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「戦後日本の変容と『歴史問題の和解』の課題」 [靖国、愛国心、教育、天皇制]

 10月19日、広島で「安野 西松和解10周年記念集会」があり参加した。
 そのなかで、外村大(東京大学大学院教授)さんの講演があり興味深く聞いたので、メモをもとにまとめた。ただし、筆者が勝手にまとめたので、文責は筆者にある。理解が至らない、あるいは誤解しているところがあるかもしれない。それも筆者の責任である。

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 「戦後日本の変容と『歴史問題の和解』の課題」
 
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<10月19日、外村大・東京大教授>

1) 戦後の出発と友好親善運動 

 戦後出発において、日本社会と日本人はなかなか戦争責任を明確に認識し、謝罪する・・・というふうにはならなかった。

 その原因・背景には、冷戦構造がある。冷戦構造下において日本はアメリカの庇護のもとにいたことで、日本政府は近隣諸国に対して戦争責任を認め、謝罪せずに済ませることができた。中国や朝鮮、アジア諸国の人々とは市民運動として交流がなかった。サンフランシスコ講和条約は単独講和であり中国、韓国は呼ばれなかった。中国とは1972年まで国交がなかった。それらのことは、日本人、日本社会にも確実に影響を及ぼした、アジアへの日本の侵略、支配という歴史を明確に意識しなかったし、見ないままにしてきた面がある。そのため、戦争責任や加害事実を認めること、謝罪し賠償することに対し、無自覚なまま過ごしてきたと言える。

 戦後の平和運動を引っ張ってきたのは労働組合であり、社会党、共産党である。いろんな努力があったにしても労働組合は企業別労働組合でインターナショナルな意識が生まれにくいところがあった。市民が海外に出ていくことはきわめて難しかったし、アジア諸国の人々との交流も意識的に追求されてこなかった。

 戦後の日本社会では、日本人は被害者という考え方が支配した。アジア諸国民への加害の歴史には触れることはきわめて少なかった。日本の戦死者・遺族は、保守系の軍人恩給連盟、日本遺族会に組織されていくという問題があった。その過程で保守的な歴史観が遺族の間で支配的になったという経過をたどった。

 もちろん、日本人と日本社会は、戦後出発からちゃんと侵略と植民地支配のことを考えるべきだったし、そこにおける加害と支配の歴史を考えるべきであった。

 戦後の日本には80万人の在日朝鮮人・韓国人がいたが、運動の側、人々の側も内政不干渉、国交回復が主な目標となって、日本の過去の植民地支配を批判することはすくなかった。そのことは在日の人の受難と被害の歴史を認め、権利回復を考えるというふうにはなかなかならず、逆に在日の人が日本社会のなかで「遠慮して」生きなければならない状況を広げた。

 戦後を通じて現在まで、日本人の多くは、植民地支配を悪いことと認識していない。「創氏改名」とか「徴兵制度」を敷いたのはよくなかったが、それ以前は善政を敷いて、朝鮮を近代化したという認識を持つ人が多かったし、現在もなお多い。

2) 被害者の人権救済活動の開始 

 1965年に日韓条約が締結された。
 戦後日本の突出した経済成長は、日本をアジアへ再び経済進出させ、アジア諸国との経済関係を再構築させた。しかし、それは経済成長によって膨張した日本経済が、新たな市場、基盤を求めた経済進出であり、かつての植民地支配や侵略に対する批判がきちんとされないままの進出だった。

 アジア各国政府と各国支配層は、経済成長する日本との貿易や投資のために、日本の経済進出に応じる対応をとった。経済進出したものの日本政府や日本企業は、かつての植民地支配や侵略に対し謝罪せず、それどころか触れもしなかったため、アジアの人々から批判が立ち上がった。しかい、日本政府はアジア各国政府を相手に、経済協力、経済援助などをばらまきそれに対応する姿勢をとった。
 そのためこの時期になっても日本人と日本社会の大勢は、過去の侵略や植民地支配に対して、加害に対して、意識せずに済ませてきた面がある。あるいは、経済援助の問題、「お金の問題」と理解する傾向が生まれた。

 そんななかで、市民運動のあいだで、在韓国被爆者への支援の始まりがあった。市民運動のなかから被害者の人権侵害に対する救済運動が始まる。ただし、当時の中国人や韓国人には実際的には日本へ入国できなかったし、他のアジア諸国の人々にとっても、日本に入国することはほとんどできなかった。

 アジア近隣諸国との関係をどうするのか、国民的な議論があったわけではないが、市民運動のなかに人権救済の動きが生まれたことに注目したい。

3) 冷戦後、80年代末

 アジア諸国の経済的発展、市民社会の形成にしたがって、台湾や韓国で民主化運動が力を増してくる、被害者が声をあげてくる、市民団体、人々の交流も盛んになってきた。

 1990年代初めには 慰安婦の問題が取り上げられる、韓国の金学順さんが慰安婦被害者として初めて名乗りあげ、外交問題になった。そのほかの国々でも名乗りをあげる慰安婦被害者が続いた。アジア各国における一定の民主化の進展、人権尊重の機運が、被害者が名乗り出る条件をつくった。

 日本政府の対応は、93年の河野談話、95年村山談話、アジア女性基金などとして現れた。遅ればせながら「戦後処理」が課題となったのである。

 このような変化は、90年代前半は、確固としたものではなく「ぼんやりとしたもの」だったが、日本が謝罪したほうがいいという世論が、日本国内で生まれだしてきたからでもある。当時の若い世代は、「謝罪への転換」に賛同しており、戦後補償に肯定的だった。周りの国や市民からの批判に対して、どう対応するのかという課題が浮かび上がってきたのをそれなりに意識したと言える。

