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堀田善衛 『夜の森』を読む [読んだ本の感想]

堀田善衛 『夜の森』を読む


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1)侵略戦争を描いた堀田善衛

 2018年は堀田善衛生誕100年であり、11月に富山でシンポジウムがあった。堀田善衛は高岡市伏木の生まれ。

 戦後『広場の孤独』、『歴史』、『記念碑』、『奇妙な青春』などの一連の作品をわずかの間に世に送りだした堀田は、日本が引き起こしたアジア太平洋戦争と敗戦がもたらした結果と、そこにおいて日本人それぞれがどのように振る舞ったかを描いた。そのことで今後どうすべきかを問うている。

 1955年には双子のような二つの小説、シベリア出兵を描いた『夜の森』、南京虐殺を描いた『時間』を発表した。ともに日記体の小説であり、『時間』の語り手は中国国民党海軍部に勤める知識人・陳英諦であり中国人から見た南京大虐殺を描く、『夜の森』はシベリアに出兵した筑豊の貧農出身兵士・巣山忠三が、自身と日本軍の振る舞いを綴る。

 佐々木基一との対談で堀田はこの二つの小説について、当初は一つの小説として構想したと語っている。日本による侵略戦争で何があったか、そこにおける加害と被害を双方の当事者の目と心情を通して描こうとした。『時間』は2015年岩波現代文庫に収録され、辺見庸が解説を書いている。

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<『夜の森』単行本1955年>


2)『夜の森』を読む

 『夜の森』は、筑豊出身の下級兵士、巣山忠三が語り手の、大正7年(1918年)9月8日から大正8年7月6日までの日記体の小説。シベリア出兵は1918年から1922年の間、連合国(アメリカ合衆国・イギリス帝国・大日本帝国・フランス・イタリアなど)が「ボルシェビキによって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。

 忠三は小作人出身で尋常小学校を出て以来、百姓の手伝い、本屋や新聞屋の配達小僧、呉服屋の手代などを経て従軍した。ウラジオへ上陸してから、ハバロフスクからアムール川沿いのブラゴエシチェンスクまで各地を転戦する。

 貧困や逆境にはなれている忠三は、軍隊で兵士が牛馬のように扱われることにも「忠勇愛国の美点を備えた日本軍人でなければ到底出来ぬ」と考える典型的な日本兵士。クラエフスキー戦では「逃げていく六尺もある大きな敵をうしろからブスーリブスーリと突き殺していくのであるから、この戦争も面白い」と記し、インノケンチェフスカヤ村では村民に対し「のどをとおす首をとおす胸をつくという風になぶり殺しをやった。もうこのときは人を殺すをなんとも思わない、大根か人参を切る位にしか思って居ない。心は鬼ともなったのであろう。人を殺すのがなにより面白い」、さらに「・・・家の外の、自分が殺した仏たちがかたく凍ってござる、その骨が凍みつき、ポッキン、ポッキンと折れるような、そんな音が耳に入って来る・・・(同僚の)上村と戸塚の二人が露人の女のところ行こうとさそった・・・・・殺したあとの夜が来ると、妙に不安で女が欲しくなり常軌を逸したくなるようだ」と書いている。

 過激派(=ボルシェビキ)や住民の虐殺に快感を覚えるが、現地で軍に雇われた花巻通訳の影響で次第にこの戦争への疑いを持ち始めていく。「人を殺しすぎると思う、・・・村を焼きすぎる、・・・将校も兵隊も物をとる者がふえて来た」と書くようになる。

 そのころ、国内で米騒動が起きたのを知る。「我が日本にも過激派が出来した」、「我々シベリア遠征軍が、あまりに沢山の米を持ち出したから内地では貧民の米騒動が起こったのではないか」と忠三は考えるが、しばらくして米騒動に軍隊が出て鎮圧したことを知り衝撃を覚える。内地からの友達の便りで、故郷の炭坑に入っている連中のほとんどが米騒動時の炭坑暴動に参加したらしい、それを我が留守部隊もでて鎮圧した。我が友人知り合いも炭坑に入って居る。忠三は自分がその場に居合わせたらと考え、シベリア戦争と軍に疑問を持つに至り、覚醒し始める。

 このころになると厳冬のなかでの戦闘が続き、上官によるあまりに苛酷な扱いに反抗する兵士も現れてきた。軍上層部は兵士が過激派にかぶれていないか極度に警戒するようになり、日本軍の非道な戦闘ぶりを故郷に書き送った忠三にも疑いをかけられる。忠三らの凱旋帰国の前に、露人や朝鮮人に親切だった花巻通訳が憲兵に殺される事件が起きる。その殺害現場を見ていた同僚の上村は憲兵にくってかかり取っ組み合いになるが、逆に営倉入りとされてしまう。

