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映画『象は静かに座っている』を観る [映画・演劇の感想]

映画『像は静かに座っている』を観る

1)現代中国に生きる民衆の姿

 この30数年、中国は急速に経済発展して来た。GDPは日本の3倍となり、米国を追い越すのも時間の問題だ。現代はパクス・アメリカーナの時代から、中国を含むパクス・アシアーナの時代に移行しつつある。米国がしかけた米中貿易戦争は米中覇権争いであり、沈みゆく米国の「悪あがき」の様相を呈している。

 中国社会は急速に変わってきた、歪みも生まれているのだろう。急速な変化を経た現代の中国人は、どんな人たちであり、何を考えどのように生活しているのか、人々の関係はどんなであるか、長い間疑問に思い続け、その姿は想像のなかにしか存在しなかった。映画はその一端を描き出してみせた、そのように受け取った。

 新聞やTVでよく見かける中国政府首脳ではなく、アリババや華為の経営者でなく、中国の庶民、底辺に近い人々の生活とその姿が描かれているように見えた。登場するのは庶民ばかり、それがまず興味深かった。

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<映画のチラシ>


2)行き場のない登場人物たち、家族が壊れている

 舞台は地方都市らしい、画面に石家荘北車站(駅)が映し出される。
 石家荘は石炭産地だが、大気汚染やらエネルギー転換やらで、廃業し急速に廃れているらしい。主人公ブーの通う高校も廃校になる。

 街のチンピラ、チェンが女の部屋で朝を迎える。突然、夫らしき男がドアを叩く。彼はチェンをみても驚いた様子もなく、「お前か」と一言いって窓から飛び降り自殺する。男は女のために部屋を買ったが、にっちもさっちもいかなくなっていたらしい。男の母が自殺現場にやってくる、自殺に衝撃を受けているチェンと話す。チェンには恋人が別にいるが、別れると言われ会ってくれない。だから友人の女と寝たと言い訳する。

 17歳の高校生ブーが通う高校は「底辺校」で、高校の副主任からは「卒業したら、道端の露店で焼き鳥?を売って暮すのが相応だ」と言われる。ブーは同級生(チェンの弟)と喧嘩になり過って怪我をさせてしまい、その場から逃走する。父親からは常々、家から出て行けと言われており、もともと居場所がない。別のアパートに住む祖母を訪ねるが死んでいる。逃げたが行き場がない。

 ブーの同級生で恋人のリンは母親と二人暮らし。母は薬の個人販売員?らしいが生活は苦しい。17歳のリンが高校教師の副主任と一緒にいるところをブーが見てしまう。リンと副主任との逢瀬の動画がネットに出回り、リンも行き場を失う。副主任の教師も地方政府の指示のまま配転させられるのを恐れており、上の顔色をみて生活している。

 この街には文教地区と底辺地区があり、家賃の差が3倍。文教地区の学校でないと上級学校に入ることができない、学歴がなければ金持ちになれず、安定した生活を送れない。一人暮らしの老人ジンは、娘夫婦から孫の入学のため文教地区に引っ越したいので老人ホームに入ってくれと言われている。老人ホームに入るにも金がいる、ホームを見学するが、人のつながりは今以上にない、自分の居場所ではないと感じる。ジンも行き場がない。監督が描き出すのは、老人ホームの入居者たちが外の社会以上にここでも「孤立」している姿だ。

 登場人物の家族がみな壊れている。このような描写は果たして本当なのだろうか? 現代中国では子が親に従う従来の古い親子関係・家族関係が、壊れ消えつつあるのは確かなようだ。ただそのなかで家族関係そのものが壊れている、代わる新しい家族関係は形成されていないと映画は描き出すのだ。

 ブー、チェン、リン、ジン、誰もが家族のなかで孤立しているし、家族が家族でなくなっている。登場人物の家庭はどれもつながりが希薄だし、すでに壊れている。親も子も修復するつもりはないし、できそうにない。地域のつながりもないのだろうか? 少しも描かれない。

