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フェリシダットさんの証言 [フィリピン元「慰安婦」]

 少し時間が経ってしまいましたが、フィリピン戦時性暴力被害者の一人であるフェリシダットさんが7月に来日された時にお聞きしたお話しを紹介します。
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 「女たちの戦争と平和資料館(wam)」の第9回特別展の開催にあわせて、フィリピン元「慰安婦」団体リラピリピーナから二人の女性、被害者の一人フェリシダット・デ・ロス・レイエス(82歳)さんと、コーディネイターであるリチェルダ・エクストラマドゥーレさんが来日し、7月2日オープニング・イベントが開催されました。

 来日に合わせ、7月3日三鷹で、「フィリピンから二人の女性を迎えて」―お話と映画上映―の会を持ちました。映画「カタローウガン!、ロラたちに正義を!」を上映し、そのあとフェリシダット・デ・ロス・レイエス(82歳)さんからお話を聞きました。紙面の都合から、レイエスさんの証言のみを紹介します。レイエスさんは、映画のなかでも証言されています。
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フェリシダット・レイエスさんの証言
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<7月3日、証言するフェリシダット・デ・ロス・レイエス(82歳)さん>

 私の名前は、フェリシダット・デ・ロス・レイエスです、女性団体ガブリエラ傘下、フィリピン元「慰安婦」被害者団体リラ・ピリピーナのメンバーです。私の生まれた場所はマスバテ、誕生日は1928年11月22日、82歳です。私の体験をお話しします。

 戦争前、私の家族はフィリピンのマスバテに住んでおり、父はドレスをつくる小さなビジネスをしていました。区役所から警察や軍隊の制服の注文を受けました。その時、マスバテのなかのミラグロス町に引っ越し、私はもうすでに14歳でしたが、小学校に入り一年生になりました。何度も小学校に入り直しており、何度か目の一年生でした。
 ミラグロス町にいた頃、戦争になるといううわさが広がりましたが、私の父は「おーっ、また戦争の話かい、ずーっと戦争の話ばかりだけど、まだ大丈夫よ。」と、ちょっとのんびり構えていました。でも、ある裁判官から「逃げた方がいい。あなたはバンカ(魚をとる小さい船)を持っているから、いつでも逃げられるように川そばの船に住んでいた方がいい。」と忠告されました。

 しばらくして、ミラグロスに日本軍がやって来ました。私たちの家族は服をつくっていましたので、その関係で知り合いがいて、いろんな人と一緒にミラグロス町から外へ逃げることになりました。真夜中に荷物・家財道具を持って逃げまわりました。途中、木の下で一晩過ごしたこともありました。明け方、布をテントのように張った仮の宿に泊まったりしました。そこはディナクリパン村でした。当時、私の家族はそれほど生活には困っていませんでした。父は農業もやっていましたから、食べ物もそんなには不自由していませんでした。

 日本軍はミラグロスへやって来て、ミラグロス小学校に駐屯しました。ミラグロス小学校は町で一番大きい建物で、日本軍が接収しました。いろいろ調べたのでしょう、何カ月かたって日本軍は他のいろんな場所にも駐屯してきました。
 私たちの逃亡先であるディナクリパン村にも、日本軍がやって来ました。日本軍から「ここは抗日ゲリラが多く戦闘の激しい地域だから、シビリアンであるあなたたちは前の住所であるミラグロス町に帰れ!」と言われました。
 私の父は、帰りたくなかったのです。そうすると日本軍から、「もし帰らなかったらあなたをゲリラとみなす。ミラグロスだと学校もある。帰ったら子供たちは学校へ行ける。帰れ!」と言われ、ほとんど強制的にミラグロスに戻りました。
 ミラグロス町に帰った時、私たちの家はすでに燃やされたあとでした。家財は壊され、家は焼かれ、豚小屋も豚も焼かれていて、家族みんな大変なショックを受けました。逃げた家族はゲリラ、もしくは支持者とみなされ、破壊されたのです。

 通常フィリピンの学校は9月から始まります。この時私は8月から学校に入りましたが、ずうっと1年生ばっかりだったので、今度は2年生に入ることになりました。クラスには30人いて、チェドロ先生でした。
 学校には日本人の先生がいました。ミラグロス小学校のなかに日本軍の駐屯地があり、いつも日本軍兵士がいました。そこから日本語を教えに日本人の先生が来ていました。
 そのうち日本軍の偉い人が来ることになり、ウエルカムパーティをやることになりました。先生から、私は日本語が上手であると選ばれて、歓迎会に出演することになったのです。日本人先生が歓迎会プログラムをつくり、日本語の歌「見よ!東海の空あけて」を覚えました。私の番号は7番でした。

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<フィリピン元「慰安婦」団体リラピリピーナのコーディネイターであるリチェルダ・エクストラマドゥーレさん>

