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マパニケ村での戦時性暴力被害とは何か? [フィリピン元「慰安婦」]


ロラ・キナンさん

マパニケ村での戦時性暴力被害とは何か?

1944年フィリピン・マパニケ村でなにがあったのか?
 被害者たちの出身地のマパニケ村のあるパンパンガ州は、戦前から地主に対する抵抗が活発であった。日本軍は米作地帯のパンパンガ州でさかんに米を奪い取り、当然農民たちはこれに反日武装闘争を組織し、抵抗した。ここはカンダバ湿原に近い。
 1944年11月23日、日本軍は「匪賊討伐」として、マパニケ村を包囲し、砲撃を加えた後、マパニケ村掃討作戦を行い、村民のうち男たちはほぼ全員を集団虐殺し、女たちは集団レイプした。
 未明からの作戦は地下足袋着用の秘密作戦であり、掃討後、掠奪物資の集積場所、搬送用トラック10台の配置、作戦終了後の特別食の準備も怠りなかった。男たち全員が殺された日の夜から、女性・子供たちがこの略奪品を集団レイプが行われた日本軍駐屯地「赤い家」まで担いで運ばされた。集団レイプは親子、姉妹の目の前で行われた。戦後50年間、マパニケ村ではこの被害の話題はタブーとなっていた。
 討伐隊名:第14軍(フィリピン軍―山下奉文大将―戦後現地で絞首刑)、第2戦車師団=撃兵団(中部ルソン)岩仲義治中将指揮下、討伐隊長:鹿野少佐、討伐(虐殺)参加部隊―直轄戦車隊(2輌)、第100大隊、機関銃隊をふくむ、計8部隊。
 上記の部隊が虐殺作戦を遂行した一連の作戦命令書が、防衛庁戦史資料室で確認され「マパニケの女性たち」に収録、2000年「女性国際戦犯法廷」の証拠となった。

