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『ある子供』 タルデンヌ兄弟 [映画・演劇の感想]

;">『ある子供』 タルデンヌ兄弟

 タルデンヌ兄弟の監督作品。観たあとに知った。そして『息子のまなざし』を思い出した。確かに描写に同じような厳しさがある。
 『ある子供』とは赤ん坊のことだろうと思っていたが、若い二人、20歳のブリュノと18歳のソニアのことと知った。あるいは現代に生まれた「放置された若い世代」のことだ。

 場所はベルギーだそうで、現代ヨーロッパ社会の破壊が深刻に進んでいることを率直に描く。家庭は崩壊しており、家庭からほうりだされ、学校や仕事からほうりだされて、ブリュノもソニアも一人で暮らしている。失業率が高いということは、ある部分は労働力として期待されず、教育も職業訓練も受けていない大量の若者が増大していることを示す。人が育っていく社会関係が破壊され、子供のまま大きくなっても、彼らは彼らで生きていかなければならない。
 ブリュノはホームレスで、道路わきに住家がある、ダンボールに包まって寝る。そんななかでも金は稼がなくてはならないから、盗品を売りさばいて生活する。その割には、おとなしくて気が小さくて表情が子供っぽい。時おり見せる笑顔が幼い。

 レンタカーを借りてドライブしているとき、運転席でブリュノとソニアがじゃれあって、観る側はひやひやするのだが、その姿を見ても、公園で二人が鬼ごっこのようにして遊ぶ姿を見ても、二人はまだ子供である。

 二人の生活する「範囲」が、説明もなくそのまま描かれる。行き場のない彼らが利用する簡易宿泊所や失業手当給付所などの場面が次々に現れ、速いテンポで重ねられる。

 そんな時、二人の赤ん坊をブリュノが盗品のビデオカメラを売るように売ってしまう。売ったと知らされて卒倒するソニアを見て、ソニアを傷つけたことを改めて「理解」したブリュノは赤ん坊を取り戻すが、ソニアとの関係は壊れる。壊れたあとで、ブリュノはソニアとの関係の大切さを知ることになる。

 映画のもっとも重要なのは、自分のことしか念頭になかったブリュノが、ソニアの気持ちを考えるに至るところだ。そのようにしてブリュノが人との密接な関係を得たいと思うにいたるその変化をとらえたところだ。言葉ではなく、余分な演技や表情を排除した場面の積み重ねで、ブリュノの変化をリアルとらえている。

 映画は、ブリュノが何を考え行動しているのか、観客が画面を観察し自身で考える構成になっている。監督の意図は、主人公がどんな人たちであり、どんな生活をしているかを描写することにある。何が原因であるとか、どうすべきかは、描こうとさえしていない。タルデンヌ監督は、進行している現実からだけ生きた徹底した批判が立ち上がることを信念のように持っていて、それゆえに事態を描くことだけを心がけているかのようである。判決は観客に任される。

 ラストは、ソニアが拘置所のようなところでブリュノに面会し、無表情で言葉を交わしたあと、テーブル越しに互いの手で互いの頬を挟み、泣くシーンで突然終わる。音楽はなく、画面は暗転して、出演者や監督などの名前が流れ、観客は突然、映画の世界からほうりだされてしまう、衝撃をかかえたまま。

 このあと二人はどうするのか、映画は何も描かない。観客に暗示させるものをも極力削いでいて、意味ありげな教訓的な解釈を拒否するかのようでさえある。映画は何も解決しないが、二人の関係が映画の初めのころに比べ、より密接なものになった変化を描く。ブリュノとソニアの結びつきを、二匹の獣が互いに暖めあうような「原初的な」結びつきを、描くだけである。

 さて、この「ある子供」は誰だろうか。あれは俺のことではないか?ひょっとしたら自分たちもあのような状況におかれるのではないだろうか?と思ってみた人も確かにいるのではないか?
 現代日本社会にもブリュノやソニアのような人たちが増えているし、近い将来確実に、かつ大量に生まれてくるだろう。逆に言うと、「俺のことではないか」と思わずに観た者にとっては、退屈な映画であったに違いない。(文責:児玉 繁信) 
 恵比寿で上映中。


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