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映画『太陽がほしい』を観る [元「慰安婦」問題]

映画『太陽がほしい』を観る
  
 11月2日、明治学院大学で班忠義監督映画『太陽がほしい』の上映会があり、観た。一部、二部 2時間44分。班忠義監督は20年間、中国の「慰安婦」被害者、戦時性暴力被害者を追い、撮りためた映像をまとめて作品にした。中国の山西省を中心とする被害者たちが名乗り出てから亡くなるまでの、日々の暮らし、生きた姿を描き出している。

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<高銀娥さん>

1)被害者は、安倍首相の嘘を暴く

 映画に登場する山西省の被害者たち、万愛花さん、尹林香さん、劉面換さん、尹玉林さん、高銀娥さん、郭喜翠さんらは、みな日本軍に捕まり、駐屯地やヤオトン、トーチカに監禁され、レイプされた。慰安所に入れられたわけではない、戦時性暴力被害者だ。被害が起きた村は、山西省の前線であり、慰安所もなかった。

 安倍首相は「慰安婦女性を強制連行した証拠はない」と発言し、2007年安倍内閣では閣議決定までした。日本の新聞、TV、週刊誌は、そのまま口移しに「強制連行の証拠はない」と報道している。しかし、山西省の被害者たちの被ってきた被害は、安倍首相の発言がまったくの嘘だと暴く。

 被害者は皆、日本兵の銃剣で脅され、駐屯地に連れていかれた。「強制連行」である。「強制連行」の証拠ばかりが目の前に映し出される。監督は映画で、安倍首相の言葉が嘘であることを暴いて見せた。もちろん、被害は「強制連行」だけが問題なのではない。

2)山西省の張双兵さん
 被害者が名乗り出るには、相当な苦労があったことを映画は感じさせる。20数年前に班忠義監督が現地を訪ね、証言を映像に記録したいと申し出たとき、被害者らは顔色を変え即座に家に逃げ帰り、戸を閉め切ったという。それは被害者たちが被害のあとどのように扱われてきたかを物語っている。
 監督は、現地で被害者を支援する山西省の小学校教師、張双兵さんと出会い、何度も通ううちに被害者と会うことができるまでになったという。
 名乗り出た被害者も立派だけれど、張双兵さんのような人こそまた立派ではないか。張双兵さんも、被害者を訪ねても、すぐには信頼してもらえなかったと語る。病気になった被害者を病院に運び、身の回りの世話もし、信頼される関係を築いてきた。
 映画は被害者と張双兵さんの関係を映し出す。張さんは田舎の教師で裕福にも見えない、権力にも縁のなさそうだ。「被害者の身の上に同情して被害を記録する活動を始めた」と語ってはいたが、そのような行動はなかなかできるものではない。
 証言をまとめ、戦時性暴力被害への謝罪と賠償を日本政府に求めるように地方政府に要請したが、日中友好、経済協力をすすめた当時の中国政府の政策に反するとされ、上司である教育長から咎められ圧力を加えられた。そのことが原因で奥さんはうつ病になった。張さんのきわめて人間的な行動は、家庭を破壊することになった。それでも張さんは、被害者の証言を聞き取る活動を続けてきた。映画は奥さんの姿もとらえる。
 こういう人が中国にいること、しかも地方にその事実に感動する。ある意味で勇気づけられる。さらには、自分にひきつけて考えなければならないと思う。
 監督が、張双兵さん、さらには奥さんの姿までとらえ映し出したところに感心した。この映画の良さの一つだ。予期しなかったろうが、こういう場面を逃さない監督のセンス、あるいは人間性を感じる。

3)万愛花を見舞う日本人グループ

 万愛花さんは、早くから名乗り出て証言をしてきた。山西省の被害者を支援する日本人のグループもいくつかあって、何度か現地を訪れているらしい。
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<万愛花さん>

 ある4,5人のグループが、病床にいる万愛花さんを訪ね、通訳らしい女性が「日本人としてすみませんでした」と謝る、一緒に来た男性は日本の男性を代表して謝るという。そして、病床の万愛花さんに向かい、参加した若い男性、別の女性も一斉に頭を下げる。
 善良な人たちなのだけれど、ちょっとした勘違いがある。万愛花さんは語る。「日本人個人に謝罪を求めているわけではない。大砲も、鉄砲も、弾薬も日本政府が準備し、戦争を起こしたのでしょう、だから日本政府に謝罪を求める」と。でもその言葉が聞こえないかのように、日本人個人の謝罪を求めていると初めから勘違いしていて、しきりに謝罪する。
 少し滑稽にも見えるその姿を、映画はそのまま映し出す。日本人グループにもいろんな人がいる。これもまた現代日本の実情の一つに違いない。そんな場面も逃さずとらえる監督の眼に感心する。決して非難のために描いてはいないこともわかる。
 映画は理念的に造るものではない。誰もがいろんな問題点や欠点を抱え生きている、その上で多くの人が世の中を、人々の関係をよくしたいと奮闘している。その姿、その現実を班監督は認めている、普通に生きている人々に対する監督の信頼を感じさせる。それはいいことだし、この映画の良さでもある。

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<袁竹林さん>

4)映画の発するメッセージ

 このように書いていくと、きりがない。映画全体を紹介しきれない。あくまで一面の一面だ。何しろ20年間撮りためた映像であり、いろんな場面がある。映し出された映像そのものにまず引き付けられるのだけれど、同時にその場面を取り上げた監督の視点の確かさにも気づかされる。この映画の特徴の一つなのだろう。監督の気持ちがよくわかる、手作り感を感じさせる映画なのだ。

 映画に登場した被害者たち、万愛花さん、尹林香さん、劉面換さん、尹玉林さん、高銀娥さん、郭喜翠さんらは、すでにみな亡くなった。その人たちがどのような被害を受け、被害に対する無理解のなかで生きて、そうして証言を残してきたその姿を、あるいは遺志を、私たちは映画を何度も見直して受け取らなくてはならないのだと思う。
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