---1944年11月23日の経過---
フィリピン国、パンパンガ州、カンダバ郡、マパニケ村
夜明けのすこし前、マパニケ村の住民は砲撃と銃の音で目を覚まされた。爆撃、迫撃砲、大砲の弾丸が住民、家畜、家々、いたる所に落ちてきた。爆撃と砲撃は数分間続いた。
爆発音がやんで静寂が訪れると住民は隠れていたところから出てきた。ラッパの音が鳴り響いた。そしてすぐ、日本兵たちが群をなして集ってきた。
住民は逃げようがなかった。日本帝国陸軍の兵士たちは、数百人で、家から家へと行進してまわり、男も女も子供もみんな強制的に外へ連れ出した。平屋建て木造、ふたつの教室のあるマパニケ村で唯一の学校のまえにすべての住民を集めた。まだ隠れ家にいた者も、学校の校庭に引っ張られてきた。手足を縛られた男性たちがいた。彼らはだれがゲリラ(反逆分子)メンバーかを尋問され、すべての人がライフルの銃床で殴られ、こぶしで殴られ、蹴り上げられ、銃剣で刺されていた。幾人かはマカピリ(フィリピン人の裏切り者)に指さされた。マカピリというのは、フィリピン人の裏切り者で、誰だかわからないように頭から穴の開いたかごをかぶっていた。指さされた人は、さらに尋問を受け拷問を受けた。日本兵は何も答えが得られないと、彼のペニスを切り落とし、彼の口に無理やり押し込んだ。
男性たちはゲリラであるかないかにかかわらず、一列に並べられ銃で撃たれた。死んでしまった者も、まだ生きている者も、学校の建物の中に投げ込まれ、最後には男たちを中に入れたまま、校舎を焼き尽くした。
すべてのことが女性と子供たちの目の前で行われた。父親や、夫や息子、兄弟たちが拷問をうけ、殺される様を前にして声をあげて泣く以外に、なす術がなかった。一方で、残りの兵士らは家々を燃やし、米や食料その他値打ちのあるものはなんでも盗み出した。
日本兵らは家々を燃やし、盗みをしつくすと今度は女性たちに目を向けた。
9歳から30歳までのすべての女性たちに、兵士らが家々から盗んで集めたものを運ばせた。母親たちや子どもたちを学校の校庭に残し、彼女たちはブラカン州、サン・イルデフォンソ市の東の方角に歩かされた。泥がぬかるんでいる水田を横切り、兵士たちの厳重な見張りのもとで重い荷物をバハイ・ナ・プラ(赤い家)のあるサン・イルデフォンソ市 アニャタムの広い道路に沿ったところで荷物を運び終えた。バハイ・ナ・プラ(赤い家)はイルソリオスという裕福な地主が所有していた堂々たる家で、日本帝国陸軍の駐屯地として接収されていた。
女性たちの証言によれば、バハイ・ナ・プラはその当日、日本兵はおそらく200人以上いたし、家の周辺にはテントがいくつもあった。
女性たちは建物の各部屋に連れこまれた。二階の部屋にも、一階にも、台所の近くにも、そしていくつものテントの中にも。そこで女性たちはレイプされ、いたぶられた。ひとり、ふたり、三人あるいはそれ以上の兵士らに。ほとんどの女性たちはまだ若く、初潮が始まっていない少女たちもいた。戦争期間中のこの体験は、その後トラウマとなって、深い傷として今日まで残っている。女性たちが解放された時、マパニケ村にもどった女性たちが見つけたものは、黒こげになった死体と灰。戦争がもたらしたいまわしい記憶となったもの以外、村には何も残っていなかった。村全体がまるごと廃墟となった。
マパニケ村の襲撃の混乱のなかで、彼女らは約30人の男たちが殺されたと推測した。襲撃の数日後までに、田畑に散ばった死体からみて8人が爆撃と砲撃で死んだ、そして数名が傷つき、大傷を負い、殺された。女性に関しては一体何人がレイプされたのかわからない。正確な数はいつまでも分からないだろう。多くの女性たちが自分の話をする機会を得ずにすでに亡くなってしまった。
マパニケの村人で、フクバラハップ(抗日民族解放軍)に参加し山にいた人たち、朝早く仕事に出かけていた農民と漁民などが、日本帝国陸軍の残酷さから逃れることができた。村全体に戦争がもたらした破壊と家族たちの苦しみの記憶からのがれることができたのはほんの少数の人たちだけだった。
マパニケ村のこの襲撃と女性たちへの集団レイプ事件は、もし、マパニケ村の勇気ある女性たちが50年後に、話をしなかったなら、忘れ去られていてことだろう。マパニケ村は歴史の一部であり、その体験の話は多くの人々に語り伝えられるべきものである。戦争における犯罪人たちが裁かれ、被害者に正義をもたらすために。過去に犯された犯罪が繰り返されないために。


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maitrii

日本の侵略戦争について調べたら、このサイトにいきあたりました。日本国民としてではないのです。人として、本当に恥ずかしいのです。獣ですら必要以上に他を殺したり、傷つけたりしません。この行為は、日本人であろうがアメリカ人であろうが関係ありません。これほど愚かな行為はあるでしょうか。こういった事実、人間の愚かさ、現実に目を伏せ、受け入れない者は追い詰められた時、果たして正義を貫けるのか。こういった事実を軽く受け止め、何の影響もないと思う者は獣以下のおぞましい生き物に成り下がり、悪業を積んで地獄に生まれたいと思うのか。
罪を犯した者は永遠に、罪を犯した時から、その罪を背負って生きるのだ。永遠に犯した者の苦しみを背負い心に閉じ込めても、ふと恐怖がよみがえるであろう。それはそれは、事実を事実と認めず、真実を認めず、冒涜する者も同様の罪を犯す。
犯した者が汝の一部と知れ。その事実を反省し、犯した行為を反省し汝の一部を慈しめ。
by maitrii (2009-09-12 21:56) 

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