「カワイー」とばかりいっている横のカノジョ [現代日本の世相]
「カワイー」とばかりいっている横のカノジョ
映画監督・井筒和幸が9月17日の朝日新聞に書いています。
「・・・この先世の中がどうなろうとも「戦争」にだけは、いくらお金を積まれてもアンタたちは行かないで欲しいんです。・・・ますますキナ臭い世の中になりそうだなぁと、監督なりの直感で思うからです。・・・映画をみて「カワイー」とばかりいっている横のカノジョにも教えてやって下さい。後生だから頼んます。」
面白い記事です。井筒和幸は、この世の狂気を最近感じるといいます。
気になったのは、確かに「「カワイー」とばかりいっているカノジョ」が一般的になっていることです。どうして「カワイー」とばかり連発するのでしょう。
とりあえず「カワイー」といっておけば、対立することはないし、議論になることもありません。そのものが何であるかをあいまいにしておいて、あるいは飛び越えて、その語りかけているものは、当たり障りのないわたしの感覚、気分、感性であり、対立を持ち込まないで気に入られることを期待しています。そのような「カノジョ」であることを、「カノジョ」は自分と他者に対して語りかけているのでしょう。でも内部では「本当の自分」との乖離を日々感じることでもあり、また同時に「本当の自分」も希薄になっていくことも実感するのです。
このような傾向は、「カノジョ」だけとは限りません。「カレシ」にもそのような傾向があるでしょう。
現代日本における人々のコミュニケーションのとり方の一つの特徴であるような気がしてなりません。コミュニケーションが希薄なのです。
さて、これはどうしてでしょう。
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