 歓迎会は金曜日でした。三台のトラックがきて、日本軍兵士でいっぱいになりました。その時の私たちの気持ちはうれしかったのか、恐かったのかよくわからないような状態でした。
 歓迎会のはじめのうちは、日本兵はすごく優しかったし、そんなに問題はありせんでした。歓迎会で私は歌いました。
 そのあと一人の日本人兵士から、「ナンバー7!学校の裏に来い!」と呼ばれました。先生に聞くと、「他のクラスメートもいるから大丈夫、心配しないで行きなさい」と言われ、先生の言葉を信じて行ったのです。しかし行ってみると誰もいません。私は急に恐くなり、「皆のいるところに戻る」と抗議しました。すると突然二人の日本兵に手を引っ張られて連れて行かれてしまいました。
 向学心があって日本語がすこしできたばかりに、学校の先生から選ばれ、「日本軍兵士のところへ行きなさい」と言われました。送りだしたらレイプされるのは教師もうすうす知っていました。にもかかわらず、学校ぐるみで日本軍に協力し、その結果たくさんの少女たちが犠牲になったという事情もあったのです。

 日本兵に連れて行かれた時は、本当に恐かったのです。「なんで他の生徒がいないのか!」と必死で抗議しました。「とにかく、待て!」と言われました。しばらくたって暗くなった頃、5人の日本兵がやって来ました。一人は将校らしく立派な軍服を着ており、リーダーのように振る舞いました。残りの4人は普通の兵士で、私を部屋に連れ込みました。4人が私の手をつかんだ状態のまま、その将校によって足をけられ、平手打ちにされました。すごく恐い思いをしました。

 そしてその5人の兵士から私はレイプされました。セックスの経験は初めてでした。私はレイプの被害にあってとてもショックを受けました。

 最後の兵士がレイプした時に、外から笑う他の兵士たちの声が聞こえました。その時私はあらためて大変な屈辱を覚えました。動物か何かように扱われた、人間扱いされていない、と感じました。
 私は何度も「家に帰らせて!」と訴えました。しかし兵士たちは「もう暗いから」と言って結局、帰らせてくれません。朝になったら帰れるかと思いましたが、夜が明けても返してくれません。その日から毎晩、日本軍兵士たちにレイプされ続けました。食べ物をくれはしましたが、私はショック状態で食欲が全然ありませんでした。なにも食べられない状態が続きました。
 いつも外から日本軍兵士たちの笑い声が聞こえました。私は屈辱と不安でずうっと泣いていました。何日も泣いていると、とうとう涙が枯れて出なくなりました。食べ物はやはり食べられませんでしたが、コーヒーは飲みました。何日かをコーヒーだけで過ごしたのです。ある晩、隣の部屋から女性の泣き声が聞こえてきました。「誰かいる、私だけじゃない、他の人もレイプされている」と思いました。

 とても辛かったので、家に帰りたい気持がますます強くなり、いつも「帰りたい!」と大きな声をあげました。そのたびに「うるさい!」と怒られました。日本軍兵士のなかにはタガログ語を話す兵士もいたのです。「うるさくしたら、殺す!」と言われました。私は、むしろ「殺してくれ!」と叫びました。「何度もレイプされ続ける生活はつらくて、耐えられない気持ちがつのり、死んだ方がマシ」と思ったのです。
 部屋のドアは薄い鉄製(トタン?)の扉でした。私は「帰りたい!」と叫びながら何度も蹴りました。兵士から「ほんとにうるさい!殺すぞ!」と何度も言われました。

 ある夜、3人の日本軍兵士が入って来ました。しかし私は「いやだ!いやだ!」と叫びました。3人のうちの一人が私の身体に触った時、熱があることに気づきました。レイプをやめ外で話していました。
 しばらくして「もう、家に帰れ!」と言われたのです。私の体の異常に気づいたのでしょう。熱病か何かに感染していると誤解し、うつされると恐れたのかもしれません。家まで送ると言いましたが、私は「いやだ!ひとりで帰る」と強く断りました。だって恐いから、またレイプされるかもしれないと思ったからです。

 学校から家まで、身体がすごくつらくてやっとの思いで歩いて帰りました。ろくに食べていなかったので身体が衰弱していたのでしょう。家に帰る道には深い草むらがあり、誰かいるんじゃないか、また襲われるのではないかと、とても恐かった記憶があります。
 ミラグロス小学校から家までだいたい2km離れていました。家に帰った時に、家の前には誰もいませんでした。父は魚を獲りに出かけていました。そのうち姉妹たちをみつけましたが、泣いていて近づこうとしません。私は家に入りました。母がいました。母と抱き合って、私たちはずっと泣き続けました。
  しばらくして母に、「どうして父や家族は、私を連れ戻しに来なかったの!」と尋ねました。
 当時、日本軍のやることには逆らえなかったのです。父が私を連れ戻しに行くことは、危険な行為でした。殺されるかもしれなかったのです。そういう規則だと言われたそうです。父は危なくて来ることができませんでしたが、のちに父からはすまなかったと言われました。