 チェンはチンピラのくせに、父と母に対しては従順な態度をとる。既存の「ある秩序」には従順なチンピラなのだ。弟を怪我させた同級生(ブーのこと)を探してこいと指示した母親は、「見つけられなかった」と言うチェンの頬を平手打ちする。驚くばかりだ。チェンは、父母とは分かりあえないと確信しており、両親には従順な態度を見せるものの、親子のつながりはあきらめている。家族関係に代わるつながりを求めているが、恋人には別れを切り出され、新たな家族、人間関係をつくることができない。

 監督が描き出してるのは、家族関係、濃密な人間関係を喪失した現代中国の人物たち、その孤立した姿だ。

3)つながりあえない庶民たち

 家族が壊れているばかりではない。彼ら庶民同士もつながりあえないで、それぞれがひどく孤立している。

 いくつかの事件が起きる。事件に「応対」する様が描かれる。登場する人物たちは、一つ一つの事件を自分で解決することができない。既存秩序や有力者に従い、なるように任せることで対処するしかない。ここにも現代中国の社会関係の特質の一つが描き出されている。
 
 描かれているのは、声の大きいものの言い分が通る社会、実業家というか金を持っている者が幅を利かす社会、当局や権力への近さが幅を利かす社会、金がない者、狭い部屋に住んでいる者は侮蔑される社会である。登場するチェンの実業家家族といえどもそれほど上層ではない。下層の庶民たちのなかに幾重もの階層関係があり、互いに対立しひしめきあい争っている。それぞれ窺わなければならない顔をもち、何重もの入り組んだ階層関係のなかにいる。悲しいばかりだ。どうして民衆同士がつながりあえないのだろうか?

 こういった描写は、監督の中国社会の現状に対する批判なのであろう。

 年配の者と若者世代との価値観の違い、断絶、対立が、随所に現れる。互いに理解することなど初めからあり得ないという判断ばかりがあふれている。急速な社会発展によって家族関係、旧来の価値観は壊れたが、それに代わる関係、つながりを持つことができていない、自身の価値観を形成しえていないの人々の姿である、監督はそこに絶望があるという。

 これらは急速な中国社会の変化がもたらした新しい現実であり、この映画の告発するテーマなのだろう。居場所を失った者たち、孤立した者たちがあふれている! これが現代中国社会の一面だというのだ。 
 
 中国社会の実情をほとんど知らないで映画から見てとっただけでいうのだが、このような社会にとって代わる新しい社会関係を構想するのが、解決を準備するのだろうと思う。それを上から、共産党や政府からではなく、下から人々の間からつくり出していくことが求められているのだろう。中国社会に自主的な自発的な市民運動や市民社会の形成が求められているのだろう、その方向に絶望は解決を求めるのだろう、中国社会はそのような段階に達したのだろう、と思うのだ。監督の描きだしたい内容、方向(=「絶望」)とはずれるけれども。

4)監督の工夫と意図 

 この映画の特徴の一つは、登場人物の会話にある。会話は何かしら象徴的な表現ばかりだ、すれ違っているような会話のやりとりを通じて本当の感情、関係を描き出そうと試みているらしい。会話のやりとりのうちに監督(脚本家)の工夫がみられる。

 ただ、そこに繰り返される「実存的な」問いは、深いように見えるが、会話を重ねれば重ねるほどリアリティが消えていく。生まれ出てきたリアルな孤立と絶望を表現するところから、逸れている。何度も繰り返されるので、考えてみればみるほど、何かしら表面つらの会話に沈んでいる、そうとしか思えなくなるのだ。
 
 利益や秩序に従う社会、その底辺に生きるものの不満と不安、批判が確かにそこにある、解決できないという判断があるから、「あきらめ」や「絶望」として描かれる。不満と批判を監督は「実存的な問い」を投げかけ絶望感として描く。監督の意図が「絶望の描写」にあるからだ。