4)世論の逆転と国民間の葛藤の激化

 90年代末から「揺り戻し」が起きている。
 90年代末、新しい教科書をつくる会若手議員の会、のちに日本会議が発足する。
 どうして揺り戻しがおきたのか? これは何か? 歴史修正主義はなぜ広がったか?注意深く検討しなければならない。
 日本の右翼保守層が時間をかけて準備してきたのは明らかだ。雑誌、TV・・マスメディアのあいだで、歴史修正主義が徐々に広がっていった。
 
 政府や保守的な論調、右派の主張などがあふれるようになった。その結果、日本社会では、戦後補償の問題を「個々人の人権侵害の救済」というより、「国家間で調整する問題」ととらえる認識、傾向が広まった。その浅い認識の上に「まだ、韓国や中国は謝罪を要求するのか?」という気分が日本人のあいだに広がった。

 日本人の多くは、韓国や中国、アジア諸国から歴史問題を持ち出されると、日本人と日本が攻撃されているような認識を持つ人が多くなった。人権侵害の救済の問題ととらえることができない。

 そのような認識が果たして正当なのか? についての国民的な議論がほとんどできていない。
 日本政府は95年に、慰安婦被害者に対し「アジア女性基金」で対応した。その考え方は、「要求は、どうせ最終的にはお金でしょ」、だから「お金を配って解決する」という考え方である。日本政府がお金を払った、基金を創設したことから、日本人の多くもそのような認識を持つに至っている。「とにかく政府が頭を下げ、お金を払う」それが解決というとらえ方があったし、いまもある。その考え方が克服できていない。

 一旦支払ったのに、韓国政府や慰安婦、徴用工の被害者が「いまだに解決を要求するのはおかしい、お金を払ったのだから、そのあとは触れてほしくない」というのが、多くの日本人の本心に近い認識であろう、そのような認識を多くの日本人が現在もなお持っている。

 日本人と日本社会は、いまだに「責任」の意味を誤解している、あるいは正しく理解していない。それゆえ、歴史問題を持ち出されると日本人全体を攻撃されているととらえる、そういう傾向が多数を占める「奇異」な状況が成立している。

 2000年代から日本社会では 「和解」が一つのキーワードとして頻繁に語られるようになった。キーワードとして頻繁に出てくるのは、それなりの理由がある。

 頻繁に出てくるものの、日本人と日本社会は「和解」の本当の意味を理解していない。

 本来の「和解」の意味は、過去の戦争・植民地支配に対して、日本政府が加害の事実をきちんと認めたうえで謝罪・賠償であるが、そのことが理解されていない。人権侵害の救済であることが理解されていない。その上で、あるいはそれとともに、市民社会が隣国の人々と関係をつくっていくことでもあることが理解されていない。

 隣国から歴史問題や戦争責任を提起されて、「その問題を解消したい、あるいは未来志向でもはや忘れて対処したい、何で解決しないんだ‥‥」などという気持ち、問題の本質がどこにあるか認識していないイライラが、「和解」というキーワードになって現れている。

 戦後の日本の経済成長によって、アジア諸国と人々にお金を配って関係をつくってきた、過去には触れないできた、それですましてきた。このような関係、考え方に影響を受けている日本人、日本社会は認識を転換しなければならない。市民運動はその課題を自覚して日本人のあいだに、新たな歴史認識の共有を意識する運動を進める必要がある。そのような努力をアジア社会の市民運動とも共有していくなかで、加害者側の意識の変化、被害者側の納得、これら全体を実現していくことがが、本当の「和解」の意味となる。

 それができていない、あるいは意識的に自覚されていない面がある。それゆえ、日本市民の間で、近隣諸国の「反日」へのいらだちが見えるようになっている。例えば、2005年廬武鉉大統領の3・1節演説などに、「反日」だという反応が出てくる。
 あるいは、韓国や中国が歴史問題に触れれば、TVなどは「反日だ!」という反応、報道が出てくる。
「反日」へのいら立ちが「和解」という言葉の繰り返しを生んでいる。

5)市民運動のこれから

 「和解」の意味をきちんととらえなおした上で、めざす市民運動の活動が重要である。そのために市民運動の歴史を意図的に記録し記憶していく必要があると、私は考えている。

 現在は、国家間の和解ではなく、日本社会における国民内部での分裂、対立が広がっている。現代日本社会は、困っている人を助けようという気運が、最近明らかに後退している。
 その背景には、日本経済の衰退、格差拡大、それに伴う市民一人一人のいっそうの孤立、分断化があると思われる。

 「経済大国」日本の姿は薄れた。「アジア唯一の先進国」の地位が日本人の自信の根拠だったが、その基盤が崩れ自信を喪失している。他方において、中国はすでに日本の3倍のGDPであるし、台湾、韓国はすでに一人当たりのGDPは日本とほぼ並んでいる。技術革新においても、すでに中国企業や韓国企業が多くの分野で日本企業を凌駕している。日本はここ20数年、ほとんど経済成長していない。そのなかで格差が拡大し、貧困化や地方の荒廃、労働者の階層化を分断、孤立化が目立っている。

 戦後の日本はアジア随一の高度成長を成し遂げたことで、日本人と日本社会はある「自信」のようなものを持ってきたし、その気分でアジア諸国の人たちに接してきたが、いまその基盤、背景が崩れている。
 
 市民社会、市民運動においては、「自信」を別の基盤の上に再構築することが必要だ。その基盤は、日本国憲法であり、人権尊重の理念である。それを現代と近い将来の日本人と日本社会の「自信」の新たな根拠にしていかなくてはならないし、市民運動は意識的に追求していかなくてはならない。その上に、市民社会、市民運動同士の国際的な信頼、連帯が広がるのだろうと思う。
(文責:林 信治)





















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