 私の姉とカメラマンの仕事をしているその夫がフィルムを買いに行く途中、日本軍兵士に出会い、お辞儀しなさいと命令されましたが、恐かったからあまりうまくできませんでした。フィリピン人にはもともとお辞儀する習慣はありません。その「態度」だけで逮捕されて、姉の夫は太陽の下で拷問を受けました。同時に捕えられた姉は、区役所の建物に監禁されてレイプされました。姉は子供を産んだばかりでした。 
 姉の夫は、かわいそうにすぐ後、亡くなってしまいました。当初家族は、私には亡くなった理由を教えてくれませんでした。「どうして兄さんは死んでしまったの!」と聞いても、みんな何も言わず私には秘密にしていました。私を気遣ってくれていたのでしょう。しばらくしてやっと教えてくれました。姉がレイプされたことが、ショックで亡くなったと言うのです。それを聞いて私は涙が止まりませんでした。

 当時のミラグロス町は、日本軍にいつ捕まり監禁されレイプされるかわからない危険な状態でした。私も危ないから、父から「お兄さんの家に引っ越したほうがいい、そこの学校に行くこともできる」と言われました。

 そのあとで私は逃げるように違う村に引っ越ししました。その頃にもう戦争はほとんど終わっていました。私たち家族は逃げまわってきたので家も財産も失っており、家族の生活はまったくひどいみじめな状態になりました。

 そうして再びマスバテに引っ越しました。父はまた縫製の仕事をはじめました。私はマスバテで6年生まで学校に行きました。
110703 三鷹2233 アリソン・オパオンさん (489x640).jpg<当日、通訳をしてくださったアリソン・オパオンさん、歌も歌ってくださいました>

 私は本当は先生になりたかったのです。戦争が終わったあとも勉強し先生になりたかったのです。しかし父は「家にはそんなお金はない」と、許してくれません。「それより服をつくる仕事を覚えろ!」と言われました。日本軍にレイプされ、私の人生は大きく狂わされました。それは大変な惨劇でしたが、それだけにとどまりませんでした。私の家族には日本軍に殺された者もいます。戦争で家族は財産を失いました。そのせいで私は上の学校に行くことはできず、すぐ働かなければなりませんでした。

 父の仕事を手伝い、そうして縫製の仕事をすることになりましたが、ただ、最初はどうやっていいかわかりませんでした。「いままで見ていなかったのか!」と父に怒られました。
 ちょうどその時ズボンを縫う急ぎの仕事が入り、「これをやれ!」と言われました。受取日になって、発注した人が来ましたが、できていませんでした。一日待ってもらい、その晩頑張ってやっと完成しました。そのようにして私は仕事を覚えました。
 
 これらは私のつらい、くらい経験です。決して死ぬまで忘れることはできません。最初は人前で話すことはできませんでした。すごく悲しいことですし、話し出すと私の気持ちも体もつらくなったのです。でも今はやっと皆さんに話すことができるようになりました。

 戦争の時はそれはそれは本当に大変でした。ろくに食べ物がありませんでした。たとえ目の前に食べ物があってもとにかく逃げまわらなければならず、食べるどころではなかったこともありました。家畜もいましたが、全部日本軍に押収されました。あの頃は本当につらかったのです。
 
 戦争の時に日本軍によって私のいとこの一人が殺され、叔父さんの一人も殺されました。私や姉はレイプされました。家族は財産を失い、ひどい生活を強いられました。戦争は本当によくありません。本当にやめなくてはなりません。そのために私たちは、団結して反対しなくてはなりません。

 日本軍が降伏した時、私の心の中には復讐心がありました。日本軍兵士からレイプされ大変な思いをしましたし生きる希望も失っていましたから、日本兵をひとりだけでもいいから殺し、自分も死にたいと思っていました。そんな精神状態でした。皆さんに、ご理解いただけるでしょうか。
 でも日本軍兵士も、戦争中にまたそのあとになっても、たくさん死にました。その姿もみました。かわいそうであるようにも思うようになりました。

 私にはつらい経験があります。でも私だけではありません。同じような被害を受けたロラがたくさんいます。そのことを決して忘れてほしくないのです。
 ロラたちのためにこの話を歴史の本に残し学んでほしいのです、ロラたちの正義を回復してもらいたいのです。そうして私たちのような女が二度と生まれないようにしてほしいのです。

 日本政府は被害の事実をようやく認めてはいますが、公的な謝罪も補償もしていません。私たちは望んでいるのは日本政府の公的な謝罪と補償です。
 私の話を聞いてくださり、ありがとうございました。

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