 絶望のなかで映画が生み出した志向は、意味のないことに何かしら意味があるように思いたいという幻想だ。現実生活への不満と逃避なのだが、抜け出るすべを持たない者は、そのような気持ちに囚われる。国境の街、満州里の動物園の「象は静かに座っている」と知り、その姿に何かしら意味があるように思う、その象の姿を見たい、今の生活から抜けて出かけたくなる。映画の題名である。

 あるいは、最後の場面で老人のジンが語る。「よその世界はよく見えるが、本当のところ、よそ世界も今いる世界も同じだ。ここで生きなければならない。今いる世界にいるから「満州里の静かに座っている象」を観たいと思い続けられるのだ」。
 ジンは経験的な真実の一部を述べ、「満州里の静かに座っている象」を見ても何も解決しないと、ただ現実生活からの逃避であると、諫めている。ただ、ジンは何が問題で、どうすればいいかと語っているわけではないし、解決のプランを持っているわけでもない。

 監督の描き出した現実が存在する事を、観客である私は認める、監督の描く現代中国人の「絶望」も確かにその通り存在するのだろう。
 しかし、検討すべきは、絶望にとどまらず、絶望に至る人間関係、つながりの喪失に対する徹底した批判から、そこに新たなつながり、関係の獲得と創造を構想するのが自然な道行きではないかと思う。

5)映画の描き出す現実から生まれる批判とは何か?

 映画が描き出す現実を検討するならば、登場する庶民たちは孤立しており、人々の関係、連合体を持っていない。それは現代中国社会の特質の一つだ。(日本社会も新自由主義のもとで、人々は派遣労働者、嘱託、パートなど何種類もの不安定雇用に階層化され、それぞれの関係や連合体を失い、孤立化している。人と人の関係が、金の関係、支配と被支配の関係に置き換わっており、少し似ているところもある。)

 したがって、その批判や不満の解決は、絶望の深さ大きさの表現も重要だが、失われた人々の紐帯の新たな形成・再生に向かわなくてはならない。中国社会のなかに自主的で自発的な人々の連合体、われわれのイメージで言えば、市民社会、自主的自発的な市民運動、人々のつながりの形成が、必要とされている段階に達しているのだ、というところに向かわなければならない。その方向に映画が描出した現実への批判が立ち上がってくると思うのだ。もっとも、現代中国社会でそれがどのように可能なのか、実現されていくのかは、現代中国社会を十分いは知らない私にはわからない。

 登場する人物は、ひどく孤立していて、絶望に囚われている。自身の意志で行動することができない。経済発展の何かしら巨大な流れに、押し流されるばかりだ。自主的に自発的に振る舞うことができない。登場人物たちは、社会の流れのままに暮らす人々だ、自主的に自発的に行動する「関係」にいないし、それが可能となる人々の関係をつくりあげていない。

 これまでは確かに、上から中国政府が号令して経済発展や社会変化は効率よく急速に発展してきた。人々の生活も急速に改善してきた。しかし、そのような発展の仕方についていけない人たちが大量に発生しているのであろう。発展の過程で、それまでの家族や庶民のつながりが破壊され、何層もの序列関係、権力や政府との関係、金の関係に置き換わり、孤立した人々が増えたのではないか? それゆえ「希望」を持つことができず、「絶望」に囚われているのではないか? そう思う。

 孤立した庶民の絶望を解決するには、中国社会は、上意下達式の社会関係から、人々の自主的な自発的な活動とつながりにとってかわる段階に当面しているのではないか? 人々が自身の生活と仕事を取り戻す段階に当面しているのではないか? そういう変革を遂げなければ次の段階の社会変革に進むことができないような事態に直面してるのではないか? 映画の描写はそのような問題を提起していると受け取るべきなのだろう。

 もちろんこのようなことを監督は提起していない、描き出そうとしているのは「絶望」だ。
 この映画で価値があるのは、描き出されている現代中国社会の現実であって、監督の訴えたい「絶望」ではない。そのように思ったのだ。
 
 ただ映画は4時間近い。長い、やはり長すぎる。
(文責:児玉 繁信)








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