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G8サミットと金融危機 [2008-9世界経済恐慌]

G8サミットと金融危機


1)G8サミットと金融危機

 G8サミットが行われているちょうどその時、世界経済は、サブプライムローン問題を引き金に金融不安が高まったきわめて不安定な状態にある。欧米の金融当局は、特に米国政府は信用不安をおそれて金融を緩和する以外に対処しようがない。せっせと金利を下げ、通貨流通量を増やしている。すると投機マネーが行き先を失い、世界を駆けめぐり、今度は石油や穀物・食糧品などの物価を上昇させてしまった。インフレが確実に進み人々を苦しめている。しかし、金融当局は景気後退が気になって、金利を上げられない。もっともたとえ金利を上げても下げても、どちらにしても危機は避けられそうにない。

 その結果、資本主義世界経済は身動きがとれず、事態の推移を見守るしかない。G8サミットの討議内容を見てもよくわかる。

 わずか数年前には、「デリバティブを駆使したまったく新しい金融工学」、「資本主義の矛盾を克服したIT資本主義」と称し、もてはやされ金融資本は世界中の富を手にした。「スマートに」掠め取ったといえる。しかしいまやその活動、その存在自身が、金融危機・経済的危機をもたらす要因に転化したこと明らかになった。経済を、より大きく育て制御できなくした結果、自分自身へと跳ね返ってきた。

 サブプライムローン問題は、90年代の日本の「バブル経済破綻」とまったく同じだ
 資本主義的金融危機以外のなにものでもない。実際に、このようなことは誰でも指摘できるし、指摘している。しかしだ、わかっていても事前に止めることができないし、できなかった。破綻にまで進まなければ気がつかない。バブル経済はバブルが破綻しなければ、すなわち資本の価値増殖運動G→W→G’が継続しているうちは、バブルではない。破綻して、すなわちG→W→G’が成立しなくなって、初めてバブルだったと特定できる。だから破綻しないうちは、価値増殖運動G→W→G’が成立しているうちは、あくまでバブルではない。これは資本主義そのものの持つ避け得ない本質的な性質=経済運動であって、したがって「本質的な欠陥」であって、わかっていてもこのように何度も「バブルの破綻」を繰り返さざるを得ない。

 結局のところ、資本主義の無政府性は、何ら解決されなかったことが明らかになったし、そもそも解決されうるものでもないことが重ねて明らかになった。資本主義は、「金融工学」、「IT資本主義」などと装いをどのように変えようと、人類の未来を描き出すことができないことを、またしても誰の目にも明らかにしてしまったといえよう。

 どんな最新の装いを持って現れようとも資本主義の下では、貧乏人を増やさなければ資本は利益を拡大できないという「ありきたりの真実」を、今回も確認することになった。資本主義であるかぎり、このような未来しか約束することができない。

 この10年、金融資本が大もうけしたことは、その別の一面として、途上国をはじめとして多くの人々が一層の貧困におちいり、飢え・人権侵害をもたらした荒廃した社会を出現させた。途上国ばかりではない、先進国においても、「格差社会」が進行し貧しい大量の人々が出現してしまった。

 現在の事態は、誰もコントロールしないし、コントロールできなくなった「妖怪」が世界市場を駆け巡り、破産する者を求めて徘徊しているさまと似ていよう。

 もちろん、金融危機は永久に解決不能ではない。誰かが犠牲を負うならば可能だ。果たして誰が破産するか、損をこうむるか。

 誰かが損を負担しなければならないが、自分が犠牲になることは承諾しない」。G8首脳は皆このように考えた。

 誰かが、つぶれなければならない、誰かが損をかぶらなければならない。そうして最終的帳尻をあわせなければならない。

 かつて、バブル経済破綻に対して日本政府が行った「公的資金の注入」は、「損」を国家という収奪機構を通じて人々に転化することでこの危機に対処した。その結果、日本政府の「借金」である、国債・公債発行高は、1000兆円に達しており、深刻な財政危機がこの先何十年も続く。もちろんわれわれはそのツケを現在と遠い将来にまで負うている。既に年金制度、福祉予算、医療費などが削られているし、消費税アップは当然のこととして語られている。

2)G8サミットは何か有効な手立てをとることができたか?
 G8サミットはこうした金融市場の混迷と地球温暖化こそ対処すべき問題であるという大方の一致した認識にもかかわらず、なんら有効な処方箋を提示することができなかった。金融市場の混迷に対しては、まともに討議する議題にさえならず、何ら統一的な政策をとることができない。
 むろん投機マネーの運動は、一国政府が制御できる以上の大きさに達していることを追認しただけとなった。ただ、「制御すべきである」とする論調は、何度も何度も主張されるが、誰もが自身の個別的利害に囚われて、統一的な政策、制御に達することができない、という資本の既存利害という「単純な壁」にいつも跳ね返され、現実性を持つことができない。

 G8においては地球温暖化への対策の必要性を、各国政府首脳の誰もが認めながらも、この点でも、統一的な目標数値の採択にさえ至らなかった。単にビジョンの一致にととどまった。何のための首脳が集まって、会議を持ったのかさえあいまいになったほどだ。こんなことなら、G8会議など必要ないのではないか、誰もがこのように自問したであろう。

 G8首脳が一致したのは、途上国と途上国人民に対する、あるいは対立する先進国の利害だけである。先進国間の利害調整の場にさえならなかった。
 したがって、「反G8サミット」は、途上国人民と先進国の住民が共通して、先進国支配体制、支配層を告発するスローガンとして、現在もまた近い将来も現実的でありつづけるだろう。
 もっとも現在にかわる未来社会のシステムは、すぐには見えてはいない。未来社会は現状の社会に対する徹底した批判から立ち上がってくるのであろうから、「反G8サミット」運動の果てにあることは確かであるだろう。(文責:小林 治郎吉)

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