 「内地へ帰って満期除隊したら、黙って働こう。・・・・花巻さんと上村のことは忘れようとて忘れられぬ。日本は露西亜のように野放図もない国ではないから、チョット人様と違ったことをやったり考えたりすればすぐに何かがやってくる運命になっておる。・・・ともかく凱旋は万歳。」と綴る。

 忠三の覚醒は未発に終わり、勤勉な庶民の誠実さや知的欲求は軍隊内で、あるいは日本社会の同質性のなかで逼塞させられていく叙述で小説も終わる。

 小説の題『夜の森』は、下記の記述からきている。「ドボスコーイの激戦のとき、一時疎林のなかに伏し、樹林に弾丸や砲弾の破片があたり、ビシッ、バスッという、じつに厭な音をたてる。シベリア全体が、暗い気味の悪い「夜の森」のようなもので、そこには虎や狼のようなけだものがいっぱいうごめきひしめいていて、ときどきピカッと異様な眼玉を閃かせる、我々は本当のところ誰を相手にしていかなる名目で戦っているのかがはっきりしないような、不気味な気がする森のなかにいる」
 (この項の多くは、シンポジウムでの明治大学・竹内栄美子さんの報告、「1950年代の堀田善衛―-『時間』を中心に―」に拠っている)

3)忠三は今も生きている民衆の一人

 忠三の揺れ動く気持ち、その上で「内地へ帰ったら、黙って働こう」と考えたのも、多くの兵士の心情であったろう。

 それはシベリア出兵時に限らず、アジア太平洋戦争を体験した兵士も同質の心情を持ったのではなかろうか。

 食糧さえ十分に輸送配給しない日本軍はしばしば現地調達した。「徴発」、あるいは「緊急購買」などという「呼称」を使用しながらも、実際には食糧や財産を強奪した。そればかりでなく火を放ち女性を強姦し、住民の虐殺を行ったのである。多くの兵士は自ら体験した。慰安所へ通い慰安婦の存在やその境遇も知っていた。それらを知りつつも多くの兵士は帰還後、沈黙して過ごした。
 
 『夜の森』『時間』が発表された1955年当時、南京虐殺は嘘だとか、という堀田への非難は起きていない。帰還した兵士らは生存しており、口に出して言えないものの「ある種の常識」であった。私たちの祖父や曾祖父の世代の日本の男たちの多くが、かつて相手国土を侵略しそこに暮していた人たちとのあいだに加害者と被害者という立場でぬきさしならない関係を持っていたのである。

 にもかかわらず、忠三のように、あたかもそういった体験などまったくなかったかのように多くは沈黙し過ごした。
 
 戦後、主流であったそのような対応は、中国や朝鮮、アジアの人たちの心情を知らないで居続けるという日本社会の姿を常態としてきたのである。その延長上にある平成の日本社会は、いっそう過去を顧みなくなったし、死者の声を聞かなくなった。そのことで未来への不透明感が増しているのだろう。

 忠三が「内地へ帰ったら、黙って働こう」考えたと同じように、日本社会は再び画一化への圧力が強まりつつある。学校でも企業内でも同調圧力は強まり、自分の考えを持たず主張もしないで、周りの顔色を窺い「気くばり」と「忖度」をするばかりの世の中となりつつある。昨今は特に「無知」という土台に立って過去を「美化」する風潮、あるいは「無知」を通り過ぎた意図的な「忘却」や「捏造」までが目立ち、暴論が幅を利かす社会となっている。

 歴史認識を修正し、慰安婦被害者の声を聴かない道へと踏み込んだ日本社会が失ったものはとても大きい。

 歴史認識を修正した分だけ東アジアの国々を見下し戦争のできる国へと変質した。慰安婦問題を抑え込んだ分だけ、女性の人権が軽んじられ#Me Tooが広がらない日本社会となった。

 1950年代に堀田善衛は、日本の引き起こした戦争は何であったか、日本人がどのようにとらえなおすべきか、提示してみせているのである。
 生誕100年は過ぎたが、『夜の森』『時間』を読み直すのもいいと思う。

 『夜の森』は堀田善衛全集2巻に収録されている。単行本はすでに絶版。
 『時間』中国語版(翻訳:秦剛・北京外国語大学教授)が18年年7月に人民文学出版社から刊行された。
(文責:児玉繁信)

(*19年3月発行「ロラネットニュース25号」に掲載)

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<『時間』 2015年 岩波現代文庫>











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