取り急ぎ、ここまで。
 誤解があるというのはどのような点でしょうか?
by tamashige (2007-03-19 02:21) 

港健二郎

ばたばたしていまして、久しぶりにコメントを拝見しました。

お送りしたDVDは、見て頂いたのでしょうか?

そのうえでのコメントであれば、そのつもりで意見を述べさせて
頂きます。
誤解があるかもしれないと書いたのは、この映画の特徴でも
あるのですが、最初に過大な期待を抱いて見た人の感想が
二度目にはがかなり違う人がいたからです。

tamashige さんには、2度目で、より欠点が明らかになった
かもしれませんね(笑)

それは、それで、私の映画的表現力の乏しさ故のことで、甘まん
じてお受けしますが、長文の批評分には、きちんと語っておかなけ
ればならない問題点が多く含まれていると感じております。

ただ、ここしばらく猛烈に忙しくなっておりますので、少し時間を
戴けたら幸いです。
貴兄との交流が、より実りあるものになるように、私も本格的・全面的
に取り組む考えでおります。
よろしく、お願い致します。
by 港健二郎 (2007-03-26 21:51) 

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